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【歴史探訪】伊木山城跡 〜織田信長が鵜沼城攻略のために侵攻した城〜

【参考】犬山橋からの眺め(西側)
木曽川左岸の丘陵には、犬山城の天守が見えます。
その奥に見えるのは、かつて伊木山城があった山です。

 永禄8年(1565年)、織田信長は尾張から美濃攻略を推し進めていました。信長は、斎藤方の鵜沼城・猿啄城さるばみじょう、さらには敵対関係にあった従兄弟・織田信清の犬山城を攻めるため、まず伊木山城(岐阜県各務原市)を攻略し、足掛かりとしました。
 本記事では、伊木山城跡の見どころを登山路に沿ってご紹介します。

「伊木の森」公園

 伊木山は標高173.1mの山で、山頂付近にかつて山城が築かれていました。公共交通機関でのアクセスは難しいため、車での来訪が前提となります。
 中腹には「伊木の森」という公園があり、車でそこまで登ることができます。駐車場(午後5時まで利用可)も整備されているため、そのまま車を停めることができます。

伊木山城と伊木忠次

 この伊木山攻めで活躍したのは、伊木清兵衛忠次いぎせいべえただつぐという武士です。以下、遊歩道入口までの途中にある現地案内板に詳細が記載されていたので引用させていただきます。

 永禄八年(1565)、織田信長は、美濃攻略の第一歩として斎藤方の拠点であった伊木山を攻め取り、砦を築きました。伊木山山頂には、その時代の曲輪や石垣が残っています。
 伊木清兵衛忠次(1543~1603)は、元の名を香川長兵衛といい、尾張清須の生まれです。忠次は伊木山攻めの功績により「伊木」の名を与えられ、その後は信長の家臣・池田恒興に仕えて活躍しました。
 天正十二年(1584)、「小校・長久手の戦い」で池田恒興が戦死すると、忠次は恒興の次男輝政を補佐し、池田家を守りました。忠次はその功績により、豊臣秀吉から直々に竹ヶ鼻(現羽島市)の領地を与えられました。
 天正十八年(1590)、池田輝政は岐阜城から三河吉田城へ移ります。輝政から田原城を与えられました。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いの際、池田輝政は東軍に味方します。輝政は東軍の先鋒部隊として、西軍の織田秀信が待ち構える岐阜城の攻略に臨みました。8月22日、輝政らは木曽川を渡って西軍の築いた新加納の砦を攻撃します。忠次はこの戦いにおいて池田隊の先鋒を務め、新加納の戦いに勝利し、敵
を岐阜城へ追い込む活躍をしました。
 関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、輝政は家康から播磨国を与えられ、忠次は輝政から播磨国三木城を与えられました。慶長八年(1603)、忠次は三木城で没しました。墓は兵庫県三木市の本要寺にあります。
 忠次の息子忠繁は、姫路城の普請奉行に任ぜられ、縄張りを行いました。忠次没後、跡を継いで池田家の家老となりました。その後も伊木家は、岡山藩池田家の家老として存続しました。

『伊木山城と伊木清兵衛忠次』案内板
各務原市教育委員会

『長篠合戦図屏風』
豊田市蔵・浦野家旧蔵

遊歩道入り口

公園から少し歩くと遊歩道入り口があります。

 その先に登山路が続いています。すでに車で中腹の公園まで登っているため、城郭までは徒歩で約10分ほどで到着します。

 すぐに到着するものの、道中は岩肌が露出しており、季節によっては枯れ葉で滑りやすくなり危険です。なるべくトレッキングシューズの着用をおすすめします。転落しないように十分ご注意ください。

 いったん登り切ると、山頂までの道のりを示す道標が立っています。

 

尾根に沿って歩いていきます。

西曲輪2

 そして、最初の城の遺構にたどり着きます。曲輪とは、城の内外を土塁、石垣などで区画した区域のことです。
 ただ看板が立っているだけでよくわからないと思いますので、現地案内板を引用させていただきます。

山頂現地案内板(各務原市教育委員会)より抜粋
山頂現地案内板(各務原市教育委員会)全体

 永禄八年(1565)、織田信長は、美濃攻略の第一歩として斎藤龍興方の拠点であった伊木山を攻め取り、砦を築きました。江戸時代に編纂された「美濃雑事記』には、伊木山城について「天守台東西六間 (10.9m)、南北四間三尺(8・18m) 石垣台形今に存在す」とあり、石垣のある城跡として認識されていたことが分かります。山頂には、現在も曲輪や石垣などの遺構が残っています。
 平成12年と22年に発掘調査が行われ、伊木山城が6つの曲輪によって構成されていることが確認されました。曲輪は、平坦面を広げるために切土と盛土を行っています。また、曲輪の中央には櫓台状の高まりが確認できます。曲輪の北側は広範囲に石垣が築かれており、盛土の状況から高さ2m以上の石垣であった可能性があります。また石垣の裏には「裏込め石」と呼ばれる、小さな石が充填されていました。これには石垣内部の排水を円滑に行う役割がありました。織豊期以前で石垣に裏込め石が用いられている美濃国内の城は、現在のところ岐阜城(岐阜市)・大桑城(山県市)・ 伊木山城のみで、先進的な技術が用いられた重要な城であったといえます。
 出土品はわずかですが、16世紀前半とみられる天目茶碗や、16世紀後半とみられるすり鉢が出土しています。
 伊木山城の石垣は、尾張からの侵攻を防ぐために美濃の斎藤氏が元々築いていたものなのか、信長が伊木山を攻め取った後に美濃攻略の拠点として活用するために築いたものなのかは、分かっていませせん。

令和5年8月 各務原市教育委員会

 なお、一般に総石垣の城郭が本格的に普及したのは、織田信長による安土城の築城からだといわれています。しかし、それ以前の信長の居城であった小牧山城や岐阜城にも、すでに石垣が用いられていました。
 とくに小牧山城は永禄6年(1563年)に築城され、さらに永禄8年(1565年)には伊木山城が信長によって攻め取られ、砦が築かれています。また、岐阜城には永禄10年(1567年)に信長が入城し、改修が加えられました。
 伊木山城の砦が小牧山城の後に築かれたのであれば、小牧山城で培われた石垣技術が流用されていたとしても不自然ではありません。さらに、その技術が発展し、岐阜城の石垣築造へとつながった可能性も考えられます。

【参考】小牧山城(愛知県小牧市)

 もっとも、現地案内板の通り、斎藤氏時代の遺構である可能性も示唆されています。しかし、仮に斎藤氏のものであったとしても、それはそれで興味深いです。岐阜城(斎藤氏時代は稲葉山城の名称)では、斎藤氏時代の石垣が確認されています。もし信長が伊木山城や稲葉山城において、斎藤氏の石垣技術を吸収していたとすれば、それが後の安土城、さらにはそれ以降の近世城郭の石垣のルーツとなっている可能性も考えられます。

【参考】岐阜城案内板『山上部の石垣』岐阜市
【参考】岐阜城信長居館跡 
齋藤氏時代の石積・階段

西曲輪1

 西曲輪2と中央曲輪の間に位置する曲輪です。

中央曲輪

 いわゆる本丸に相当する曲輪とみられます。現在は、テレビ中継局の設備があります。
 曲輪の中央が盛り上がっており、櫓台状の遺構が確認できます。

南曲輪

 中央曲輪の南に位置し見晴らしがよく、遠くには名古屋のビル群が見えます。

東曲輪1

 中央曲輪よりすぐ東に位置する曲輪です。

東曲輪2

 東曲輪1よりも下段に位置しています。西曲輪と同様に、二段階の守りとなっていることがわかります。

 そして、そのまま東の尾根を進んでいきます。

展望台(キューピーの鼻)

 通称「キューピーの鼻」と呼ばれる展望台にたどり着きます。名前の由来は、伊木山を北側から眺めるとキューピーが寝ている形に見え、ちょうどこの辺りが鼻の位置にあたるからだそうです。

 拡大した画像です。木曽川沿いの丘陵(画像右側)に見えるのが犬山城天守、さらに奥の犬山橋のそばにある丘陵(画像左)が鵜沼城跡です。国境沿いの各城を見下ろす位置にあり、織田信長が伊木山に陣取ったことも納得できます。
 なお、目標となっていた鵜沼城跡については、以下の記事でご紹介しています。よろしければご覧ください。

 南側の景色です。木曽川より手前が岐阜県、その向こうが愛知県で、当時も美濃国と尾張国の国境でした。元々は斎藤氏の城だったといわれているため、その頃は、味方の城である鵜沼城や、信長と敵対し斎藤龍興と手を結んでいた織田信清の犬山城と連携し、尾張国方面を睨んでいたのでしょう。

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