優しさとの距離について
優しい人間になるためには、この世の中にあるいろんな生きづらさや搾取や不平等について知る必要があると思います。それを絶えず学んでいくことが自分の中でずっと変わらない軸であり、強い言葉を用いればそういった信念を持っています。大学を卒業して、一つ目の仕事に人に寄り添うような職業を選んだ理由もそこにあります。「こうかもしれない」の引き出しを増やし、人に対する想像力を養うことで、優しさの糧にしたかったのです。ところが、就職してからの自分を振り返ると、ストレスで精神的な余裕を失って、却って日々嫌な人間になっていくばかりであったと思います。
例えば「世界には様々な特性を持った人がいて、それぞれに合わせた配慮が必要」ということを、僕はこれまでに学んできて知っています。それでも、仕事をしていると、周りと同じような行動をしない子どもをわがままだと感じ、苛立ったりもしました。それはそれで、人の感情として当たり前の働きなのかもしれませんが、そういった知識と感情の乖離が、いろんなところで日々大きくなっていって、自分の核みたいな部分が侵されていくような感覚がありました。自分の感情が、自分自身で許せないような動き方をして怖くなります。
自分自身がどんどん嫌な人間になっていくのを自覚しながら、子どもから「先生」なんて呼ばれ、容易に慕われて(あるいはそう見えるような振る舞いをされて)、いつでも自分が優位な立場にいるような環境に長く身を置いていたら、遠からず僕は化け物になってしまうだろうと思いました。
思うに、他人に優しく振舞うことには快楽が伴います。自分の優しさへの自信や安心感、相手に対する優越感など、要因はいろいろ考えられると思います。そうした、自身が快を得るための利他的行動は、意外と見透かされてしまうものですし、薄っぺらい、道徳的ではないと見なされることも多いです。
ですが、自分自身が気持ちいい範囲を越えて他人に優しくするというのは、なかなか険しいことです。他人のために悩み、苦しみ、自分を押し殺し、そうした困難を実践し続けるうちにどこか歪んでしまうくらいであれば、自分の気持ちいい範囲だけで他人に優しくし、浅薄な善良さを保って生きることにも美徳はあるのかもしれないと思いました。「他人のため」にいちいち傲慢さを覚えてしまうような潔癖な人間は、他人のために振舞うのには向いていないのかもしれません。
これはどちらが望ましいというような優劣の話ではなく、グラデーションの中に自分に合った「優しさ」との距離が存在するということだと思います。それはもちろん、その時々の自分の置かれた状況、コンディションによって変化しうるものです。前職での経験は僕にとって大切な学びとなりました。それを踏まえて、いま自分がいちばん優しい人間であれる距離を、新たに模索していこうと思っています。
