言葉と世界の切り取り方が好きな人へのファンレター
聖教新聞がどんなものかは知らないが、そのCMの、言葉と共に生きていく。というキャッチコピーが好きだ。
旧Twitterの使っていないアカウントを削除しようとするたびに、そこでしか繋がっていない鍵アカウントの何人かを思い出して、ログアウトするに留める。
正しくは、ログインして目当てのアカウントを検索し、つぶやきにいいねをつけて、ログアウトする。3ヶ月に一回くらいの頻度。
わたしは、自分であることを楽しんでいる人、自分であることを楽しもうというユーモアが言葉に表れている人が好きだ。小さな幸せや不幸を切り取りたがる人も好きだ。
「言葉にしたことなかったけど、その気持ちはわたしにもある」と勝手に共感してみたり、「こんなふうに世界を見ている人が同じ時を生きているって嬉しいなあ」と密かに感謝したり。
彼がその1人だ。
実は、顔も本名も思い出せない、今どこに住んでいるのかも知らない。
それでも、知り合いの言葉が、世界の見え方がとても好きだ。
漂う哀愁への親近感?世の中に的確な言葉で毒づく痛快さ?
なんだろう、言葉にならない。特徴を分解して並べることは難しいけど、びっくりするほど好きだ。
本人にもそんなに伝えたことがないが、定期的に言葉を追っている。
(とか言って、noteは読んでない記事がたくさんあったので、病院の待ち時間とかに、ちまちま楽しみに読もうと思う。)
世界の見方が好きなんだろうな。他者の世界の見方が好きだと、その人をよく知らなくても信頼できる。1人でも繋がりを感じられる。
優しさも憂いも喪失も、ずっと遠くから眺めて観察して文章を作ることができる人のように推測する。諸行無常を、仕方ないから慈しんでいるといったような、人生とのそういう距離を感じられて、読むとなぜかほっとするのだ。どきどきもする。言葉を丁寧に扱う人には、人を雑に扱わない安心感とときめきがある。
……人を雑に扱わない丁寧さや愛を、わたしはときめきと呼ぶのかあ。
ところで、わたしはあまり冷静な?静かな文章が書けない。思考が溢れるままに書き殴る文章は、しょっちゅう脱線したり混線したり、推敲もしないせいで、思考の蛇行って感じの文章だなーといつも書きながら思っている。いつもそれっぽくまとめようとして、でも、明日には考えが変わっているなんてしょっちゅうで、読みやすく書いている自信がない。(だから、定期的に絵・作品にしているというのもある。物語や視覚表現に頼る必要がある)
彼の言葉は過不足なくて美しいと思う。
「それってどういうこと?」と人に聞き返すことの多いわたしは、言葉を惜しみなく使って正しく表現することが、誠実さだと思っているらしい。わたしが言葉に溺れているからこそ、憧れるんだなあ。
沸き起こるあらゆる感情を否定せずに眺め、自分の言葉として水面へ静かに波紋を広げるような、彼の眼差しのファンだ。わたしはこれからもあなたの言葉を楽しみにしている。
本人へ
ただ好きだなあを言葉にしたくて書いたので、リアクションはしなくていいからね。以上、公開ファンレターでした。
