イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第二十六話 カエルの宿屋
私たちは、雪山のアトラ山脈をようやく抜け出し、重い足を引きずるように歩いていた。
寒さは少しやわらいでいるはずなのに、体は全然軽くならない。
眠い。お腹すいた。足痛い。もう無理。
たぶん全員、そんな顔をしていたと思う。

エラとヨル 第二十六話
【カエルの宿屋】
「ヨルさん! あれ!」
先頭を歩いていたオトが、ぱっと声を上げた。
顔を上げると、少し先に小さな建物が見えた。
「……宿?」
「宿屋だ!」
エラの声が弾む。
私も思わず目を見開いた。
ちゃんとした屋根。壁。煙突。人が住んでいそうな建物。
ベッド。
あたたかい部屋。
できれば、ごはんもあると嬉しい。
「行くよ!」
「いや、見ればわかるでしょ」
そう言いながら、私の足も少し速くなっていた。
三人で顔を見合わせて、少し笑う。
さっきまで死にそうな顔をしていたのに、こういう時だけ元気になるのだから単純だ。
近づいてみると、入口には布の暖簾が下がっていて、そこに宿の名前が書かれていた。
カエルの宿屋
「カエル」
エラが真顔で読む。
「読めるよ、それくらいは」
「しかもカエル」
「二回言わなくていい」
軒先には本当に小さなカエルの彫像まで置いてあった。
「かわいい!」
エラが一気に元気になる。
「ここ、大丈夫かな……」
私は少しだけ不安になった。
名前も見た目も、ちょっと変わっている。
でも、煙突からのぼるやわらかな煙と、どこからか流れてくるいい匂いに負けた。
「……入ろう」
「うん!」
「ごはん!」
オトは隠す気がなかった。
*
中に入ると、優しそうな女店主が声をかけてくれた。
「いらっしゃいませ」
「あの……三人なんですけど、泊まれますか?」
私が聞くと、女店主はにこやかにうなずいた。
「もちろんです。お部屋は空いてますよ。三人ご一緒でも大丈夫ですか?」
「一緒でいいです」
「やったー!」
エラがすぐに声を上げる。
「エラ、まだ部屋見てないからね」
「でもベッドあるんでしょ?」
「たぶんね」
「屋根もあるよ!」
「それは見えてる」
オトがくすっと笑う。
「もう、二人とも基準が低くなってますよ」
「雪山のあとなんだからしょうがないでしょ」
案内された部屋は、素朴だけどあたたかそうな部屋だった。
荷物を下ろした瞬間、全身から力が抜けそうになる。
「あぁ……床でも寝られる……」
「そこはベッドで寝て」
私が言うと、エラはその場でごろんと寝転がろうとして、ぎりぎりで踏みとどまった。
女店主がその様子を見て、やさしく笑う。
「お疲れみたいですね。お食事もご用意できますよ」
「どんな料理ですか!」
今度はオトが一歩前に出た。
さっきまで疲れ切っていたのに、食べ物の話になると急に目がきらきらする。
わかりやすい。
女店主はくすっと笑った。
「このあたりの郷土料理ですよ。豪華ではないですけど」
「郷土料理!」
「楽しみ〜!」
「まだ食べてないからね」
「でも楽しみ〜!」
オトは本当に楽しそうだった。
女店主は少し考えてから、続ける。
「夕食までは少し時間があります。よければ先に温泉に入りますか?」
「温泉?」
私は聞き返した。
「このあたりは、地面からお湯が湧くんです。それをためて入れるようにした場所ですよ」
「へぇ〜!」
エラがすぐに食いつく。
「お湯に入るってこと?」
「そうです。体も温まりますし、疲れも取れますよ」
「行く!」
「即答だね」
「ヨルも行こう!」
「聞いてたよ」
「オトも!」
「もちろんです!」
結局、全員即答だった。
*
タオルを借りて、女店主に案内されながら宿の裏手へ向かう。
細い道を少し進むと、湯煙の立ちのぼる場所が見えてきた。
小さな脱衣所の先には、岩でできた湯船。
木の囲いもあって、ちゃんと落ち着けそうだ。
「ごゆっくり」
そう言って女店主が戻っていく。
――その次の瞬間。
ドボーン!
「早い!」
服を脱ぐのも飛び込むのも、エラは全部が早かった。
湯船からお湯が勢いよくあふれる。
「気持ちいい〜〜〜!」
「まだ入ったばかりでしょ!」
私も急いであとに続く。
足を入れた瞬間、少しだけ熱い。でも、その熱さがむしろ気持ちいい。
冷え切っていた体が、じわっとほどけていく。
「ふぅ……」
思わず声が漏れた。
「あ〜……これ、だめだね」
「何が?」
「ここから出られない」
「まだ入ったばっかりだよ」
オトもそっと湯船に浸かって、ほっと息をつく。
「生き返りますねぇ……」
「うん……ほんとに……」
その一言に、三人でしみじみしてしまう。
でも、その空気は長く続かなかった。
「ヨル〜、見て〜」
ばしゃばしゃ。
「泳がないで」
「泳いでないよ。浮いてるだけ」
「それを泳いでるって言うの」
エラはぜんぜん反省せず、湯船の中でぱしゃぱしゃしている。
見ているうちに、なんだか私まで笑えてきた。
あたたかいお湯を手ですくって顔にかける。
痛みも、疲れも、少しずつゆるんでいく気がした。
ふと腕や足を見ると、小さな擦り傷やあざがあちこちに残っている。
でも今は、それすら無事だった証拠みたいに思えた。
その時だった。
「……」
さっきまでうるさかったエラが、急に静かになる。
「どうしたの?」
聞くと、エラはじっと一点を見つめていた。
「おっきい……」
「え?」
私もつられて、その視線の先を見る。
そこには、湯船に浸かったオト。
そして。
「……おっきい」
気づけば、私も言っていた。
「オト! すごい!」
エラが妙に感心した声を出す。
「えっ、あ、ありがとうございます?」
オトも返事に困っていた。
私はオトを見て、それから自分を見る。
見比べる。もう一回見る。
「……」
エラが、なにかを察した顔になった。
「大丈夫! ヨル!」
「何がよ!」
「ヨルには未来があるよ!」
「余計なお世話よ!」
オトが吹き出す。
「ふふっ……でも、エラさん、それ慰めになってないです」
「えっ、そうなの?」
「そうだよ!」
思いきり言い返してから、私は深くため息をついた。
……私はまだ、これからだ。
なぜかちょっと真剣に、そう思ってしまった。
エラはそんな私を見て、にやにやしている。
「ヨル、がんばれ」
「何をよ!」
「いろいろ!」
「雑すぎる!」
湯気の向こうで、オトの笑い声がまた響いた。
――そのあと、ふと気づくと、エラが私の隣に座っていた。
さっきまで笑っていたくせに、今は少しだけ気まずそうな顔をしている。
「なに?」
いつものエラらしくない様子に、思わず少しだけ声が強くなる。
エラはもじもじしながら、小さく言った。
「あとで、少しいい?」
その言葉で、雪山で空から落ちたあとにエラが言ったことを思い出す。
『ごめんは……あとで、ちゃんと言う』
――ああ、あれか。
胸の中に、すとんと落ちた。
「わかった。あとでね」
そう言うと、私は湯船から立ち上がった。
*
温泉を出て宿に戻ると、ふわっといい匂いがした。
「……!」
オトの鼻がぴくっと動く。
次の瞬間には、もう匂いのする方を見ていた。
「早いよ」
「だって、すごくいい匂いです」
食堂には、もう食事が用意されていた。
木の低い机に、小さなクッション。そこに、見慣れない料理がいくつも並んでいる。
湯気を立てた白い食べ物。
こんがり焼かれた川魚。
小さな器に入った汁物。
「おいしそう!」
エラがぱっと声を上げる。
女店主に案内されて席につき、私たちはさっそく食事を始めようとした。
……のだけれど。
「ヨル、これどうやって使うの?」
エラが困った顔で見せてきたのは、二本の短い棒だった。
「……」
私も、自分の前に置かれたそれを見る。
――フォークは?
「ヨルさんたち、お箸は初めてですか?」
向かいで、オトがくすっと笑う。
そう言いながら、片手でひょいと二本の棒を持ち上げて見せた。
――この棒で食べるの?
私も真似をしてみるが、うまくできない。
エラは我慢できずに、お箸をまとめて掴んで食べ始めていた。
その姿に気づいた女店主が、フォークとスプーンを持ってきてくれる。
「ごめんなさい。この辺の人じゃなかったのね」
エラはフォークを受け取ると、勢いよく食事をかき込んだ。
「ねぇ! これ美味しいよ! この白いの!」
「エラ! 食べるか喋るかどっちかにして」
女店主は笑いながら言う。
「お米って言うんです。この辺じゃみんな食べるんですよ」
「お米……」
甘くて、美味しい。
それよりも、温かな食事が嬉しかった。
「じゃあ、この宿の名物も食べま…」
「食べます!」
女店主が言い切る前に、オトが即答する。
「じゃあ、持ってきますね」
そう言って、女店主は厨房へ戻っていった。
しばらくして、皿に何かを乗せて戻ってくる。
「当宿名物の“腐ったカエル”です!」
皿の上には、串に刺さった何かに黒い液体がかかっていた。
「……」
「……腐ったカエル」
私はその謎の食べものを見つめてつぶやく。
「大丈夫です。腐ってはいませんよ」
にこにこしながら、女店主は答える。
「いや、もう少し名前どうにかならなかったんですか?」
「昔からそう呼ばれてるんです」
「昔の人は正気ですか?」
名前はともかく、見た目も良くない。
黒い液体の正体も気になる。
「見た目で決めるのは良くないですよ」
そう言うと、ひょいと一本を取り上げて、オトが食べる。
「!?」
「おいしいですねぇ」
満面の笑みを浮かべて頬を押さえる。
若干引き気味な私をよそに、オトは続けて食べる。
「みなさんもどうぞ!」
串を一本取って、目の前に差し出してくる。
私の中で、山小屋のクッキーが浮かんだ。
「無理! 絶対無理!」
押し出される手を、私は必死に遮った。
それを見て、隣のエラがぱくりと食べる。
――エラが食べた。
――しかも普通に。
エラはしばらく考えるように口を動かしてから、こっちを見た。
「ヨル。これ美味しいよ」
エラの顔を見つめる。
――道連れにするつもりは、ないよね。
私はひと息吐くと、目をつぶって恐る恐る口に入れた。
口の中に、鶏肉のような食感と旨みが広がる。
「……確かに悪くないわ」
見た目と名前以外は、全部私の好みだった。
気づくと二串目を手にしていた。
「うふふ。ヨルさんも気に入ったみたいですね」
「お土産にならないかしら……」
「その名前のものを持ち歩きたくないわよ」
「でも美味しかったですよ?」
「それはそうだけど」
食事が終わるころには、体の芯まであたたまっていた。
さっきまで死にそうだったのが嘘みたいだ。
温泉に入って、ごはんを食べて、変な名前の料理で騒いで。
それだけのことなのに、ようやくちゃんと生き返った気がした。
「はぁ〜……食べたぁ……」
エラが満足そうに机に突っ伏す。
「行儀悪いよ」
「今はもう、ちょっとくらい許される気がする」
「どういう理屈よ」
向かいでは、オトがまだ“腐ったカエル”を惜しそうに見ていた。
「本当にお土産にできませんかねぇ……」
「気に入っていただけてよかったです」
食器を下げながら、女店主がくすっと笑う。
「ごちそうさまでした!」
オトが元気よく頭を下げる。
エラも私も、それに続いて礼を言った。
*
食堂を出て部屋へ戻るころには、外はもうすっかり静かだった。
風の音も遠くて、宿の中だけが別の場所みたいにあたたかい。
そして、部屋に入ると、エラが少し静かになった。
さっき温泉で言っていた「あとで」が、頭の隅に戻ってくる。
オトはそれに気づいたのか、荷物をまとめながらこちらを見た。
「私、少し下でお茶でももらってきますね」
「えっ?」
エラが顔を上げる。
「せっかくなので、女店主さんにこの辺のお話も聞いてみたいですし」
にこっと笑って、オトは立ち上がった。
「ゆっくりしててください」
そう言って、すっと部屋を出ていく。
扉が閉まる音がして、部屋の中が静かになった。
さっきまであんなににぎやかだったのに、急に音が減る。
その静けさの中で、エラがぎゅっと膝を抱えたのが見えた。
私はベッドの端に腰かけたまま、エラを見る。
「……で?」
エラがびくっと肩を揺らす。
「あとで、って言ってたやつ」
「うん」
返事は小さい。
少し待つ。
でも、エラはなかなか続けなかった。
「言いにくいなら、無理に今じゃなくても――」
「ごめん」
言葉をさえぎるように、エラが言った。
私は黙る。
エラは視線を落としたまま、ぽつりぽつりと続けた。
「勝手にいなくなって、ごめん」
「ヨルに、いっぱい心配かけて、ごめん」
「探しに来るって、たぶん、思ってたのに……それでも、ちゃんと帰れなくて、ごめん」
その声は、温泉で騒いでいた時よりずっと小さかった。
私はすぐには返事をしなかった。
怒っていないわけじゃない。
心配していなかったわけでもない。
正直、今でも思い出すと腹が立つ。
でも、こうしてちゃんとこっちを向いて言おうとしているのを見ていると、簡単には言葉が出てこなかった。
「……うん」
ようやく、それだけ返す。
エラがちらっとこちらを見た。
「うん、じゃないでしょ」
「じゃあ何よ」
「もっとこう……怒るとか……」
「怒ってるわよ」
言うと、エラは少しだけ目を丸くした。
「ちゃんと怒ってる。今でも」
「勝手にいなくなるし」
「ごめん、だけ置いてくし」
「空から落ちるし」
「気づいたらまた変な顔してるし」
「変な顔……?」
「してる」
エラは少しだけ口をとがらせた。
「でも」
私はそこで一度息をつく。
「ちゃんと帰ってきたから」
「帰ってきて、今ここにいて、ちゃんと自分で言ったから」
「だから、聞く」
それを聞いて、エラは膝を抱えたまま、小さく笑った。
泣きそうなのを誤魔化すみたいな、変な笑い方だった。
「……ヨルって、そういうとこずるい」
「何がよ」
「怒ってるのに、ちゃんと聞いてくれるとこ」
「聞かないと、あとで余計めんどくさそうだから」
「ひどい」
「ほんとでしょ」
エラは少しだけ笑って、それから真顔に戻った。
「私ね」
「最初、ちゃんと帰るつもりだった」
私は黙って聞く。
「でも、あっちで言われたこととか、見たものとか、知らないことがいっぱいあって」
「それで……ちょっと、わからなくなった」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
“ちょっと”じゃないのは、たぶん私も知っている。
でもエラは、たぶん今はそれくらいの言葉でしか言えないのだろう。
「ヨルのことは忘れなかったよ」
その一言だけは、はっきりしていた。
「忘れてたら、あの紙も持ってないし」
「“エラのバカ”も、あんなに気にならないし」
思わず、私は少しだけ目をそらす。
「……あれは、書いた時ちょっと腹が立ってたのよ」
「うん。知ってる」
「なんでよ」
「文字がちょっと怒ってた」
「文字でわかるの?」
「なんとなく」
エラはそう言って、少しだけ笑う。
私も、つられて少しだけ笑ってしまった。
「でも」
エラがまた言う。
「それでも、あの時ちゃんと戻れなかったのは、本当だから」
「だから、ごめん」
今度の“ごめん”は、さっきよりまっすぐだった。
私はエラを見る。
元気で、勝手で、すぐ突っ走って、たまに本当に困る。
でも、こういう時だけは、妙に逃げない。
そこがずるいのは、たぶんこっちも同じだ。
「……次」
「うん?」
「次に勝手にいなくなったら、もっと怒るから」
エラが目をぱちぱちさせる。
「今回より?」
「今回より」
「こわ」
「当然でしょ」
「じゃあ、いなくならないようにする」
「そうして」
少しの沈黙。
それからエラが、そろっと聞いてきた。
「……許してくれた?」
私はすぐには答えない。
わざと少しだけ間を置いてから、言った。
「半分」
「半分!?」
「残り半分は、これからの態度で決める」
「厳しい!」
「当然」
エラはぶつぶつ言いながらも、どこかほっとした顔をしていた。
私はその顔を見て、ようやく肩の力を抜く。
すると、扉の向こうから足音がして、ちょうどいいタイミングでオトが戻ってきた。
「ただいまで――あれ?」
私とエラを見比べて、少しだけ首をかしげる。
「なんか、空気やわらかくなってません?」
「別に」
「なってないよ」
私とエラがほぼ同時に言う。
オトはにこっと笑った。
「そういうことにしておきますね」
手には湯気の立つ湯のみが三つあった。
「女店主さんが、お茶をくださいました」
「やった!」
さっきまでしんみりしていたくせに、エラはすぐに元気な声を出す。
私は思わずため息をついた。
「切り替え早すぎるでしょ」
「いいことだよ!」
「たぶんね」
オトが笑いながら、お茶を配る。
湯のみを受け取ると、ほんのりあたたかい。
その熱が、指先からじんわり伝わってきた。
外はまだ夜だった。
でも、さっきまでの雪山の夜とは違う。
寒くなくて、暗くなくて、ちゃんと息ができる夜。
私は湯のみを両手で包みながら、向かいの二人を見た。
エラはもう普通の顔でお茶を飲んでいる。
オトはそんなエラを見て、少しだけ笑っていた。
……まあ、半分くらいなら。
この変な名前の宿で、少しだけ、私たちは自分たちの場所に返ってきた気がした。
そう思って、私もお茶に口をつけた。

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