【歴史探訪】三木城跡 ~秀吉の「三木の干殺し」に耐え続けた別所長治の城~

(木々が茂る台地上に白い塀が見える)
天正6年(1578年)、三木城(兵庫県三木市)の城主・別所長治は突如、織田方から毛利方へ離反しました。当時、中国地方の攻略を進めていた秀吉軍は三木城を包囲するように、約40もの付城を築き、大規模な兵糧攻めを行いました。
この過酷な兵糧攻めは「三木の干殺し」とも呼ばれ、三木城では籠城戦が約2年間続きました。
その末、別所長治とその一族は、家臣と領民の助命を条件に降伏し、自害しました。
本稿では、籠城戦の舞台となった三木城跡とその周辺の三木合戦ゆかりの史跡をご紹介します。
【三木城跡】
三木城は、兵庫県三木市に位置する平山城です。
三木城と三木合戦の歴史について、現地に解説板がありましたので一部引用させていただきます。

三木城跡の概要
三木城は、美囊川左岸の台地端部に位置しています。15世紀末頃に、三木別所氏の初代当主則治によって築かれたと考えられます。
三木合戦では、羽柴(のちの豊臣) 秀吉を大将とする織田軍によって三木城の周囲に付城と多重土塁からなる包囲網が形成され、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われました。
落城後も三木が播磨における京都や大坂からの入口として重要な場所であったため、杉原家次、前野長康、中川秀政・秀成が城主となりました。文禄3年(1594) の中川移封後は、豊臣家の直轄地となり、一時的に廃城となったようです。
慶長5年(1600)、池田輝政の姫路入封にともない、池田領6支城の一つとなり、 家老の伊木忠次が入城しました。しかし、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となりました。
(後略)
二ノ丸跡(三木市立みき歴史資料館)

三木城二の丸跡には、現在、三木市立みき歴史資料館が建てられており、三木城跡の発掘品や三木合戦に関する資料が展示されています。
二の丸跡から発掘された備前焼の大甕の底からは、炭化した麦粒が検出されており、この場所には食糧貯蔵庫があったと考えられています。
しかし、発掘された14個の高さ94cmの大甕のほとんどは空で、麦もわずかしか残ってなかったといいます。秀吉軍の兵糧攻めによって城内の食糧備蓄が枯渇していた状況を物語っています。
(出土した大甕は、歴史資料館で展示されています。)


二の丸跡から本丸跡へ続く道がありますので、進みます。

二の丸跡と本丸跡の間は分断されており、かつての堀切(敵が尾根続きに侵入されないように掘削された堀)の名残があります。
上の丸稲荷神社

本丸跡にある稲荷神社です。
別所長治が、京都の伏見より勧請して城域に創建したと伝えられています。三木合戦後に戦国大名としての別所氏の滅亡後は、秀吉によって再建されました。
金物神社

同じく本丸跡にある金物神社は、金物づくりに縁ある天目一箇命、金山毘古命、伊斯許理度売命が祀られている神社です。
三木市は、全国屈指の「金物のまち」として知られ、古来から大和民族と出雲民族の交流の接点であったことから、鍛冶や金物づくりが盛んに行われてきました。
祀られている神々は、天岩戸隠れにもゆかりが深く、イザナミの子である金山毘古命は天の金山の鉄を採り、天照大神の孫である天目一箇命は刀や斧、銅鐸を作り、神伊斯許理度売命は、のちに三種の神器の一つとなる八咫鏡を作りました。
古式鍛錬場

金物神社の境内には、古式鍛錬場があります。

古式鍛錬場では、毎月第1日曜日に、ふいご(炉に空気を送り込んで火力を強めるための送風器具)を使って金物を鍛える古式鍛錬の実演が行われています。
三木市立金物資料館

金物神社の側には、実物の金物や資料が多数展示されている資料館があります。

昔の人々が使っていた大工道具から、現代の工業製品まで、約3,500点の大工道具が展示されています。(入館料も無料で、必見です。)
なお、三木金物の発展には秀吉も関わっています。三木合戦後、秀吉は荒廃した三木の復興を図るため、免税政策を実施して各地に散らばった人々を呼び戻したといわれています。この免税の特権は江戸時代にも引き継がれました。
伝天守台跡

神社の先には、天守台跡と伝わる盛り土状の遺構があります。
別所長治公像

天守跡の側に建立されている三木城城主・別所長治の像です。
別所長治は、約2年に及ぶ秀吉の兵糧攻めに耐え、三木城で籠城を続けました。最後は家臣と領民の助命を条件に降伏し、23歳で自害しました。

別所長治辞世の碑

天守台の上には、別所長治の辞世の句碑が建立されています。
今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば
なお『信長公記』には、別所長治が話したとされる内容が記されています。
別所兄弟は手を取り合って広縁に出た。定めの位置に坐し、家臣たちを呼び出した。「このたびの籠城では、兵糧が尽きて牛馬を食いながらも、城門を固めて籠城を成し遂げた。諸士の志、前代未聞の働きには、いくら礼を述べても申し足らぬ。今となっては、我々が切腹をして諸士の命が助かれば、これ以上の喜びはなない」と言い残し、長治は腹を切った。
太田牛一著 中川太古訳
新人物文庫出版

また、別所一族の辞世の句碑も建立されています。
別所友之
命をも惜しまざりけり梓弓末の代までも名の残れとて
別所長治の妻
諸共に消え果つる身こそはうれしけれ後れ先立つ習ひなる世に
別所友之の妻
頼め来し後の世までに翅をも並ぶる鳥の契りなりけり
別所吉親の妻
後の世の道も迷はじ思ひ子をつれて出でぬる行く末の空
三宅備前入道
君なくば憂き身の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも

天守跡からは、三木市街を一望できます。

市街地の先には森林に覆われた丘陵が広がっていますが、当時は織田方の付城が築かれ、三木城を包囲していました。
本丸井戸(かんかん井戸跡)

深さ約25mの大井戸で、石を投じると「かんかん」と音がすることから「かんかん井戸」と呼ばれています。井戸からは、別所氏愛用の鎧が出土したと伝えられ、後述の雲龍寺に保存されています。

模擬塀

お城らしさが感じられる場所です。当時は白漆喰ではないとみられますが、塀もしくは柵があったであろうことは想像できます。
切岸

三木城跡の北側に階段があります。

階段の途中まで下りた場所からの写真です。
切岸(敵の侵入を防ぐために人工的に造られた急な崖)となっています。
本町滑原遺跡出土石列遺構

三木城跡の麓にある商店街に石列があります(当時の場所からは移設)。
発見当初、石列の下の層は焼土層となっていたことがわかっており、三木合戦で焼けた痕跡と考えられています。石列はその焼土層の上から発掘され、これらは羽柴秀吉もしくは池田輝政時代のものとみられています。

【本要寺】

三木城跡より南西約400mの場所にある寺院です。
創建は不詳で元々は天台宗の寺院でしたが、鎌倉時代に日蓮宗に改宗しました。
三木城が落城した後、秀吉は平井山本陣から、この本要寺の本堂に本陣を移し、別所長治の首実検を行いました。


三木城主・伊木忠次の墓

徳川時代の三木城城主であり、姫路城主・池田輝政の筆頭家老であった伊木忠次の墓があります。

伊木豊後守忠次
伊木家初代当主
播磨姫路藩主池田輝政の筆頭家老であり
徳川時代の三木城城主である。
三木合戦の戦災後に復旧した城下町を殖産興業に力を入れ、経済の復興に尽力した。
伊木忠次は、かつて織田信長にも仕えており、美濃攻略時には伊木山城(岐阜県各務原市)で武功を挙げました。この功績で信長から「伊木」の姓を与えられました。また、この頃に池田輝政の父・恒興に仕えるようになったといれています。
(伊木忠次と伊木山城跡については、以下の記事に詳細を記載しています。)
【高尾山城跡】

高尾山城跡は三木城の支城で、別所長治の弟・友之が守備していました。
しかし、天正8年(1580年)1月11日、秀吉方の攻撃によって落城しました。
落城後に、秀吉がこの城に入り、三木城に対し降伏勧告を行いました。

堀切

尾根筋からの敵兵の侵入を防ぐために築かれた掘があります。

主郭

城の主要部で、西側を除く三方に約3mの土塁が築かれています。

【雲龍寺】

鷹尾山城跡から西に150mの場所にある寺院です。
天徳2年(958年)に創建と伝えられていますが、三木合戦寺には、三木城内にあったため、殿堂や伽藍は焼失したといわれています。

別所長治は自刃する前、雲龍寺の住職に後を託して愛用の金天目の湯呑みを贈ったと伝わります。
秀吉の兵糧攻めにより、別所方の兵たちは、城内の藁まで食べたという言い伝えがあり、雲龍寺では毎年1月17日(三木合戦終結日)に藁に見立てた「うどん」を食べて当時を偲ぶ会を催されています。

別所長治と正室・照子の首塚

雲龍寺境内に、別所長治と正室・照子の首塚があります。

天正8年(1580年)別所長治とその妻は、自らの居城・三木城を開き、自刃しました。首級は秀吉の陣地から安土の織田信長のもとに、送られたといわれています。首実検の後、雲龍寺住職が長治の首級を安土から持ち帰り、埋葬しました。

【大宮八幡宮】

雲龍寺から南へ約200mの場所にある応神天皇と八柱の神を祀る神社です。天永2年(1111年)に創建されたと伝えられています。
別所氏代々の守護神でしたが、三木合戦で社殿や記録は焼失したといわれます。
天正13年(1585年)に、当時の三木城主・中川秀政によって再建されました。

本殿は、慶長8年(1603年)に姫路城城主・池田輝政の命によって建てられました。
【法界寺】

三木城跡から南西へ約2kmの場所にある浄土宗の寺院です。
行基が聖武天皇の勅願を奉じて諸国を行脚していた際に、法界寺と名付け伽藍を建立したのが始まりとされます。
その後延徳年間(1489年〜1492年)に別所氏中興の祖・別所則治が諸堂を造営し、別所氏代々の菩提寺としました。

別所長治霊廟

別所長治が自害したとき、法界寺でその遺体が埋葬されたと伝えられており、霊廟が境内にあります。
【這田村法界寺山ノ上付城跡】

法界寺の裏山には、羽柴秀吉の重臣・宮部継潤の陣所があります。別所家ゆかりの法界寺の付近にまで織田方の付城が築かれていたことがわかります。
織田方の主な付城については、別の記事でご紹介しております。よろしければご覧ください。
