【歴史探訪】三木合戦 秀吉本陣跡 〜竹中半兵衛 最期の戦場〜

天正6年(1578)から天正8年(1580)にかけての約2年間、織田軍の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と、毛利輝元を後ろ盾とする三木城主・別所長治との間で、「三木合戦」と呼ばれる戦いが繰り広げられました。
この戦は、「三木の干殺し」とも呼ばれる徹底した兵糧攻めで知られ、そのために織田方は約40もの付城を築いたといわれています。その内、現在の平井山(兵庫県三木市)の付城は、秀吉が本陣を置いた場所と伝わっています。
また、数々の戦で秀吉を与力として支え続けた天才軍師・竹中半兵衛が、陣中で最期を遂げた地としても知られています。
本稿では、平井山周辺に残る、三木合戦ゆかりの史跡をご紹介します。
【秀吉本陣跡(平井山ノ上付城)】

平井山は、三木城跡から東へ約3kmの場所にあります。
三木合戦の経緯について、現地に解説板がありましたので一部引用させていただきます。
秀吉本陣跡の概要
三木合戦の際、羽柴(後の豊臣秀吉)が本陣とした付城です。
美嚢川と志染川の間に挟まれた丘陵上に位置し、主郭Ⅰからは三木城のほか、播磨町の海岸付近や明石海峡大橋等を望むことができます。
天正6年(1578)7月下旬~8月中旬に織田信長の長男信忠が主導して秀吉等の軍勢が築きました。8月下旬に秀吉が書写山(姫路市)から平井山に本陣を移し、三木城の兵糧攻めを本格化させています。
10月15日に「三喜の付城」 (当城のことか)に津田宗及を招いて、秀吉初の主催となる茶会を催しました。同22日に別所方が襲来して合戦が繰り広げられましたが、別所長治の弟別所治定らが討ち死にし、 別所方の敗北に終わっています。
(後略)

現地へのアクセスについては、車が現実的です。
※神戸電鉄粟生線恵比須駅から徒歩約35分。また、神姫バス「平井公民館前」のバス停もありますが、平日のみの運行のようです(最新情報は公式HPをご確認ください)。
平井山自体はなだらかで、散策路も整備されており、本格的な登山というほどではありません。登城口付近まで車で来ることができるため、最初に10分ほど登れば主郭に到着します。周辺の遺構は起伏のある道が続くものの、一周できるルートとなっており、ほどよく散策できます。
とはいえ、森の中を進むことになるので、歩きやすい靴を用意し、獣害対策や虫除けをしておくと安心です。

早速、最初の階段を登っていきます。

登った先に愛宕社の祠があります。その先へ進みます。
段状の平坦地群

登り始めて数分程度の場所に、最初の遺構である段状の平坦地群があります。(写真だと分かりづらいですが、多くの兵が駐屯できたことは想像できます。)


主郭まであと120mの場所です。城跡内各地に案内表示が整備されており、迷わず安心です。
太閤道

案内表示の先には、秀吉にちなんだ「太閤道」と呼ばれる尾根が続きます。その名の通り、秀吉も通ったのでしょうか。

主郭

太閤道を進みきると、主郭に到達します。
入口右手には、土塁(敵の侵入を防ぐために、土を盛り上げて造られた堤防状の防壁)があります。

主郭内に、一段高く平坦地が造成されています。

段の中央部です。ここで秀吉が采配を振るっていたのでしょうか。


主郭からは、三木市街を望むことができます。

赤丸で囲った場所が、敵方である別所長治の三木城があったとされる地点です。青丸で示した大きな建物は市役所で、その周辺には別所方の支城であり、別所長治の弟・別所友之が守っていた鷹尾山城がありました。
そして、三木城の奥には、森林に覆われた丘陵が広がっています。この一帯には、信長の嫡男・織田信忠によって多数の付城が築かれたいわれています。
こうして包囲されていたとすれば、三木城がまさに孤立無援となる地理にあったことがよくわかります。
(三木城跡や付城については、別の記事を投稿予定です。)

主郭の先に、道が続いているので進みます。
櫓台状の土盛り

主郭に隣接する場所には、櫓台と考えられる土盛りが見られます。見張台としての役割があったかもしれません。

谷部に造成された曲輪

櫓台状の土盛りから東は、谷となっていますが、曲輪(平坦に造成、区画された場所)が設けられています。

大手口(推定)

散策路の折り返し地点に位置する場所で、大手口と推定されています。

その先は藪化しており、進めなさそうでした。城郭図上の赤の点線のうち、主郭につながる西方面の道を進みました。

主郭の前まで戻りました。なお、敵が一気に押し寄せないように出入口を狭くした「虎口」となっており、その左右に土塁があります。
大手口方面からの敵の防御も考慮されていることがわかります。
その後、主郭から冒頭に通った道を戻りました。
【竹中半兵衛の墓①】

秀吉本陣跡の登城口から約200m、ブドウ畑が広がる場所に竹中半兵衛の墓があります。①と表記したのは、平井山から山続きの場所にある栄運寺という寺院に、もう1つの墓があるためです。
三木に2つ墓が存在する理由は不明ですが、当時は供養碑として墓が建てられることも多く、1人の人物に複数の墓が存在することは珍しくありません。
なお、半兵衛の嫡男・竹中重門により、故郷の美濃国にある菩提寺・禅幢寺(岐阜県不破郡垂井町)へ移葬されたとも伝わっています。

ブドウ畑の先に、白い練り塀で囲われた区画があります。

塀の中に、竹中半兵衛の墓と塚があります。
半兵衛の嫡男・竹中重門が記した『豊鑑』の内容によれば、三木合戦の最中、半兵衛は病に陥り、名医がいる京へ上りました。少し病状が軽くなったものの、回復が見込めなかった半兵衛は「播磨で死ぬことは、戦場で命を落とすのと同じことだ」と平井山の陣に戻り、その後、終に息を引き取りました。
秀吉は限りなく悲しんだといい、その様子は三国志における劉備が 諸葛亮(孔明)を失った時と変わらないほどであったいいます。

【(伝)竹中半兵衛陣所跡】

秀吉本陣跡からすぐ北に、竹中半兵衛の陣跡と伝わる付城(平井村中村間ノ山付城跡)があります。
秀吉陣所跡から、200mほど西へ下った先の曲がり角を進みます。

道の途中には八幡社があります。そのまま八幡社を後にして、舗装道路を進みます。

竹中半兵衛陣所跡を示す道標と鳥居があります。車両は進入禁止のため、ポールとコーンが設置されていますが、徒歩なら入れます。車は秀吉陣所跡前の駐車場に駐車したまま、歩いて向かうとよいでしょう。

鳥居をくぐった先の道の様子です。ここから陣跡まで約10分ほどの道のりとなります。
稲荷明神・新池供養塔

道の途中に稲荷明神・新池供養塔があります。

江戸時代末期の嘉永年間に、地元住民が、隣村の鍬頭の工事指揮のもと、「新池」というため池が築造されました。その際に、工事資金の貸主であった三木の有力蔵元の邸宅内で祀られていた稲荷明神が石塔に勧請されました。
そして、時代は流れ昭和14年〜15年にかけても、再びかさ上げ工事が実施されましたが、工事中の事故で住民の一人が命を落としました。そうした先人の供養石ともなっています。
これもまた1つの歴史です。


新池の用水路に橋が架かっていますので、それを渡ります。

ここから暫く登ります。階段が整備されているものの、若干藪化しており、落ち葉が溜まっていました。訪れる際は、足元には十分ご注意ください。

フェンスが設置されている場所まで来ると、案内表示があるので、その方向に従い進みます。

その先の木にも、ラミネート表示が括り付けられているので、さらにその方向に進みます。

森を抜けると舗装道路に突き当たります。

舗装道路の向かいに竹中半兵衛陣所跡の道標と階段があります。

陣跡に到着しました。手前が土塁となっており、左側の輪郭が凹んでいおり、虎口となっています。 高さが浅めなので、当時は柵が設けられていたのかもしれません。

陣所跡の中心部です。四方が土塁に囲われており、窪地状となっています。
もしかすると、竹中半兵衛が武士として最期を迎えた場所なのかもしれません…。

【栄運寺】

秀吉陣所跡から南東に約1kmにある寺院です。元禄5年(1692年)創建の寺で、前述のとおり秀吉本陣があった平井山から山続きの場所にあり、竹中半兵衛のもう1つの墓があります。

栄運寺から少し下ったところに、竹中半兵衛の墓を示す看板があります。その先を進みます。それほど登りませんが、藪化しているので足元にご注意ください。

登ってすぐに、ピンク紐が括り付けられた分かれ道があるのですが、要注意ポイントです。右下の表示のラミネート案内に従い、右に進みます。
筆者は気づかず左に、ひたすら突き進んでしまいました。
竹中半兵衛の墓②

竹中半兵衛の墓に着きました。右は塚状となっており、その上に石が組まれています。左は、「宝篋印塔」と呼ばれる形式の墓です。

右側の柄にある石には「竹中」の字が刻まれています。


左の墓石は、長い年月が経ったことで上の傘が落ちてしまっています…。

竹中半兵衛の戒名と命日である「天正七年六月十三日」の日付が刻まれています。
栄運寺自体は江戸時代創建の寺ですが、裏山は平井山と山続きで、秀吉が陣中の汗を流した野風呂があったと伝えられています。宝篋印塔は、戦国時代にもみられる様式の墓です。竹中半兵衛の最期と関係があるのかもしれません。
いずれにせよ、陣所跡の墓も、栄運寺の墓も地元住民によって、大切に供養され続けてきたことがうかがえます。
【参考にしたサイト】
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