【歴史探訪】三木合戦の付城群を巡る

市街地中央の木々に覆われた台地に三木城跡がある。
その奥に森林が広がる丘陵地にも、付城群が築かれていた。
天正6年(1578)から天正8年(1580)にかけて、織田信長の命で播磨攻略を進めていた羽柴秀吉と、毛利方に寝返った三木城主・別所長治との間で、三木城をめぐる攻防が繰り広げられました。
織田方は三木城を完全に包囲するように、攻城の拠点となる推定約40の付城(つけじろ)を築き、食糧の補給路を断って三木城を孤立させました。この徹底した兵糧攻めは「三木の干し殺し」として知られています。やがて三木城内は深刻な飢餓に陥り、最終的に別所長治は自決、三木城は開城されました。
現在、三木市では28ヶ所の付城跡が確認されています。しかし、そのすべてをご紹介するのは難しいため、本稿では比較的保存状態が良く、見学しやすい南側(冒頭画像の奥の丘陵地)に位置する主要な付城を中心にご紹介します。
【這田村法界寺山ノ上付城跡(宮部継潤陣跡)】

三木城跡から南西約2kmの場所にある付城です。城主は秀吉の重臣・宮部継潤と伝わっています。
ご参考に現地解説板を掲載します(以降、各所に設置されている解説板についても併せて紹介していきます)。

法界寺

この付城は法界寺の裏山にあります。法界寺は別所長治の菩提寺でもあります。
元々は行基が聖武天皇の勅願を奉じて諸国を行脚していた際に、法界寺と名付け伽藍を建立したのが始まりといわれています。
その後、延徳年間(1489年〜1492年)に別所氏中興の祖・別所則治が諸堂を造営し、別所氏代々の菩提寺としました。

別所長治霊廟

境内には、別所長治の霊廟があります。
別所長治は、約2年に及ぶ秀吉の兵糧攻めに耐え、三木城で籠城を続けました。最後は家臣と領民の助命を条件に降伏し、23歳で自害しました。別所長治が自害したとき、法界寺でその遺体が埋葬されたと伝えられており、霊廟が境内にあります。
霊廟の側の石碑には、別所長治、正室・照子の辞世の句が刻まれています。
別所長治公辞世
いまはただ うらみもあらじ 諸人の 命にかはる 我身と思へば
長治公奥方辞世
もろともに きえはつるみこそ うれしけれ
おくれさきだつ 習ひなる世に

霊廟付近には、別所長治の像も建立されています。

寺の外の塀に沿って進むと、付城の入口にたどり着きます。

付城への入口です。別所氏代々の菩提寺の裏山に敵が陣を敷いていたことは、別所長治にとって大きな心理的圧迫となっていたことでしょう。
付城は標高約77mの場所にあるため、ほどよく散策できますが、森の中を進むので、獣害・虫対策はしたほうがよいです。(後に紹介する付城も同様です)。
段状の平坦地群

登り始めて数分程度の場所に、最初の遺構である段状の平坦地群があります。(写真だと分かりづらいですが、多くの兵が駐屯できたことは想像できます。)


主郭と副郭の分かれ道となります。一旦、主郭(左)の方向へ進みます。

進んだ先の左手には、主郭を囲む土塁が築かれています。ここは侵入した敵の視点ともいえる場所で、もし戦があったとしたら、土塁上から鉄砲や弓矢による攻撃を受けてしまうことでしょう。
土橋

主郭の入口(虎口)には、土盛りによって、堀を渡れるようにした土の橋があります。

主郭

四方が土塁と横堀で囲われた、主要部にあたる曲輪です(木々が生い茂っているだけに見えてしまうかもしれませんが、端が土塁となっていることが確認できます)。
ここに、宮部継潤がいたのかもしれません。

馬出状の虎口

主郭の前面に張り出すように築かれた曲輪(馬出)です。堀によって段差となっており、鉄砲や弓矢による迎撃ができるようになっています。

展望台

森を抜けると展望台があります。

三木市街が見えます。当時も別所方に睨みを利かせていたのでしょうか。

展望台からは平坦地が続いており、そのさらに先に朝日ヶ丘土塁と呼ばれる遺構が続いています(筆者はここで切り上げてしまいましたので、写真は無いです)。


先ほどの分かれ道まで戻りました。今度は副郭方面へ真っ直ぐ進みます。
副郭

副郭は主郭に隣接するように築かれた曲輪です。とはいえ、こちらも木々に覆われておりよくわからなくなっていますが…。

【高木大塚城跡】

這田村法界寺山ノ上付城跡から南東約700mに位置する付城です。
『信長公記』によれば、天正7年(1579年)に信長の嫡男・織田信忠は、6つの付城を築いたとされます。高木大塚城跡はその1つと考えられています。城主は不明です。

虎口

枡形(四角形)の虎口(入口)の形状となっています。仮にストレートな入口であった場合、一つの平面で防御することになりますが、枡形とすることで四方を囲むような防御空間が生まれ、多方向から侵入者を銃や弓で迎え撃つことができます。
土塁

後述の櫓台を守るように、付城の周囲360度が土塁で囲まれています。

場所によっては、土塁が稲妻状に屈折しています。このように屈折させることで、二方向から銃や弓による攻撃を行えるようになっています。
櫓台

高木大塚城跡では、元々は古墳であったものが、そのまま櫓台として活用されています。
戦国時代には、古墳が頻繁に戦に利用されています(姉川の戦いの信長本陣など)。
【高木大山付城跡】

高木大塚城跡から南東約500mの位置にあり、織田信忠の軍勢が築いた6カ所のうちの1つと考えられる城です。こちらも城主は不明です。


馬術競技会や乗馬教室等の施設がある「三木ホースランドパーク」の敷地の端にあります。
こちらの入場口には入らず、右に歩道が続いているので(画像外)、そちらを進みます。


しばらく進んだ先の歩道側面に、付城跡があります。

解説板にも記載がありますが、昭和30年頃(1955年)に土取りがされた模様で、えぐられられている地形か、土塁かどうかの判断が難しいです。

土塁らしきものが確認できる場所はあります。

付城の反対直ぐ側は、競技馬場となっています。タイミングが合えば、馬が走っている姿を見られるかもしれません。
【シクノ谷峯構付城跡】

高木大山付城跡から南東約500mにある付城です。こちらも、織田信忠の軍勢が築いた6カ所のうちの1つと考えられる城です。城主は不明です。
「シクノ谷」の名称は、「宿の谷」の尾根先端部に位置することにちなんだものです。


入り口です。階段を上がれば、すぐに付城に着きます。

階段を上がりきると、早速、付城の土塁に突き当たります。案内表示に従い、右に曲がって土塁を回り込む形で進みます。

回り込む途中に設けられた主郭の土塁です。敵の立場で考えると、側面から攻撃を受ける形になります。
虎口

両側に土塁があります。広めなので柵と門があったのかもしれません。
曲輪(Ⅲ)

虎口を入ってすぐの曲輪です。平坦地の周囲が土塁で囲われていることがわかります。軍勢の駐屯地であったと考えられています。

主郭(Ⅰ)

この付城の主要部にあたる曲輪です。(解説板には櫓台があると記載されていましたが、場所はわかりませんでした)。

曲輪(Ⅱ)

写真が分かりづらいかもしれせんが、右手にあるのは主郭の土塁。左が曲輪(Ⅱ)にあたる場所です。
段状となっていることがわかります。
主に軍勢の出撃用の空間であったと考えられています。

【明石道峯構付城跡】

織田信忠の軍勢が築いた6カ所のうちの1つと考えられる城です。城主は不明です。

三木市ターゲットバードゴルフの側に位置しています。史跡見学者用の駐車場もあるので、そちらに車を停めて散策することになります。

ゴルフ場から、明石道峯構付城跡への道標があります。

イノシシ被害防止用の電子柵があるため、ご注意ください(昼間は通電していない)。
案内にある通り、フックを外して通ります。

その先の坂を上がっていきます。それほど勾配はありませんし、すぐに付城に着きます。
西曲輪

坂を上り切ると最初の遺構である西郭にたどり着きます。枡形虎口の形状にもなっており、出撃用の空間として機能したと考えられています。

櫓台

西曲輪の側面にある櫓台です。周囲の状況を監視する見張り台と考えられています。

主郭

かすれすぎて読めなかったため割愛。
城の主要な場所で武将達がいたとみられます。

土塁

主郭や東郭の周囲を囲む土塁です。

東郭

主郭の3倍ある曲輪で、3300m²の広さがあります。多くの兵が駐屯していたことが想像されます。

横堀

東曲輪の土塁(外側)に沿って築かれた堀です。

明石道

付城のすぐ側には、明石市方面へと続く明石道(画像中央の交差点の先)が通っています。
昔のままのルートかどうかはわかりませんでしたが、明石方面からの兵糧の補給路を断つ目的があったのかもしれません。
【小林八幡神社付城】 ※未訪問
当記事の作成にあたり調べていたところ、織田信忠が築いたと考えられる付城が他にあったことがわかりました。ご参考に三木市の関連ページリンクを掲載します。
なお、6つ付城のうち残り1つがどこにあるかは、わかりませんでした(冒頭の這田村法界寺山ノ上付城跡は、あくまで秀吉方の付城とみられます)。
【君ヶ峰城跡(羽柴秀長陣跡)】

三木城から南東1.5kmの場所にある羽柴秀長(後の豊臣秀長)が陣を置いたと伝わる付城(外観)です。
残念ながら、史跡として整備されているわけではなく、藪に覆われていたため、遠くから眺めるにとどめました。(秀長が脚光を浴びるようになったのは、最近の大河ドラマの放送がきっかけですしね…。)
【三木合戦 関連記事】
秀吉が本陣を置いた付城跡や、三木城跡については以下の記事にまとめております。よろしければご覧ください。
