商工会の経営指導員⑳ 三浦の選択—正義か、保身か【#創作大賞2025#お仕事小説部門】
「社会は、弱者に情けをかけるほど甘くない。」
冷たく研がれた刃のようなその言葉が、三浦誠司の胸を深く貫いた。
だがそれは、かつて父と母を切り裂いたのと同じ種類の刃だった。
あの日の痛みが、また心の奥で疼き出す。
目の前に立つ滝本は、相変わらず表情ひとつ崩さず、唇だけをわずかに動かした。
「……そういえば、県商工会連合会の次期・企業支援課長のポストが、まだ決まっていないそうだ。」
静かな語り口が、逆に不気味だった。
あたかも天秤に乗せられたかのように、三浦の運命を弄んでいる。
「お前も知っての通り、私は長年、人事運営委員長を務めてきた。今でも相談役として、委員会には出席している。」
その声には確かな「権力」が宿っていた。
逃れられない現実の重さ。
それが、まるでコンクリートのように、三浦の肩にのしかかる。
「何が...言いたいんですか。」
そう問い返した声に、微かな震えが混じる。
「お前は、この桜川商工会で、よくやってきた。桜川市の経済発展にも貢献した。……だからこそだ。推薦してやってもいいと思っている。」
ふっと、空気が凍る。
「……。」
「三浦、冷静に判断をするべきだ。」
その言葉は甘く、そして狡猾だった。
三浦は、そっと目を閉じた。
深い闇の中で、あの日の母の声が蘇る。
——誠司、ごめんね。あなたは……強く、生きなさい……。
母の手の冷たさ。
父の涙。
こたつの上のカレー。
目を開けると、三浦の瞳には静かな光が宿っていた。
「……俺は……強く生きる。」
滝本の唇がゆっくりと綻んだ。
「そうか……適切な選択だ。なら——」
——バサッ。
その瞬間、三浦は両腕で資料をしっかりと抱きしめた。
胸の奥で焼けつくような炎が、全身を貫いていた。
彼の足は震えていたが、魂は凛と立っていた。
「……俺はずっと、何かを信じるのが怖かった。誰かを信じて、裏切られるのが、怖かったんだ。」
「自分の居場所を守るために、全部飲み込んできた。取り壊される店も、泣いてる母さんの背中も、声を上げずに見てきた。」
「でも、それで何が変わった?」
目の奥が熱くなっていた。
怒りでも、悲しみでもない。
それは、ようやくたどり着いた——「本当の自分」の声だった。
「お前らみたいなクズがのさばって、誰かが泣いて、誰も手を差し伸べない社会が続いてるだけじゃないか!!」
その叫びは、もう誰の顔色も窺わなかった。
言葉の一つ一つが、鋭く真っ直ぐに、滝本を撃ち抜いた。
滝本は小さくため息をついた。
「……お前は、愚かだよ。」
「——ああ、愚かかもしれないな。」
三浦はゆっくりとポケットに手を突っ込むと、資料をぎゅっと握りしめた。
まるで、あの日からしゃがみ込んだままの少年の手を握り締めるように。
「でもな、お前らみたいな偽善者たちと一緒に“十二使徒”でいるくらいなら、俺は喜んで——ユダになる。」
それは、信じた“体制”への最後の別れだった。
そして、“誠実”という名の希望への、はじまりだった。
三浦は踵を返し、静かに歩き出した。
冬の夜の闇が、彼の背中を包んでいく。
だがその歩みは、確かだった。
滝本は、その背中をじっと見つめていた。
何も言わずに、ただ一言、呟いた。
「……本当に、愚かだよ。」
その声は、もはや届かない。
三浦の中には、もう父と母の声しか響いていなかった。
——誠司、お前は、強く生きなさい。
その言葉を胸に、彼は“未来”へと歩き始めた。
