本棚が足りなくなりました
将来に何の展望もない僕にとって、本を買うことは人生で唯一の約束です。書店をめぐり、出会った本の表紙やタイトルに心惹かれ、購入して自宅の本棚に並べることは、その本に対し、いずれ読むことを約束することに他なりません。先が見えなく頼りない暮らしの中で、「いつかはこの本を読むのだ」と確かに思えることの存在が、ささやかながら今の僕の支えになっています。
現在自宅の本棚には未読の本が120冊くらいありますし、本を読む速度が買う速度に追いつかず、未読本は日々増えて自宅の収納を圧迫し続けているので、買った本のすべてを一生のうちに読み切れるかはわかりません。とはいえ、いつ終わるともわからない人生で、そのようなことを考慮することに何の意味があるでしょう。仮に明日友達と遊ぶ約束をしていたとしても、今日の夜に何らかの理由で死んでしまい、約束を果たせない可能性だってあるわけです。それを不義理と責めることが誰にできるでしょうか。現世で読むことのできない本があったとしても、それは本を読む前に僕が僕の寿命を迎えてしまったというだけのことです。死の時期を自身で決定することはできない以上、僕が本を買い続けることには正当性があるのです。
そうして本棚に並んだ未読本の背表紙を眺めていると、本を積むことは間違いなく読書を豊かにするなと感じます。本を買い、読まずに置いておく。僕は新しく買った本を勢いそのままに読むことが多いので、読む本を選ぶときに、昔から長らく積んである本が手に取られることは多くありません。ところが、そういった本が読まれる日というのは突然に訪れるのです。5年や10年、未読で積んでいた本が必要になる日というのが、自分でも予想できずに訪れます。そんなときに面白いのは、その本に興味を持ち、購入した自分と、今その本を読もうと手に取った自分はもはや別人であるということです。購入した過去と、読もうとした現在が一本の線で繋がる感覚です。間には、本が開かれることなく積まれていた時間があります。初めに興味を持った自分と、それを読まなかった時間、今その本を欲し、読み、何らかの感想を抱いた自分、その全てを尊ぶことも、読書体験に含まれると思います。
さてそうして日々本を買い買い読み買い買い読みしている僕ですが、ここしばらくの間、精神的に重い本を咀嚼する体力がない状態にあります。世界から愛や優しさだけを抽出したような小説が好きです。負の感情から距離を置いて楽しめる、ミステリーのような娯楽小説にも興味があります。すると必然的に、本棚の中の未読本を収めているエリアには、読むのに精神的余裕と大量のエネルギーを要する、鬱々とした小説や、大嫌いな現実を論ずる専門書が蓄積していき、その濃度は日に日に増していきます。未読の本にこそ自身の不安や憂鬱が反映されているのかもしれません。そんな今は読めない本たちですが、いつかの僕にとっては必要になるものです。アパートの床をぶち抜くその日まで、重い本も買い続けていこうと思っています。
