商工会の経営指導員⑧ 三浦の新たな策謀【#創作大賞2025#お仕事小説部門】
桜川市役所・商工観光課。
窓際に置かれた観葉植物の葉が、空調の風に静かに揺れている。
担当者・皆川は、受話器を置き、眉間にしわを寄せて深く息を吐いた。
「三浦誠司……またこの人か」
市役所に勤めてまだ3年目の皆川だったが、三浦の名は耳にしたことがあった。
剛腕の経営指導員として商工会の内部に深く関わり、幾度となく“物言う指導員”として行政にも顔を出していた男。
今回も、彼から直接市長宛に提出された「懸念事項報告書」が回ってきていた。
“イベント実施における安全管理体制の不備”“商工会との連携不在による責任の所在不明瞭”
一見、冷静かつ建設的な内容だったが、その裏には明確な圧力の意図が感じ取れた。
さらに、商工会の滝本局長からも「正式な関与はしていない」との文書が、商工観光課を統括する経済部長宛てに届けられていた。
(これじゃあ……今のままではゴーサインは出せない)
皆川は、そのまま秋山へ連絡を入れた。
「申し訳ありません。現時点で許可の再審査が必要になりました」
「えっ……? つい先日までは、問題ないと……」
「ええ、ですが商工会側の内部判断と、三浦さんからの指摘もありまして」
事務所に戻った秋山は、すぐに悠斗へと報告した。
「市の許可が、降りなくなりそう……三浦さんの差し金みたい」
悠斗は、机の上に置かれたイベント資料を見つめたまま、ゆっくりと拳を握りしめた。
「……でも、諦めない。こんなことで止まるわけにはいかない」
その言葉の裏には、商工会や行政の力に抗う覚悟が、静かに燃え始めていた。
プレイベント当日の朝。
許可が下りていない以上、普通ならイベントは中止せざるを得ない。
しかし——
「俺たちは、もう後戻りできねぇよ。」
田中茂が、悠斗の肩を叩いた。
「森田くん、俺たちはどうすればいい?このまま諦めるのか?」
悠斗は、迷っていた。
「……違法行為になるかもしれない。でも、これを止めたら、みんなの気持ちがまた折れてしまう……。」
そんな悠斗の背中を、秋山が押した。
「森田くん、決めるのはあなたよ。」
「でも、私は信じる。このイベントが、商店街にとって大事なものになるって。」
悠斗は、大きく息を吸った。
そして、ゆっくりと答えた。
「……やろう...この商店街のために、やろう!」
商店街の空気が変わった。
朝早くから準備に取りかかっていた人々は、開始のアナウンスとともに、それぞれの持ち場に散っていった。
誰一人として手を止める者はいない。
それは、かつて活気に満ちていたあの頃を思い出すかのように、生き生きとした光景だった。
準備に追われる大人たちの間を、航太が駆け回る。
「ねえねえ、これ、どこに置くの?」
目を輝かせながら、大きな段ボールを両手で抱え、嬉しそうに声を上げていた。
そのそばでは、あかりが祖父の田中と一緒に野菜を並べていた。
「トマトは赤が一番上だよ、おじいちゃん!」
まるで小さな八百屋の店主のように、真剣なまなざしで箱を覗き込み、汗を拭う祖父に指示を出している。
子どもたちのいきいきとした声が、商店街に新しい風を運んでいた。
それは、かつての賑わいとは少し違う、小さな希望の音色だった。
田中八百屋の店先には、朝採れの新鮮な野菜がずらりと並んだ。
「今朝のきゅうりはパリッとしてるよ! 試食してって!」
その声に誘われるように、人々が集まり、野菜はまるで水を吸った砂に染みこむように、次々と売れていった。
一方、松田屋では、ふかしたての「特製おまんじゅう」が湯気を立てて並んでいた。
「これがうまいんだよ」「限定って言われたら、そりゃ買っちゃうよな」
あっという間に列ができ、午前中にはすべてが完売。
松田屋の主人は、顔をくしゃくしゃにして笑った。
さらに通りの中央では、飲食店の合同フードブースに長蛇の列ができていた。
鉄板の上でジュウジュウと音を立てて焼かれる焼きそば、香ばしい唐揚げ、冷たいフルーツソーダ。
子どもたちがはしゃぎ、親たちが笑い合う。
いつの間にか、商店街は人で溢れ、まるで祭りのような空気に包まれていた。
「すごい……! 本当に人が来てる……!」
悠斗は、夢のような光景に言葉を失った。
少し前まで、誰も信じてくれなかった。
「そんなの、うまくいくはずがない」と笑われた。
でも——
今、目の前には確かに“希望”が形になっていた。
気がつくと、彼の頬を一筋の涙が伝っていた。
「やった……! ついに、ここまで来た……!」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、自分自身を抱きしめるような祈りのようだった。
しかし——その歓声の陰に、冷たい視線があった。
高台の影に立つ男。三浦誠司。
群衆の熱気を遠巻きに眺めながら、彼は小さく舌打ちした。
「……チッ。やりやがったな」
思惑を超えて、商店街は再び歩みを始めた。
それも、誰かに頼ることなく、自分たちの力で。
その事実が、三浦には何よりも忌々しかった。
このままでは終われない。終わらせない。
風に揺れるコートの裾を翻し、三浦はその場を後にした。
