商工会の経営指導員⑲ 過去の記憶—父と母が遺したもの【#創作大賞2025#お仕事小説部門】
人通りの少ない商店街の片隅に、父三浦孝一の小さな雑貨店があった。
棚の隙間には、孝一の手で丁寧に並べられた商品たち。
埃一つないカウンター。
そこには、不器用ながらも誠実に生きる男の信念が息づいていた。
孝一は、まっすぐな男だった。
商売は下手でも、人を騙すようなことは絶対にしない。
お客が困っていれば、自転車でどこまでも品物を届けに走った。
そんな父を、誠司は心から誇りに思っていた。
ある日、商工会から1本の電話がかかってきた。
震える手でスーツの襟を正し、小さな深呼吸をして、父は会議室の扉をくぐった。
それが、すべての始まりだった。
「補助金を取るには、この業者から仕入れろ」
「この新しい流通プランに乗れば、将来性はある」
口当たりの良い支援の言葉が、父を包み込んだ。
その背後にいたのは、当時の経営支援課長・滝本伸一。
表では熱心な支援者を演じながら、裏では業者と手を組み、見返りにリベートを受け取っていた。
父の仕入れ先は、次々と不自然に変えられた。
信頼していた取引先には、ある日突然、契約を切られた。
導入された新商品は売れず、在庫ばかりが積み重なり、店の空気が沈んでいった。
補助金は、結局、一度も採択されなかった。
申請に費やした時間も、想いも、ただ虚しく弾かれた。
そして、ある冬の夜——
まだ三浦誠司が小学4年生だった頃。
店のカウンターに、父はうずくまっていた。
肩が小刻みに揺れ、嗚咽を押し殺す声が、暗い店内に微かに響いていた。
「……もう、どうしていいか、分からないんだよ……」
その姿は、幼い誠司の胸を、締め付けた。
そして——
「父さん、どこに行くの?」
冷たい朝。吐く息が白く凍るような道の向こう、父は立ち止まり、振り返った。
「誠司、すまない……」
それが、最後の会話だった。
数日後、父は河川敷で発見された。
警察は“自殺”と断定した。
雪解けの水が流れる川辺で、父は静かに目を閉じていたという。
その後、店は競売にかけられ、村上という男にあっさりと引き渡された。
かつて父が愛した看板は、無造作に地面に叩きつけられたように転がっていた。
家族が過ごした思い出の土地は、ショッピングモールの駐車場になった。
それからの生活は、想像を絶するものだった。
父が他界してから、誠二は母とふたり、肩を寄せ合うようにして暮らしていた。
家計はいつも火の車で、時には明日の食事すらも見通せない日があった。
母は、父の死の衝撃も癒えぬまま、休む間もなく働き始めた。
昼はスーパー、夜は清掃の仕事。
朝はまだ暗いうちに出かけ、夜遅く、疲れ切った顔で帰ってくる。
疲れ果てた顔のまま、三浦のために食事を作り、洗濯をし、眠る間もなく母は働き続けた。
「……母さん、大丈夫?」
「平気よ。」
そう言いながら、母の手はいつも冷たかった。
「誠司、ご飯できたよ。」
「母さん、見てよ!テストでまた100点とれたんだ!先生も褒めてくれた!俺、勉強して、将来お金持ちになって、母さんを楽にしてあげるからね!」
「それで、経済と経営の勉強をして、父さんみたいな人が報われる社会を作りたいんだ。」
「ありがとう、誠司」
疲れ切った顔で、カレーをよそいながら、母は微笑んだ。目には涙が浮かんでいた。
学校では、何も知らない同級生たちに「貧乏、貧乏」とからかわれた。
その言葉は冷たくて、痛くて、胸に小さな傷をいくつも刻んだ。
でも——それでも誠二の心が折れることはなかった。
それは、記憶の中の父が、笑っていたからだ。
そして、自分の人生なんて二の次にして、懸命に働き、「あなたが生きていてくれるだけで、母さんは幸せ」と言ってくれる母がいた。
誠二は、決して一人ではなかった。
ときどき母の仕事が休みになる日があった。
朝から一緒に買い物に行き、安い食材で工夫しながら作った食卓を囲む。
質素な味噌汁と、焼いた魚、少しの漬物。
特別なごちそうなんて、そこにはなかった。
母は決まって自分のご飯を少なめにしながら
「たくさん食べなさい」と差し出してきた。
「おいしいね」と笑う母の顔は、あたたかくて、優しくて、とても幸せだった。
しかし、運命は、そんな些細な幸せすらも三浦に許してはくれなかった。
職場で倒れ、運ばれた病院で告げられたのは「過労による多臓器不全」
病室のベッドで、酸素マスクをつけながら、母は弱く微笑んだ。
「誠司……ごめんね……」
「いやだ、母さん……いやだよ……!行かないで……!一人にしないでよ……!」
「ごめんね、、あなたは……強く、生きなさい……。」
母の目から、一筋の涙がこぼれた。
それが、最後だった。
「何で、何で、父さんも母さんも、謝るんだよ、なんで、、。」
誰のために笑い、誰のために立ち上がればいいのかもわからず、冬の空の下、少年はただ風の中にしゃがみ込んだ。
けれど今でも、心の奥で、響いている声があった。
「誠司、お前は、強く生きなさい……。」
その言葉は、今もなお、胸の奥に突き刺さったままだ。
