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【歴史編】「天下人の国家づくり」ー秀吉、家康は、信長がつくった基盤の何を引き継ぎ、何を引き継がなかったのか?

歴史の天下は、誰かの土台の上に成り立っているのではないか?

秀吉を天下人だという。その天下人は秀吉だけの力だろうか? 秀吉が日本を統一したというが、それは本当に秀吉が成したことなのだろうか?
家康もまた天下人と言われるが、その家康も自分だけの実力で日本を統一したのだろうか?

歴史は連綿と続き、この天下は、誰かの土台の上に成り立っているのではないだろうか?

ふと、そんな疑問が湧いてきました。

私たちは、これまで全4回で、信長という男を深く考察する旅を通じて、信長が危機感から生まれた革命的な思想「天下布武」を掲げ、古い秩序を破壊したことを知りました。

今回はその続きとして、信長の死後、天下人となった豊臣秀吉、そして徳川家康が、信長が築いた「新しい時代の土台」をどう引き継ぎ、そして何を引き継がなかったのかを深く掘り下げていきます。


秀吉・家康の天下統一を可能にした信長の「土台」

1. 旧秩序の解体と新たな経済圏の創造

「楽市楽座」「本願寺一向一揆の鎮圧」は、当時の経済と社会を支配していた既存の権威を解体しました。

  • 楽市楽座は、座(商業組合)という既得権益を破壊し、自由な経済活動を促しました。これにより、秀吉は商業都市を支配下に置くことで豊かな財源を確保できたし、家康も後の江戸の経済基盤を築く上で、この自由な市場の考え方を活用できました。

  • 一向一揆の鎮圧は、寺社勢力という、武士とは別の強力な権力基盤を壊滅させました。これにより、秀吉や家康は宗教勢力と対等に渡り合う必要がなくなり、天下統一に向けた政治的な障害を一つ取り除くことができました。


2. 政治的権威の破壊

「足利将軍家の追放」は、何よりも決定的だった。これは、鎌倉時代から続いてきた武家の「棟梁」というルールそのものを消滅させたことを意味します。

秀吉は、この空白の権威を巧みに利用し、「関白」という朝廷の権威を借りて自らの支配を正当化しました。もし将軍家が健在であれば、非武士である秀吉が天下人になる道は閉ざされていたかもしれません。

家康もまた、信長と秀吉が天下の秩序を「再構築」する前提を作り上げたからこそ、自らが「征夷大将軍」という形で天下を収めることができました。


3. 兵農分離と社会構造の変革

「兵農分離」は、信長が天下統一を進める上で不可欠な制度でした。これにより、農業に従事する者と、戦闘を専門とする武士とが明確に分けられました。

この制度は、秀吉の「太閤検地」や「刀狩」によって全国的に徹底され、武士階級の支配を確固たるものにしました。

家康が幕藩体制を確立できたのも、信長と秀吉が築いたこの厳格な身分制度の土台があったからこそだと考えられます。

このように、信長がやったことは、秀吉や家康が天下統一という最終ゴールにたどり着くための「道筋」を、自らの手で切り拓いたに等しいと考えることはできませんでしょうか。

彼らは、信長が残した「遺産」という強大なアドバンテージを最大限に活用することで、時代を動かすことができたと言えるのではないでしょうか。


今回は、秀吉や家康の議論をする前に、まず信長の功績が、秀吉や家康の国家づくりに与えている影響が大きいのでは、という仮説をもって、信長の功績を整理してきました。

このように見てみると、信長は戦国の世の従来の秩序、構造を壊し、新しい構造を作り上げてきました。

では、これを踏まえて、次回は秀吉が信長の遺産をどう受け継ぎ、天下を掌握したのか、具体的な議論に入っていきましょう!。




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