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【歴史探訪】鵜沼城跡 〜豊臣秀吉が調略に成功した城〜

 桶狭間の戦いの後、織田信長は本格的に美濃攻略を推し進めました。その中で、攻略目標となったのが鵜沼城(岐阜県各務原市)です。
 鵜沼城攻略の際に、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉、本稿では以降秀吉の呼称で統一。)が城主・大沢次郎左衛門を調略したことが、豊臣秀吉の一代記である『太閤記』に記されています。
 本記事では、鵜沼城の歴史と周辺の見どころについてご紹介します。

【鵜沼城の歴史】

 永禄8年(1565年)、織田信長は木曽川を越えて美濃国に攻め込みました。『信長公記』によれば、信長の攻略目標は、斎藤龍興に味方する鵜沼城・猿啄城さるばみじょう(岐阜県加茂郡坂祝町)でした。

【参考】猿啄城趾

 そして、鵜沼城から南西約2.5kmの木曽川側に位置する斎藤方の伊木山城を攻め取り、砦を築きました。その後、鵜沼城主・大沢次郎左衛門は降伏しました。

【参考】伊木山城跡

 江戸時代に記された『太閤記』には、この際に秀吉が鵜沼城主・大沢次郎左衛門を調略したとの記載があります。そこでは、信長が次郎左衛門を殺すよう秀吉に命じたものの、秀吉は次郎左衛門を守るために自ら人質となり、次郎左衛門を逃がしたという逸話が伝えられています。 
 鵜沼城主・大沢次郎左衛門については、同時代の史料に乏しいため、不明な点が多い武将です。しかし、犬山城の目と鼻の先にあり、かつ美濃国境に位置する城を任されていたことから、斎藤方にとって重要な役割をもつ武将であったことはうかがえます。

【参考】伊木山からの眺め
木曽川沿いの丘陵(画像右側)に立つのは犬山城天守、
さらに奥の犬山橋の側にある丘陵(画像左)が鵜沼城跡。

 鵜沼城は、犬山城主となった織田家重臣の池田恒興いけだつねおきに与えられ、恒興が国替えになった後は、中川定成が犬山城に入り、同時に鵜沼城も支配されました。
 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで、秀吉は鵜沼に布陣しました。秀吉は鵜沼から犬山への渡し場を重要視し、船を集めさせるなど、渡し場の両岸を固めたと伝わっています。
 また、秀吉方についたかつての犬山城主・池田恒興は、東美濃方面へ向かうと見せかけて旧領である鵜沼城に入城、そのまま対岸の犬山城を攻略しました。その後、鵜沼城は廃城になったといわれます。

【鵜沼城周辺の見どころ】

内田の渡し跡・常夜灯

 木曽川に架かる犬山橋付近に文化12年(1815年)に建立された常夜灯があります。かつてこの周辺に木曽川の渡船場の一つである「内田の渡し」がありました。『尾張狗行記』に、近世以前より尾張と美濃の間を舟で連絡していたとあります。『尾州藩古義』によれば、藩が渡船一艘と船頭給を付与していたとの記述があります。

 犬山橋からの眺め(西側)です。記事冒頭の伊木山城跡での参考画像とは、反対の位置関係になります。犬山城の天守が木曽川左岸にあり、その奥に見えるのが伊木山城があった山です。大沢次郎左衛門が、伊木山を織田方に陣取られた際に受けたプレッシャーを想像できます。

 そして、犬山橋を渡り切ると鵜沼城跡側まで近づけます。そして、鵜沼城跡の中ですが……

立ち入り禁止です。

「え、入れないの!?」と思われた読者の皆さま。騙すようで申し訳ありません。
 かつては昭和47年(1972年)まで「城山荘」という旅館が営業していましたが、火災や老朽化により、平成14年(2002年)に解体撤去されました。
 各務原市は、同年から公園化に向けた計画を打ち出しているようですが、麓の土地所有者との問題があり、解消されないまま現在に至っています。
 
 ただ、やはりもったいないと言わざるを得ません。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で2話にわたり鵜沼城が舞台となったことで全国の注目を集める中、閉鎖されたままとなっている現状は、後世に伝えていくべき史跡としての重要性を鑑みても、あまり好ましいものではないと考えます。

新鵜沼駅

 鵜沼城跡から徒歩約5分の場所には、新鵜沼駅があります。この駅は、名古屋方面からの犬山線、岐阜方面からの各務原線の中継駅となっており、アクセスが非常に良好です。鵜沼城跡は豊臣秀吉ゆかりの地であり、先述のとおり犬山城を見渡せる景観の良さという点からも、観光資源としても大きなポテンシャルを秘めていると感じました。数分間隔で電車が行き交うため、鉄道ファン、いわゆる「撮り鉄」の方の姿も多く見られました。
 大河ドラマ『豊臣兄弟!』の放送をきっかけに、発掘調査や公園化への機運が高まることを期待します。

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