見出し画像

自分史:小学6年生

寄居養護学校の1年間。


─────────


寄居養護学校の一年間

転機

転機が訪れたのは、小学校六年生。
埼玉県立寄居養護学校は、埼玉県大里郡寄居町。
埼玉県の秩父地方の玄関口とも言える地域にあった。
僕は、小学校六年生の四月からそこに転校となった。(3回目の引っ越し)

 その学校は、病院と学校が併設されていて、病院から直接学校に通える施設だった。


僕は小学校六年生の新学期から、「養護学校」の生徒となった。
転校については、五年生の中頃からそれとなく聞かされていた。
不思議なことに無反応だったのを今でも覚えている。
五年生までの友達と別れるのが寂しいといえば寂しかったけれど、
五年生の担任と別れるのが嬉しかったような。
思えば、この頃既に、僕と両親との会話は無かったのだ。
「どうすれば、喘息が治るのだろう?」
ということについて、僕を交えて話することは無かった。
寄居養護学校への転校も両親が勝手に決めてしまったようだし、
僕よりも友人の方がいきさつを詳しく知っていたりした。
両親にしてみれば、
「寄居養護学校に転校すれば、喘息が治るだろう」
という判断と同時に、
「寄居養護学校に押し込めてしまえば、我々も喘息の苦痛から解放される」
という厄介払い的な気持ちもあったかも知れません。
(前の記事に書いた通り、ネグレクト)


入院


 昭和五十年四月一日、「養護学校」に併設されている病院に入院した。
私が寄居に旅立つ前日の夜、小学四年生の妹は、布団の中で泣いていたそうだ。
妹にしてみれば、たった1人の兄が遠い山あいの病院に入院してしまうことが悲しかったのだろう。

病院の入院患者は小学校一年生から中学三年生だ。
90%は小児喘息。
5%は腎臓疾患。
5%は心臓疾患の患者だった。
分校には、脳性まひの児童もいた。
僕は入院というものが初めてだった。
 僕が寝泊りすることになった部屋は、二号室で七人部屋だった。
部屋のリーダーは中学一年生の豊さん。
その他は、僕の他に小学六年生の高志くん・小学五年生の康晴くん・
小学四年生の弘治くん・康夫くん・小学三年生の幹彦くんだった。
全員が小児喘息だった。
隣の三号室は女の子の部屋だった。
部屋のリーダーは中学三年生の恵美子さん(心臓疾患)、小学六年生の恵子さん・幸恵さん・小学三年生の昌子さん(二号室康夫くんの妹さん)・小学五年生のまゆみちゃん。
この三号室のまゆみちゃんに、僕は一目ぼれしてしまった。

まゆみちゃん



寄居養護学校の生活サイクル

 寄居養護学校は、病院と小学校中学校が併設された特別な学校だ。
入院とは言わず、入所というのだが、当時は、
病院に入院しながら学校に通う便利な施設という風に理解していて、
あまり疑問は持たなかった。
 四月六日に、帰省していた入所者達が病院に戻ると、寄居養護学校は
にわかに賑やかになった。
四月七日に、始業式。
寄居養護学校では、小学校一年生から中学校三年生まですべてのクラスが
一クラスだった。
僕達六年生のクラスは、全校で一番人数の多いクラス。
それでもわずか十二人だった。
一クラス二、三人というクラスもあった。
 食事は病院の食堂に全員が集まってする。
学校は病院と廊下続きだ。
朝食が終われば、各自の病室に戻り学校の支度をして教室へ行く。
午前中の休み時間に、学校の廊下で喘息体操。
昼は食堂で食事して午後の授業。
放課後は、病室で過ごしたり、運動場で遊んだりする。
夕食も食堂で済ませて、夜も自由に過ごして九時に消灯。
朝は六時起床で、看護婦さんが各病室を巡回して検温・大小便の回数報告・喘息発作の有無程度報告などをする。
喘息の発作を起こした時は、治療室で吸入などを受けられる。
これが寄居養護学校の生活サイクルだ。
面会日は、月に一度と決まっていた。
毎朝、食堂で流れる《カーペンターズ》の歌と
先輩がいつも聴いていた《かぐや姫》の歌は、
私に大きな影響を与えた。

 寄居養護学校の生活のうち、今でも良く思い出すのが「洗濯」だ。
入所者の洗濯をしてくれる職員さんがいるのだが、
共同の洗濯場で、自分の衣類を洗濯する児童も結構いた。
驚いたのは、小学一年生の男の子が自分で洗濯をしていたことだ。
この記憶は、後年になって独り暮らしに役立った。
独り暮らしと言えば、僕は寄居養護学校の生活でいわゆる
「ホームシック」
にならなかった。
 僕が入所して六日後の四月七日、帰省していた前年度までの入院患者達が病院に戻って来た。

授業で、努力目標を書きました



 養護学校では、「親友」と呼べるような人間関係は作れなかった。
いつも、一緒につるんでいたのが、同級生の岡田君だった。
でも、本心で仲がよかったわけではなかった。
岡田君は暴力的で威圧的だった。
本当は付き合いたくないのに、仲の良いフリしてた。
思春期に差し掛かるこの時期に、「親友」を見つけられなかったことは、
人間形成に問題を残したかも知れない。
 それとは対照的に、五年生のまゆみちゃんに一目惚れして、ラブレターを書いていた日々は、潤いに満ちていた。


ピアニカ演奏

 


クラスで百人一首が流行

 

また、寄居養護学校では、少人数サッカーが楽しかった。
五年生・六年生合同サッカーをよくやった。


 理科の実験の授業では、良い経験をさせて頂いた。
試験管の受け渡しの際に落として割ってしまった。
僕とケイコさん。
どちらが渡したのか、どちらが受け取ったのか、
今では覚えていない。
その事件で僕が学んだこと。
手渡す時は、相手がしっかり掴んだことを確認してから手を離すということだった。

ソフトボール


ソフトボールは、嫌な思い出。

 

卒業

驚いたことに、その養護学校で暮らした一年間は、全く喘息の発作が起こらなかった。(※1)
発作の予防の為の吸入や「減感作」と
呼ばれる注射や学校で行われる喘息体操」などが効果があったのか?
僕は小学校六年生の一年間を養護学校で過ごした後、退院となった。
退院は、三月上旬だった。
実家に戻った(4回目の引っ越し)


 

脚注
※1 前の記事に書いた通り、
  僕の体験は、ネグレクト。


Please continue to…
─────────


or


Please return to . . .
────────────





いいなと思ったら応援しよう!

もうひとつの《1リットルの涙》 よろしければ、サポートをお願いいたします。