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イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第二十四話 空へ逃げた夜


祈りの言葉は、何度も聞いていた。

本当なら、落ち着くはずだった。

心を鎮めて、迷いを遠ざける。
ここが正しい場所なのだと思い出すための儀式。
そう聞かされてきたし、これまでは、たしかにそうだったのだと思う。

だけど、その夜は違った。


エラとヨル 第二十四話
【空へ逃げた夜】


「――真なる竜の御名において」

主教の声が遠く響いた、その時だった。
暗闇の奥で、ひとつだけ別の色が揺れた。

黒い影みたいな色。

知らないはずなのに、胸の奥だけが先に反応した。

その次に聞こえたのは、音だった。

ぽろん、と。

小さな弦の音。
やさしいのに、少しだけ気の抜けたような音。

白い息と雪の匂い。
紙をめくる指先と笑い声。

――エラのバカ。

誰かの声がした。

私は目を開ける。

灯りが、少し滲んで見えた。

「……使徒様?」

近くにいた女の人が、心配そうにこちらを見る。
私は息を整えようとして、うまくできなかった。

胸の奥が、さっきからずっとうるさい。
静かになるはずなのに、逆だった。

「大丈夫ですか」

「……大丈夫、です」

そう答えた声も、少しだけ自分のものじゃないみたいだった。

正面では、主教がいつも通り穏やかな顔をしていた。

安心させるような目。
でも、そのやさしさには逃げ道がない。

「少しお疲れのようですね。今日はここまでにいたしましょう」

周りの人たちが静かに従う。
立ち上がろうとして、私は少しふらついた。

すぐそばにいたシーズが、無言で腕を支える。
その手は冷たかった。

「部屋へ戻りましょう」

私は頷きかけて、ふと口を開いていた。

「……外の空気を、吸いたい」

自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。

ただ、部屋へ戻ったら、
さっきの黒い色も、弦の音も、また遠くなってしまう気がした。

ここで遠のかせたくなかった。

主教が少しだけ首を傾げる。

「外、ですか」

「少しだけ。……息が詰まるみたいで」

その場の空気が止まる。

使徒の願いは、軽く扱われない。
ここでは、そういうことになっているらしい。

主教は少し考えてから、やわらかく笑った。

「わかりました。明日の朝までに、空気のいい場所へ案内しましょう」

私は小さく息を吐く。

それから、もう一つ、言葉が出た。

「……肉の匂いが、少し苦手です」

今度は、主教ではなくディアがこちらを見た。

ほんの少しだけ。
でも、はっきりと。

「もっと軽いものが、いいです」

「では、整えておきます」

そう答えたのはシーズだった。

主教は満足そうに頷く。

「使徒様が安らげるように」

私は目を伏せた。

安らげるはずなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。



夜は静かだった。

でも、昨夜とは違う静けさだった。

隣の寝台に座るオトは、いつものやわらかい顔のまま、目だけが少しも眠そうじゃない。

私も、たぶん同じだった。

風が鳴る。
石の壁が冷たい。

約束の時間が近づくほど、呼吸が浅くなる。

やがて、足音が止まった。
私はすぐに顔を上げる。

鍵の音。

扉が、わずかに開く。
そこに立っていたのは、シーズだった。

「来い」

それだけ言う。

私は立ち上がる。
オトも、すぐ後ろについた。

「見張りは?」

私が小さく聞くと、シーズは廊下の先を見たまま答えた。

「次の交代まで少しある。話すな。急げ」

私たちは部屋を出た。

夜の教団は、昼よりずっと狭く感じた。
長い石の廊下には、壁の小さな灯りが続く。

昼は祈りの場所に見えたのに、夜のそれは檻とあまり変わらなかった。

シーズは迷いなく進む。
私たちは、その背中を追う。

曲がり角の手前で、シーズが手を上げる。

私たちは息を止めた。

遠くで話し声がした。
それが離れていく。

「今だ」

短く言って、また歩き出す。

「ディアは?」

聞くつもりはなかったのに、口が動いた。

シーズは少しだけ間を置く。

「外へ出した」

「本当に?」

「使徒様の希望だ。空気のいい場所と、軽い食事の用意。主教も断れない」

都合が良すぎる気もした。
でも、今は疑っている場合じゃない。

「……嘘じゃないでしょうね」

私が言うと、シーズは振り返らなかった。

「今さら、それを言うか」

私は答えなかった。

それ以上、シーズも何も言わなかった。

やがて、少しだけ明るい建物の前で、シーズが足を止める。

「中だ」

「見張りは?」

「今はいない。俺が外した」

「随分器用ですね」

「今さらだ」

その声は、昨夜より少し掠れていた。

「会える時間は長くない。主教が気づけば終わる」

私は頷く。

オトが、そっと息を吸う気配がした。

シーズが扉を開ける。

部屋の中はあたたかかった。

暖炉の火が微かに照らす机。
壁際の棚には本がたくさん、丁寧に並べられている。

整えられた寝台の前に、綺麗な白い服を着たエラが立っていた。

一瞬、誰も動かなかった。

エラは私たちを見ている。

でも、その目は、すぐに駆け寄る目でも、安心した目でもなかった。

見られているのに、届いていない目だった。

胸の奥が、いやなふうに痛んだ。

「……エラ」

私が名前を呼ぶ。

その音に、エラの肩がほんの少しだけ揺れた。

返事はない。
でも、目は逸れない。

私は一歩だけ前に出る。

「まだ帰らないの?」

それ以上、きれいな言葉は出なかった。

怒っているのも本当だった。
責めたい気持ちがあるのも本当だった。

でも、ここまで来て最初に言いたかったのは、それだった。

エラの唇が少し動く。

「かえる……?」

小さな声だった。

「わ、たし……」

そこで言葉が途切れる。

苦しそうに、エラが眉を寄せた。

オトが一歩前に出る。

「無理に思い出さなくて大丈夫です」

その声に、エラがそちらを見る。

「オト……?」

「はい。オトです」

その呼び方だけで、少しだけ胸が軽くなる。

全部ではない。
でも、ちゃんと残っていた。

エラは困ったみたいに私へ視線を戻す。

「あなたは……」

私は息を吸う。

泣くつもりはなかった。
ここで泣いたら、言いたいことまでぐしゃぐしゃになりそうだった。

「私はヨル」

できるだけまっすぐ言う。

「勝手にいなくなったあなたを、ずっと探してた」

エラの目が揺れた。

ヨル。

その名前を、胸の奥で確かめるみたいに。

「ヨ……ル」

「そう」

「……ごめん」

その言葉に、私は少しだけ顔をしかめる。

「エラのバカ!!」

エラが目を見開く。

私は懐から、小さな紙を取り出した。
何度も触ったせいで、少しだけ端が柔らかくなっている。

それを見た瞬間、エラの表情が変わった。

「あ……」

「これ、あなたが書いたんでしょう」

エラは紙を見つめたまま、小さく息を呑む。

「これ、わたし……」

「そう。自分で書いた」

私は言葉を継ぐ。

「全部忘れたわけじゃなかった。あなたは、自分で残した」

エラの指先が震える。

紙に触れようとして、途中で止まる。

「私……これを、書いて……」

「そうよ」

「どうして……」

「私に謝りたかったんじゃないの」

きつい言い方だと思った。
でも、引っ込める気にはなれなかった。

「何も言わないまま、いなくなったから」

その言葉に、エラの目の奥が揺れる。

雪の匂い。
白い道。
背中越しの声。
金色の髪飾り。

断片が一気に流れ込んできたみたいに、エラが額を押さえる。

「……っ」

「エラさん」

オトが支えようとする。

私は部屋の中を見回した。
その時、机の端に見覚えのあるものが見えた。

紙の束。
その下に、少しだけ覗く線。

私は近づいて、それを引き出す。

地図だった。

山道の癖や印の置き方。
特徴のある水場の記号。

完成にはほど遠い。
でも、エラの文字には見覚えがある。

端には、二つの名前があった。

エラとヨル

息が止まる。

「……これ」

私が呟くと、エラがゆっくり顔を上げた。
地図を見た瞬間、その目がはっきり変わった。

「だめ」

小さく言う。

「それ、……それは」

「覚えてるの?」

エラは答えない。
でも、近づいてきた。

指先が、地図の上をさまよう。
それから、名前のところで止まる。

「……ヨル」

今度は、さっきよりずっと自然だった。

胸の奥が熱くなる。

「そう」

エラは地図から目を離さないまま、もう一度言った。

「ヨル……!」

その一言だけで、十分だった。

全部じゃない。
でも、戻ってきている。

私はもう一つ、懐から金色の髪飾りを取り出した。

「これも」

エラが顔を上げる。

髪飾りを見た瞬間、息を呑んだ。

「それ……」

「落としてた」

「……わたしの」

「そう」

エラが一歩近づく。
その手はまだ震えていた。

「似合うかどうかじゃなくて、あなたのだよ」

その言葉が出た瞬間、エラの目に、はっきりと何かが走った。

雪の中。
笑いながら振り返る自分。
文句を言う私。
髪飾りを押しつけるように渡した手。
あの時の風。

「……っ」

エラが口元を押さえる。

「わたし、知ってる」

「うん」

「この地図も、この髪飾りも……ヨルも……」

「うん」

「忘れたく、なかった……」

その声はひどく小さかった。
でも、はっきりしていた。

私はもう一歩近づく。

「まだ、ここに居たい?」

エラは迷っていた。
苦しそうだった。
それでも、さっきまでとは違う顔だった。

「今度はあなたが決めて」

しばらくの沈黙のあと、エラが小さく頷く。

「……帰る」

短く、でもはっきりと。

その瞬間だった。

扉が開き、全員が振り返る。

そこに立っていたのは、ディアだった。

月明かりを背負っていて、表情は少し見えにくい。
でも、息が乱れている。
戻るつもりで戻った顔だった。

ディアの視線が、私たちを順番に捉える。
最後に、シーズで止まった。

「……やっぱり」

声は大きくなかった。

シーズが一歩前に出る。

「ディア」

「外へ出したのは、これのためだったのね」

ディアは静かに言う。

怒鳴らない。
その静けさが、逆に怖かった。

「使徒様の願いだから断れない、なんて言って」

「そうだ」

シーズも否定しない。

ディアはエラを見る。

「使徒様。こちらへ」

エラは動かない。

その小さな違和感を、ディアは見逃さなかった。

「……エラ?」

名前で呼んだ。
それだけで、少しだけ彼女の揺れが見えた気がした。

ディアは一歩だけ部屋へ入る。

「その人たちは危険です」

「危険なのは、そっちでしょう」

私が言う。

ディアが私を見る。
冷たいわけじゃない。
でも、迷っているからこそ固い。

「違う。私は守ろうとしてる」

「記憶を消して?」

「消してない。安らげるように――」

「同じです」

私の声が部屋に響く。

「本人が選んでないなら、同じでしょう」

ディアの眉が寄る。

「ここにいれば安全です」

「安全なら、閉じ込めない」

「外はもっと危ない!」

そこで初めて、ディアの声が強くなった。

部屋の空気が張る。

怒鳴っているのに、怒っている声には聞こえなかった。

「使徒が外へ出れば、奪い合われる。利用される。狙われる。……守れなかったら、終わりなの」

その声は、恐怖をそのまま押し出したみたいだった。

「ここにいれば少なくとも守れる」

「だから何してもいいんですか」

私は一歩前へ出る。

「守るって言えば、囲ってもいいの? 記憶を触ってもいいの? 本人が苦しそうにしてても、安らいでるって言い張れば済むの?」

ディアが息を呑む。

「それは……」

「エラは物じゃない」

その時だった。

廊下の向こうから、ゆっくりした足音が聞こえた。

誰もがそちらを見る。

やがて現れたのは、主教だった。

穏やかな顔を浮かべ、衣は乱れひとつない。
何もかも見通しているみたいな静かな目が、逆に歪んで見えた。

「騒がしいと思いましたら」

その声は、いつも通りだった。

「外から入り込んだ鼠が、ここまで来ていたのですね」

オトが息を詰める。
シーズは奥歯を噛みしめた。

主教はシーズを見る。

「残念です。あなたには期待していたのですが」

「……勝手に期待したのはそっちだ」

主教は軽く目を細める。

「使徒様」

その呼びかけに、エラの肩が揺れる。

「どうかこちらへ。外の雑音に触れすぎました。少しお疲れのようだ」

エラは動かない。

主教はさらにやさしい声で続ける。

「大丈夫です。今、安らぎを取り戻して差し上げます」

逆らわれるなんて、最初から思っていない声だった。

その手の中には、竜石があった。
淡く光る、異様に滑らかな石。

見た瞬間、背筋が冷える。

「やめて」

私が言う。

主教は微笑むだけだった。

「あなたがたは、使徒様を混乱させるだけです」

「混乱させてるのは、あなたでしょう」

「違います。私は救っているのです」

その言葉と同時に、竜石が光を帯びる。

空気が変わる。

重い。
粘つくような気配。

エラが苦しそうに息を呑んだ。

「……っ」

「エラ!」

私が手を伸ばす。

でも、主教の声がそれより早く落ちてきた。

「思い出さなくていい。ここがあなたの居場所です。外は苦しみだけだ。忘れなさい。静かに、穏やかに――」

「違う」

声は小さかった。

でも、たしかにエラのものだった。

主教の目が、わずかに揺れる。

「使徒様?」

エラが顔を上げる。

苦しそうで、涙が滲みかけていて、それでも、はっきりと主教を見た。

「違う」

今度は、さっきより強い。

「それは……私が決める」

竜石の光が、一瞬だけ強く脈打つ。

主教の表情が変わる。

「押さえなさい!」

ディアが反射的に前へ出かけて、止まる。
シーズも動こうとする。

その間に、エラが両手で頭を押さえた。

「いや……!」

竜石が、軋むみたいな音を立てた。

光が、割れるように広がる。

白ではなかった。
青でも赤でもない。
見たことのない、透けた色だった。

空気そのものが持ち上がる。

暖炉の火が揺れる。
机の紙が舞う。

「エラ!」

私が叫ぶ。

エラが苦しそうに目を閉じたまま、こちらへ手を伸ばした。

私はその手を掴む。

次の瞬間、床が消えた。

身体が、上へ引っ張られる。

「きゃっ――!」

オトの悲鳴。
風が一気に吹き抜ける。

天井が砕けるように遠ざかり、
夜の空気が肌を打った。

私たちは空にいた。

建物の屋根が下に見える。
教団の明かりが、小さく散っている。
夜の村が足元へ落ちていく。

「エラ! これ、あなたが!?」

返事はない。

エラは目を閉じたまま、息を乱していた。

たぶん、制御していない。
している余裕もない。

ただ、噴き上がった。

取られそうになった何かが、
行き場をなくして、そのまま空へ噴き上がったみたいだった。




風が身体を叩く。

「ヨルさん!」

オトが叫ぶ。

私は片手でエラを掴み、もう片方でオトの腕を取る。

「離れないで!」

そう叫んだ瞬間、身体が大きく傾いた。
浮かび上がる力が、急に弱くなる。

「……っ!」

落ちる。

夜の空気が、今度は逆向きに押し寄せた。

下は暗い。
地面は見えない。
でも、確実に近づいてくる。

エラの魔法は、長く保たなかった。

「このままだと――」

オトの声が震える。

その時、下から青い光が走った。

水だった。

暗い地面の上に、何枚もの水の膜が広がる。
丸く、重なって、薄く揺れる。

シーズだ。

「落ちろ!」

下から怒鳴る声がした。

次の瞬間、私たちは一枚目の水膜に叩きつけられた。

衝撃。

でも、硬い地面じゃない。

二枚目。
三枚目。
四枚目。

水が受けて、裂けて、また次が支える。

最後に、湿った土の上へ転がった。

息ができない。

肺が痛い。
腕が痺れる。

掴んでいた手の感覚だけが、やけにはっきりしている。

私は咳き込みながら隣を見る。

エラがいた。
オトも、少し離れたところでうずくまっている。

生きている。

「……は、ぁ……」

水音と荒い息の向こうで、シーズが膝をついた。
片手を地面につき、もう片方を押さえている。

かなり無理をしたのが、見ただけでわかった。

「シーズ!」

私が呼ぶと、シーズは顔を上げる。

「無事か」

それしか言わなかった。

「どうにか」

私は答えてから、隣を見る。

エラはまだ苦しそうだった。
でも、私の手を離していない。

それだけで、少しだけ喉が熱くなる。

遠くで鐘の音が鳴った。

教団だ。

一つ。
二つ。
三つ。

夜を裂くみたいに、不吉な音が山へ広がっていく。

シーズが立ち上がろうとして、少しよろめく。

「追手が来る」

「立てますか」

オトが聞く。

「立つしかない」

その声は掠れていた。
でも、はっきりしていた。

私はエラの肩を支える。

「歩ける?」

エラは目を開ける。
まだ完全に焦点は合っていない。

でも、私を見た。

「……ヨル」

小さく、でも確かにそう呼んだ。

「うん」

「ごめん、は……あとで、ちゃんと、言う」

私は思わず息を止める。
それから、少しだけ笑った。

「あとででいい」

鐘の音が、また鳴る。

背後の空が、少しずつ明るくなっていく。
灯りか、魔法か、それとも追手の火か。

どちらにしても、ゆっくりしていられる時間はなかった。

シーズが山道の奥を見たまま言う。

「走れ」

命令というより、そうするしかない声だった。

私はエラの手を握り直す。

今度は、離さない。

夜の底みたいな山の中へ、私たちは踏み出した。

逃げ切ったわけじゃない。
何も取り戻し終えていない。

それでも。

あの場所からは、もう落ちた。

そのことだけは、たしかだった。


🔙第二十三話   第二十五話🔜



創作大賞2026 ファンタジー小説部門 投稿作

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