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ChatGPTと学ぶ日本史・第二夜~第8回――分担統治という選択~鎌倉幕府は何を担い、何を担わなかったのか

鎌倉幕府とは、いったいどのような政権だったのでしょうか。
「日本初の武家政権」「全国を支配した幕府」といったイメージは広く共有されていますが、果たしてそれは実態に即した理解と言えるのでしょうか。

本記事では、前シリーズでの自身の記述のうち、誤解を招きかねなかった部分を起点として、「鎌倉幕府とは何だったのか」という総論をあらためて整理します。
鎌倉幕府は、もともと「反乱軍」という純軍事的な集団から出発し、朝廷から段階的・追認的に「軍事・警察権」などの権限を委ねられながら成立した、きわめて限定的な権力体でした。

その統治機構は、律令制国家のような中央集権的・網羅的なものではなく、御家人を対象とする「武士特区」、あるいは「御家人専用窓口」とでも呼ぶべき性格を持っていました。本記事では、この朝廷と幕府が役割を分け合う体制を「分担統治」と捉え、その構造と限界を検討します。

また、承久の乱後に御家人の勢力が西日本へ広がったことによる「見た目の全国化」と、実際の統治構造とのズレ、さらに朝廷の幕府依存がどのように進んでいったのかについても、「六波羅探題」を例に具体的に考察します。

本稿は「鎌倉幕府ザックリ総論」の前編にあたります。
次回は、今回整理した視点を踏まえつつ、もう少し幕府内部の事情に目を向け、通史的な流れの中で「等身大の鎌倉幕府像」を描いていく予定です。
※約8700字


はじめに

前回は、両統迭立期の「国政」とはどのようなものであったのかを、御前会議である「院評定(いんのひょうじょう)」の内容から概観しました。

評定では、伝統的な神事仏事に関わる事項から院の家政、朝廷内の人事に至るまで、実に様々な事柄が取り扱われていましたが、その中でも特に大きなウェイトを占めていたのが、土地の権利などに関する訴訟、すなわち「所務沙汰(しょむざた)」でした。

注目すべき点として、亀山院政期に評定が「徳政(とくせい)評定」と「雑訴(ざっそ)評定」に分化・専門化され、さらに雑訴評定の下部機関として「文殿庭中(ふどのていちゅう)」が設置されたことが挙げられます。

これは、増え続ける所務沙汰などに対応するため、迅速かつ実務的な処理を可能にする目的で行われた、いわば「行政改革」であったと言えるでしょう。

この土地の権利問題に関わる争議(相論)の増加については、争議発生の出発点こそやや異なるものの、朝廷・幕府の双方が共通して抱えていた問題でした。そして幕府は、朝廷に先行する形で、30年以上早くこの問題に組織的に対応していました。

ただし、幕府の司法機構はあくまで「御家人専用の窓口」であったため、畿内近国や西日本の貴族・非御家人・寺社などはこれを利用することができませんでした。その結果、当時の日本は「朝廷の事は朝廷で、幕府の事は幕府で」それぞれが対応する、いわば「分担統治」とでも呼ぶべき状態にあったと考えられます。

つまり、当時の「国政」とは、朝廷・幕府のいずれにおいても「土地の権利関係の調整」が中心的な課題であり、第7回までの内容と合わせて考えるならば、この「国政の分担」と「朝幕の協調関係(あるいは相互依存)」こそが、実相に近い姿であったと言えるでしょう。

さて、今回は両統迭立に至るもう一方の当事者である「鎌倉幕府側の事情」に触れていきたいと思います。まずは総論的に、「そもそも“鎌倉幕府”とは何であったのか」という点を概観するところから始めることにします。

また読者の方からため息が聞こえてきたような気もしますが、実はこの総論に立ち返るきっかけは、前シリーズでの自身の記述の中に、どうしても気になる点を見つけてしまったことでした。

何が問題か

前シリーズ第29回「義経の都落ちと『文治の勅許』――幕府制度誕生前夜の攻防」の中で、「文治の勅許」の意義について、私は次のように書いています。

これは、日本史上において「守護・地頭制」が正式な制度として確立された瞬間であり、頼朝の東国政権が“全国的な武家政権”へと変質していく決定的な画期(ターニングポイント)といえるでしょう。

全体を通して見れば、必ずしも間違いであるとは言えないのですが、現在読み返すと、やや誤解の余地を残す書き方であったと反省しています。

前半の「守護・地頭制」については、次の段落で補足説明を行っているため、問題点としてのウェイトは比較的低いと言えます。しかし、特によろしくないと感じているのが、後半の「全国的な武家政権」という表現です。

この部分だけを見ると、「武家による全国支配政権」という意味にも読み取れてしまいますが、もちろんそのような事実はありません。前シリーズでも繰り返し述べてきたように、鎌倉幕府の本質はあくまで「武士特区」にあり、今シリーズではこれを「御家人専用窓口」とも表現しています。

つまり鎌倉幕府とは、「朝廷が存在して初めて成り立つ」権力体であり、ここまでややくどいほどに「院を含む朝廷が、実体を持った政権として存在していた」ことを強調してきたのも、この幕府存立の前提を説明するためでした。

専門家の先生方に叱られることを承知の上で、あえて簡略化したイメージを用いるならば、鎌倉幕府とは「武士(御家人)による組合」のような存在であり、朝廷との「団体交渉」の窓口であったと捉えると、その一側面はイメージしやすくなるかもしれません。もっとも、これはあくまで一側面を切り取った比喩であり、幕府が現代的な労働組合とは全く異なる存在であることには、充分な注意が必要です。

以上のような理由から、まずは「鎌倉幕府ザックリ総論」を押さえておいた方が、その後の歴史の流れも理解しやすく、より腑に落ちやすくなるのではないかと考えた次第です。

”転換点”か”通過点”か

実は、先ほど引用した一文の中の「決定的な画期(ターニングポイント)」という表現も、現在ではやや適切ではなかったのではないかと感じています。

確かに「画期」であることは間違いないのですが、それは歴史の方向がそこで一気に転換した「ターニングポイント(転換点)」というよりも、むしろ後から振り返って確認される「チェックポイント(通過点)」と表現した方が、より実態に即しているように思われます。

源頼朝が「反平氏」を掲げて挙兵した当初、彼はあくまで「一介の流人」に過ぎず、平氏から見ても、また朝廷から見ても、その行動は「謀反」と認識されるものでした。ここで注意すべきなのは、当時の平氏、より正確には「平家政権」が、形式上も実質上も、正統な手続きを経て成立した政権であったという点です。その立場の差は、頼朝とは文字通り「天地の開き」がありました。

特に問題となるのが、頼朝が勢力を拡大する過程で、朝廷の正式な権限を経ることなく、独自に土地の「安堵」や「給与」を行っていた点です。これは当時の公的秩序から見れば、明確な越権行為であり、場合によっては反逆的行為と見なされても不思議ではありません。

この時期すでに「地頭」という言葉が用いられていた可能性を指摘する説もありますが、ここでは深入りしません。ただし、「後の地頭に類する存在を、頼朝が独自に設置していた」可能性が高い、という点については、比較的確度の高い推測であると言えるでしょう。

このように見ていくと、鎌倉幕府の母体となったのは、当初はあくまで「反乱軍」として出発した純軍事的な集団であり、初期幕府が「軍事政権」あるいは「武断政治」と表現される理由も、ここに求めることができます。

つまり、少なくとも挙兵当初の段階においては、頼朝の勢力は「そもそも政権ではなかった」のであり、また最初から明確に「政権を樹立する」ことを意図していたと見るよりも、状況に応じて後からその性格が変質していったと捉える方が、実態に近いのではないでしょうか。

反乱軍から幕府へ

この「反乱軍」が、平家政権が権力を失い滅亡していく過程――すなわち治承・寿永の乱の中で――朝廷から頼朝の行動が次第に公認(追認)され、最終的には「征夷大将軍宣下」に至っていく。その一連の流れの中に位置づけられる複数の「通過点(チェックポイント)」の一つとして、「文治の勅許」を捉える方が、よりクリアな理解であったと考えます。

従って、あの一文を書くのであれば、次のように表現した方が、より誤解が少なかったでしょう。  

これは、日本史上において「守護・地頭制」が朝廷によって公的に追認されていく重要な前例となったものであり、頼朝の東国政権が“公的な武家政権”へと変質していく大きな画期(チェックポイント)といえるでしょう。

何やら弁解めいた文章が続いているように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、もちろんこれは単なる言い訳ではなく、きちんとした意味を持っています。

このような「通過点(チェックポイント)」として捉えるべきものが、「寿永二年十月宣旨」「文治の勅許」「建久三年新制」です。それぞれの大まかな内容については、前シリーズで既に述べていますので、宜しければそちらをご参照下さい。

重要なのは、これらの措置が、それぞれ温度差こそあるものの、共通して朝廷からの「軍事・警察権(検断権・刑事裁判権)」の部分的な移譲を内容としている点です。

逆に言えば、「これだけ」であり、そして最後まで「これだけ」でした。これこそが鎌倉幕府の本質の一面であり、「鎌倉幕府とは何ぞや」という問いに対する、有力な答えの一つなのです。

即ち”鎌倉幕府”とは

これもかなり乱暴に言えば、鎌倉幕府とは「自衛隊兼広域地方警察兼刑事裁判所」のような存在であった、とイメージすることができます。

「そんな馬鹿な」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この見方は、幕府の組織構成からも一定程度読み取ることが出来ます。

すなわち、歴史の教科書にもほぼ確実に登場する「政所(まんどころ)」「問注所(もんちゅうじょ)」「侍所(さむらいどころ)」がそれです。

これも前シリーズで触れましたが、政所はもともと高位貴族が設置できた家政機関であり、問注所もまた、家政機関内部の「公文所(くもんじょ)」の延長線上にあるものと考えられています(異説はあります)。侍所についても、古くから存在する「詰所」を意味する語でした。

その後、「執権」や「連署」、「評定衆」、前回も少し触れた「引付衆」などが整備されていきますが、これらは基本的には既存組織に対する部分的な機能追加や運用調整であり、「鎌倉幕府という仕組み」そのものを全面的に作り替えるような変化ではありませんでした。

たとえば「六波羅探題」「鎮西探題」、さらには「奥州総奉行(※不明点が多く議論があります)」などを加えて考えてみても、これらはあくまで鎌倉幕府の出先機関、あるいは地域対応のための「出張窓口」と捉えるのが適切でしょう。必要に応じて追加された機能拡張であって、全国統治を前提とした恒常的行政機構とは性格を異にしています。

実態はさておき、律令国家が備えていた「二官八省一台五衛府」と比較すれば、鎌倉幕府の組織が規模・網羅性のいずれにおいても、はるかに限定的であったことは明らかです。

また、武家の基本法として大きな意義を持つ「御成敗式目(貞永式目)」についても、その主眼はあくまで御家人間の相論、すなわち所務沙汰の判断基準を示す点にあり、律令のような包括的な法体系を目指したものではないと指摘されています。

以上を踏まえると、鎌倉幕府は「全国的な統一政権」であったのではなく、朝廷から軍事・警察権などの一部を委譲された、きわめて限定的な権限を持つ政権であったと捉えることができるのです。

何故”全国的”に見えるのか

それでは、鎌倉幕府がこのように「限定的」な権力体であったにもかかわらず、なぜしばしば「全国的な」、あるいは表現を少し整えるならば「全国的に影響を及ぼす統一政権」のように見えるのでしょうか。この疑問が湧いてくるのは、ごく自然なことだと思います。

その「表層的」な要因の一つとして挙げられるのが、承久の乱の結果、御家人の勢力が西日本にも大きく拡大したことです。確かに、一見するとこれによって「鎌倉幕府の権力が全国化した」かのように映ります。

しかし、これまで縷々述べてきた通り、「鎌倉幕府の窓口」を利用できたのは、あくまで御家人に限られていました。非御家人や貴族、寺社といった人々は、従来通り「朝廷の窓口」に訴えを起こすしかなく、幕府もまた、原則として御家人以外の訴えを受理していません。

つまり、この点に関しては「見た目」の印象が先行しているだけであり、少し立ち止まって整理すれば、実態は比較的容易に見えてくる問題だと言えるでしょう。

それよりも重要なのが、先に「チェックポイント」として触れた、朝廷からの「軍事・警察権(検断権・刑事裁判権)」の部分的な移譲という点です。

これも前シリーズで簡単に触れた通り、この移譲は朝廷の権限を「全面的」に幕府へ委ねたものではなく、基本的なスタンスはあくまで「朝廷の事は朝廷で、幕府の事は幕府で」という分担関係にありました。

もっとも、御家人の勢力が西日本へと拡大したことによる「見た目」の変化に加えて、時代が下るにつれて、朝廷側の幕府への依存が次第に強まっていった、という現実的な事情も存在します。

とりわけ「悪党追捕」に関しては、朝廷は事実上、幕府に頼り切る状態となり、本来であれば朝廷の管轄に属する地域にまで、幕府が人的・軍事的リソースを割かざるを得ない状況が生まれていきました。

この構造が、結果として幕府滅亡の一因ともなっていくのですが、この点についてはここでは深入りせず、いずれ稿を改めて触れたいと思います。

それでは、そもそも幕府は、なぜこのような要請を「断れなかった」のでしょうか。

幕府が”断れない”背景

この理由について、私は大きく二つのポイントがあったと考えています。

一つ目は、そもそも、いわゆる「地頭制」とは、「公領荘園制」という「職(しき)の体系」に依存、あるいは寄生することで成り立つ制度であった、という点です。

またしても顔を出してきた「荘園」ですが、この点については、前シリーズの終盤において、「地頭が存在し得る前提条件」として、多少詳しく述べてきたところでもあります。

これもここでは深入りしませんが、歴史用語としての鎌倉期の「悪党」とは、かつて考えられていたような反幕府の抵抗勢力ではなく、主として「公領荘園制」の隙間を突き、不法・脱法的に利益を得ようとする人々を指すものであり、荘園の名義上の所有者である貴族(本家・領家)側の視点から見た「反社会的存在」と捉えられるのが、現在の一般的な理解です。

したがって、この「悪党」を放置することは、院や貴族を含む「広義の朝廷」の統治基盤そのものを弱体化させかねず、それは同時に、「朝廷の権威を前提として成立していた幕府自身の存在根拠」を揺るがす事態にも直結します。

このため、たとえ御家人が直接関与しない案件であっても、幕府はそれを「自らの問題」として引き受けざるを得なかった、という構造があったと考えられます。

そして、もう一つのポイントが、前段で述べた「通過点(チェックポイント)」の存在です。

先に挙げた三つのうち、特に「寿永二年十月宣旨」は、後の展開を考えると、幕府の運命を大きく方向づけた「前例」であったと捉えることができます。この宣旨の要点を簡単に言えば、「東国(東海道・東山道)の公領および荘園を元の所有者に回復することを頼朝に命じ、そのために必要な実力行使を認める」というものでした。

これは、事実上、頼朝の勢力を「東国政権」として朝廷が公認(追認)したものと理解されていますが、同時に幕府側は、「公領・荘園の秩序回復と維持を通じて、朝廷の徴税権を支援、あるいは部分的に代行する」という役割を、構造的に引き受ける立場に置かれたとも言えるでしょう。

この「前例」は、やや大袈裟に言えば「幕府の存在理由」そのものにも関わる性質を持っていたため、後の時代において朝廷からの要請を前にして、「そもそも断るという選択肢がなかった」のではないか、と私は考えています。

もっとも、特に後半の点については、私自身の素人考えも多分に含まれていることを、あらかじめお断りしておきます。ただし、原則として「朝廷あっての幕府」「公領荘園制あっての地頭」という構造を前提に考えるならば、幕府が次第に負担を引き受けざるを得なくなっていった流れそのものは、ある意味で必然であったと捉えても、大きく外れてはいないのではないでしょうか。

六波羅探題

この問題を考えるために、ここでは「六波羅探題」を一つの具体例として取り上げてみたいと思います。

六波羅探題については、教科書などで承久の乱後の戦後処理の一環として、「朝廷の監視」を主目的に設置されたかのような説明を見かけることがあります。しかし、この点については、朝廷と六波羅が「互いに目と鼻の先に位置していた」結果として、そう見えやすいだけであり、必ずしも設置当初の主目的であったとは言い切れないように思われます。

承久の乱の「戦後処理」という観点から見れば、むしろ重要だったのは、「西面の武士」に代表される御家人の「上皇と幕府の両属」関係を解消し、御家人を明確に「幕府専属」の存在として把握・統制することでした。そのための拠点として六波羅探題を位置づける方が、より実態に即しているように思われます。

当時成立したのは、幕府の強い関与のもとで立て直された「後高倉皇統」の朝廷であり、幕府にとっては、積極的に敵視(または警戒)して監視すべき対象というよりも、むしろ「安定して機能してもらわなければ困る存在」であったと考える方が自然でしょう。

その意味で、六波羅探題の役割を「監視」と表現すること自体が誤りとは言えませんが、それは敵対的な監視というよりも、「何かあった場合には速やかに対応・支援を行うための常設窓口」と理解した方が、状況をより立体的に捉えられるように感じます。

また六波羅探題は、西国へ移住した御家人に対する「出張窓口」としての役割も担っており、御家人間の相論の増加などに伴って訴訟ニーズが高まるにつれ、その取り扱い業務は次第に拡大していきました。その結果、六波羅探題は幕府内部において、「執権」「連署」に次ぐ重要なポジションを占めるようになっていきます。この点については、前シリーズでも簡単に触れました。

そして当初、京の治安維持は主として検非違使が担っていたとされています。しかし、承久の乱後、「西面の武士」は解散され、「北面の武士」も院の警護を中心とする限定的な規模へと縮小されたため、検非違使だけでは充分な治安維持が困難となっていきました。その結果、当初は「検非違使と六波羅探題」の共同による対応が行われ、最終的には「六波羅探題が京の治安維持を実質的に担う」体制へと移行していったと考えられています。

このように、朝廷が幕府の実力に依存せざるを得ない構造は、次第にその範囲を広げながら固定化していきました。そして、その延長線上にこそ、「両統迭立」という政治構造も位置づけられるのではないでしょうか。

おわりに

以上、過去記事における「誤解を招きかねない」記述の補足と修正を起点として、「鎌倉幕府とは、どのような存在であったのか」という総論を、ザックリと整理してみました。

記述の多くがやや「朝廷視点」に寄っている感は否めませんが、大まかには、鎌倉幕府とは「反乱軍」という純軍事的な組織から出発し、朝廷から「軍事・警察権」などの権限を、段階的かつ追認的に委譲されながら、「武士特区」とでも呼ぶべき限定的な権力体として成立していったものである、という点を見てきました。

また、その統治機構を見ても、律令制国家のような「中央集権性」や「網羅的な機能性」を備えていたわけではなく、組織規模・権限ともに、きわめて限定的なものであったことが分かります。この点からも、鎌倉幕府が「全国的な統一政権」であったとは言い難く、さらに言えば、そのような統一政権を積極的に目指していた形跡も、少なくとも制度上は確認しにくいことを指摘しました。

そして、「反乱軍」から「幕府」へと至る過程で、部分的とはいえ「軍事・警察権」などの国家権力の一端を担う立場となったことが、大きな前例となり、結果として「幕府が様々な負担を引き受けざるを得ない構造」に組み込まれていったのではないか、という点についても、素人考えを交えつつ述べました。

さらに、朝廷側の「幕府依存」の構造について、「六波羅探題」を一例として概観しました。

さて、これらの点を踏まえつつ、次回はもう少し「幕府内部の事情」に目を向け、やや通史的な視点も交えながら考えてみたいと思います。いわば今回の「総論」の続編にあたる内容となるため、個々の人名や年号、事件などには深く立ち入れないかもしれませんが、できるだけ「等身大の鎌倉幕府像」を描くことを目標にしたいと考えています。

それでは、次回もお楽しみに。

※この文章は、私が原文を執筆し、それをChatGPTが事実確認とリライトするという協業によって作成されています(最終的に若干の手修正を入れています)。

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