イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第二十五話 地図にない故郷
雪山を、転がるように走った。
体のあちこちが軋むように痛んでいたけれど、足は止めなかった。
一歩踏み出すたびに雪が重くまとわりつく。
それでも、今にも倒れそうなエラの肩を支えて、私は前へ進んだ。

エラとヨル 第二十五話
【地図にない故郷】
服は泥だらけだった。
吐き出す息は白く、夜気の中にすぐ消えていく。
「こっちだ」
短く言うシーズの背中を、黙って追う。
教団の追っ手が近づいているのか、遠ざかっているのか、考える余裕はなかった。
振り返るより、隣を歩くエラの様子だけを確かめながら、私は前を見た。
どれくらい歩いたのだろう。
荒い息遣いだけが、静かな夜に響いていた。
「あそこだ!」
前を行くシーズが、小さな洞窟を指さした。
私はオトを見た。
オトもすぐに頷く。
それだけで十分だった。
広くはない。けれど、身を隠すには十分な広さがある。
洞窟にたどり着いた途端、私たちは倒れ込むようにその場へ座り込んだ。
息が上がる。
心臓の鼓動は、いつまでも速いままだった。
みんな、満身創痍だった。
鈍い痛みを感じて腕を見る。
服に、うっすら血が滲んでいた。
「ぼろぼろね」
誰に言うでもなく、私は呟いた。
洞窟の奥が、ほのかに色づく。
見ると、シーズが小さな焚き火に火をつけていたらしい。
揺れる火の灯りで、辺りの輪郭が少しだけ浮かび上がる。
奥には、小さな木箱や袋が置かれていた。
その中に、見覚えのある荷物が混じっている。
「私たちの荷物……」
「運び出せた物だけだ」
シーズは箱から水の入った水筒を取り出し、口をつけながら答えた。
「あった!」
弾んだ声を上げたのは、オトだった。
彼女はリュートを大事そうに抱きしめて、ほっとしたように笑っている。
――こんな時でも、楽器が一番なのね。
そう思った時、私は無意識に胸元へ手をやっていた。
――ヨル。ごめん。
しまっておいたエラの手紙に触れて、またやってる、と思う。
もう癖みたいなものだと気づいて、少しだけ口元が緩んだ。
エラは俯いたまま、金の髪飾りを見つめていた。
焚き火の灯りが、その顔の半分だけを照らしている。
見慣れているはずの顔なのに、どこかまだ遠い。
けれど同時に、胸の奥では、ちゃんとその顔を知っている気がした。
「エラ……大丈夫?」
私が声をかけると、エラは黙ったまま小さく頷いた。
「ここなら少し休める」
シーズは短くそう言って、壁に寄りかかる。
そのまま腕を押さえているのを見て、さっきの魔法でかなり無理をしたのだとわかった。
少しずつ息が戻ってくる。
膝を抱えて座るエラに、そっと外套をかけた。
するとエラは、ぎこちなく笑った。
「竜石は――」
シーズが口を開く。
けれど、その先を少しだけ言い淀んだ。
洞窟の壁にもたれたまま、低い声で続ける。
「竜石は三つある。主教が持っていた物は、あの時砕けた」
その言葉を聞いて、思い出す。
夜空に浮かぶ感覚。
空を舞うエラとオトの姿。
「もう一つは、ここにある」
そう言って、シーズは腰の鞄から小さな石を取り出した。
淡く光る、滑らかな石。
その瞬間、エラが顔を背けた。
私は反射的に、エラの前へ立っていた。
「勘違いするな」
シーズはそう短く言うと、地面に竜石を置く。
それから短剣を抜き、刃ではなく柄の部分を竜石へ強く叩きつけた。
キーン、と澄んだ音が洞窟に響く。
地面に置かれた竜石は、粉々に飛び散った。
エラが額に手をあてる。
その光景を見つめたまま、私は息を止めていた。
横で、オトが小さくささやく。
「戻るつもりは……ないってことですか?」
シーズは黙って頷いた。
「これで残るのは、一つ……」
「まだ、あるんだ」
思わず、そう呟いていた。
「最後の一つは、離れた場所にある」
一拍、間が空く。
「ルーベントだ」
その言葉を聞いた瞬間、エラの肩が小さく揺れた。
「ルーベント? 聞いたことのない場所ですね」
オトがリュートを撫でながら言う。
「地図にのらない街だ。知らなくて当然だ」
シーズが返した。
――どうして地図にのらないの?
私の中で小さな疑問が浮かんだが、エラは黙ったまま、俯いている。
「使徒を……エラを探すために、教団から派遣されたのは俺たちだけじゃない」
シーズはゆっくり続けた。
「使徒が書いたとされる地図を辿って、俺たちはリンブガルドへ。もう一組は、ルーベントへ派遣された」
「エラの痕跡を辿ったってこと?」
思わず聞き返すと、シーズは頷いた。
「ルーベントは、エラの故郷だ」
故郷、という言葉が不思議に響いた。
私にとって故郷は、帰れる場所だ。
でも、エラにとってのそこは、たぶん違う。
「ルーベントに派遣された奴らからの音信が途絶えた。竜石を持ったまま、行方知れずだ」
「たとえここから逃げ切れても、教団はエラを探し続けるだろう」
その通りだった。
彼らにとってエラは、正しさの象徴だ。
何に代えても取り戻したいと思うはずだ。
「だから、最後の一個をこっちから見つけ出して――」
「砕く」
短い言葉だった。
けれど、そこにシーズの強い意志があった。
「エラさんは平気なの?」
オトが心配そうにエラを見つめる。
「もう、大丈夫」
エラは無理に笑ってみせた。
「少しだけど、思い出してきたよ。竜石を砕いた後は、はっきりとね」
エラの顔は疲れている。
それでも、少しだけ私の知っている顔に戻っていた。
「ここからは二手に分かれる」
「奴らは、あの場から竜石を持ち出した俺を血眼になって探しているはずだ」
シーズが言った。
「俺が一人で先に出て、派手に動く。奴らの視線を引きつける」
私はシーズを見返した。
「それは――」
言いかけた言葉を、シーズが遮る。
「だから、勘違いするな。俺は生き残れる確率が高い方法を選んでるだけだ」
その声は淡々としていた。
本気なのか、そう言っているだけなのか、まだよくわからない。
「生きていれば、ルーベントで会うだろう」
そう言って、シーズは少しだけ笑ったように見えた。
それが初めて見せた素顔だったのかもしれない。
「あと、これを持って行け」
シーズは乱暴に小さな袋を投げてきた。
私はそれを受け取る。
思った以上に重い。
袋の中には、かなりの額の金貨が詰まっていた。
「こんなに……!」
驚いた私を、シーズが面白そうに見つめる。
「教団から持ってきた。“使徒様”の集めた金だ。奴らも本望だろ」
オトがくすりと笑った。
「しばらくは、働かなくて済みそうですね」
「それってドロボ――」
私が言い切る前に、エラが袋へ手を伸ばしてきた。
「正しい使い方だよ……」
エラの視線は、しっかり金貨へ向いている。
オトも、楽しそうに笑っている。
私は、忘れかけていた感覚が戻ってくるのを感じた。
――この二人には任せておけない。
「これは、私が管理します!」
少しぎこちなかったかもしれない。
でも、今はそれでよかった。

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