イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第二十三話 夜に来た人
夜は、思ったより静かだった。
眠れる気はしなかったけれど、目を閉じている時間は長かったと思う。
石の壁は冷たいまま。
細い窓から入る月の光だけが、床に薄く落ちていた。

エラとヨル 第二十三話
【夜に来た人】
向かいの寝台では、オトが毛布にくるまっている。
眠っているようにも見えるし、起きているようにも見えた。
私も、たぶん同じだった。
懐にしまった紙を、何度も指先で確かめる。
『ヨル。ごめん』
短いその文字だけが、胸の奥に引っかかっていた。
帰る気があるなら、帰ればいい。
帰れないなら、そう言えばいい。
ごめん、だけ残して、勝手にいなくなるなんてずるい。
そう思うのに、怒りだけでは片づかない。
その時だった。
――かす、と。
扉の外で、何かが擦れるような音がした。
私はすぐに顔を上げる。
向かいの寝台で、オトも同じように身を起こしていた。
音は一度きりじゃない。
小さく慎重に、誰かが外にいる。
私は立ち上がる。
オトも音を立てないように寝台を降りた。
鍵の音がした。
ゆっくりと。
確かめるみたいに。
私は息を止める。
扉が、わずかに開いた。
月明かりの薄い線が、廊下から差し込む。
その向こうに立っていたのは――シーズだった。
私は反射的に一歩下がる。
オトは何も言わないまま、私の少し後ろへ移動した。
シーズは部屋の中を一度だけ見回したあと、静かに扉を閉めた。
鍵はかけない。
「起きてたんだな」
「寝られると思いますか?」
私が低く言うと、シーズは少しだけ目を伏せた。
「……それもそうか」
その声は、山小屋で聞いた時と同じだった。
落ち着いていて、感情が見えにくい。
でも今は、どこか違っていた。
少しだけ、疲れているように見える。
「何の用ですか」
私は壁を背にしたまま聞く。
「見張りの交代時間だ。少しだけ話せる」
「本当はそんな話し方をするんですね」
山小屋で話した時は優しく、柔らかな声だった。
今は、感情を押し殺したような、淡々とした声だ。
棘を混ぜても、シーズは怒らなかった。
「ここで、何が起きているか気になるか?」
「当たり前です」
「そうだな」
その答えに、私は少しだけ言葉を失う。
シーズは部屋の中央までは来なかった。
扉の近くに立ったまま、こちらを見る。
「エラのことを話しに来た」
その瞬間、空気が変わった。
「……どこにいるんですか」
思ったより早く声が出た。
シーズは少しだけ眉を寄せた。
「今はまだ、奥の建物にいる。使徒として扱われてる」
「使徒?」
思わず吐き捨てるように繰り返す。
「閉じ込めておいて?」
「そうだ」
「ふざけてる」
シーズは否定しなかった。
「エラはここで、“使徒様”と呼ばれている」
私は黙る。
隣で、オトも息をひそめていた。
「ここでは、竜を神聖なものとして崇めてる。正確には、“真なるドラゴン”を」
「その使いが、使徒ってことになっている」
訳がわからない話だった。
――なぜ、エラが使徒に選ばれたのか?
そんなことを考えるより先に、気になることがあった。
「エラは無事なんですか」
「怪我はしていない」
「それだけですか」
シーズは、一瞬だけ答えをためらった。
その沈黙だけで、嫌な予感は十分だった。
「……竜石を使った」
私の喉が、ひゅっと鳴る。
「竜石?」
オトが静かに聞き返す。
「ドラゴンを操ることができると言われる石だ」
「ドラゴンを……!?」
オトは息を呑んだ。
「本当かどうかは、わからない。ただ、特定のヒューマンには効果がある」
「竜の因子を持つものだけに反応する……」
「その石がエラに反応した?」
私はシーズを見つめて呟いた。
彼の表情は変わらない。
ただ、淡々と話す姿は、山小屋で見た姿とは違って見えた。
「そうだ」
「竜石を使えば、記憶や認識に干渉できる。強く使えば、今いる場所を自然だと思わせることもできる」
私は何も言えなかった。
あの時、山小屋で漂っていた妙な違和感。
青色の光。
あれが全部、一本につながっていく。
「全部、忘れたんですか」
「全部じゃない」
シーズは首を振る。
「たぶん、まだ残ってる。完全には消えていない」
懐の紙が、急に熱を持ったみたいに感じた。
『ヨル。ごめん』
あれは、まだエラが自分で考えていた証拠だ。
私はそれを思い出しながら、シーズを睨む。
「じゃあ何ですか。消えかけているってことですか?」
「……そうだ」
「最低」
「そうだな」
また、その答えだった。
言い返してこない。
正当化もしない。
それが、かえって気持ち悪かった。
「なんでそんなことするんですか」
私の声は、自分でも驚くくらい低かった。
「何が使徒様よ。勝手に連れてきて、勝手に囲って、勝手に記憶まで触って」
「それが、正しいことだと信じているからだ」
私は歯を食いしばる。
「そんなの、理由になってない」
「……知ってる」
部屋が静かになる。
シーズは月明かりの届かない場所に立っていた。
表情が、半分見えない。
「俺も、この考え方は嫌いだ」
その言葉に、私は眉をひそめた。
「今さら?」
「今さらだ」
「自分でエラを連れてきておいて?」
「そうだ」
「私たちを閉じ込めておいて?」
「そうだ」
まっすぐ返されるたびに、余計に腹が立つ。
でも、その怒りとは別に、少しずつわかってくることもあった。
この人は今、言い訳をしに来たんじゃない。
たぶん、もっと別のことを言いに来ている。
オトが静かに口を開く。
「……シーズさんは、ずっとそう思ってたんですか?」
シーズは少しだけ視線を落とした。
「いや」
その一言が、やけに重かった。
「俺はここで育った。生まれた時から、これが正しいと教えられてきた。使徒を守ること。外の人間を遠ざけること。疑う前に従うこと」
淡々とした声だった。
でも、淡々としているぶんだけ、逆に嘘がないように聞こえた。
「ディアと一緒に外へ出る任務を受けるまでは、何も知らなかった」
私は少しだけ顔を上げる。
「外で、初めて見た。普通の町を。普通に笑って、普通に暮らしてる人を。信仰なんてなくても、自分で決めて生きてる人を」
その言葉の中に、わずかな揺れがあった。
「最初は、それだけだった。違うなと思った。でも、それで何かを変えられるわけじゃなかった」
シーズは一度だけ息を吐く。
「……見ないふりをしてた」
その言い方は、自分に向けたものだった。
「おかしいと思っても、任務だからって言い訳してた。従ってれば済むと思ってた。使徒を守るって言葉で、自分が何をしてるか考えないようにしてた」
私は黙ったまま聞いていた。
たぶん、それは本当なのだと思う。
きれいな告白じゃない。
後悔だけで許されるとも思えない。
でも、少なくとも、軽くはなかった。
「……じゃあ、何で今さら話すんですか」
私が聞くと、シーズはすぐには答えなかった。
「なんでここまで来た?」
質問を質問で返す。
やはりこの人は苦手だ。
「血の繋がりもない、ただの旅仲間だろ?」
「それに、吟遊詩人のあんただって、初めて会ったはずだ」
シーズは不思議そうにオトを見る。
「やはり、エラは特別な存在なのか?」
私を見つめて言った。
私はひと息吐いて答えた。
「理由なんてないわ」
「だけど、エラは自分で選んでいない。だから、答えを聞きに来ただけ」
シーズは、その言葉に少し驚いたようだった。
扉の方を一度だけ見て、それからこちらを向く。
月の光が届かない床を、ほんの一瞬だけ見た。
「……主教に命じられた」
「何を」
「お前たちを殺せ、と」
部屋の空気が、凍った気がした。
オトが小さく息を呑む。
私は言葉が出なかった。
シーズの声は変わらない。
でも、その変わらなさが逆に怖かった。
「すぐじゃない。夜が明ける前でも、数日後でもいい。外から来た人間は残せない。使徒様に余計な記憶を戻す前に、片づけろって」
私は拳を握る。
怒りなのか、寒気なのか、自分でもわからなかった。
「……それで?」
「やりたくなくなった」
「だから、助けることにした?」
「そんな立派な話じゃない」
「出来なかったら、俺が消される」
シーズは首を振る。
「……もう嫌になっただけだ」
その言葉だけ、少しだけ強かった。
「誰かに命じられて動くのも。守ってるつもりで閉じ込めるのも。正しいって顔で、誰かの人生を奪うのも」
私はシーズを見る。
月明かりの中で、その顔はひどく静かだった。
でも、静かなまま壊れかけているようにも見えた。
「エラを連れ出してほしい」
その言葉は、はっきりしていた。
「……何ですって?」
「お前たちをここから出す」
シーズは続ける。
「その代わり、エラを連れ出してほしい。俺一人じゃ無理だ」
私は思わず眉を寄せた。
「自分でやればいいでしょう」
「できない」
即答だった。
「俺が動けば、すぐに見つかる。もともと守護の任にいる人間が、使徒様に近づくこと自体は不自然じゃない。でも、連れ出すとなれば別だ。村の外へ出る前に止められる」
オトが静かに聞く。
「シーズさんは、どうするつもりなんですか」
「捜索に出る名目を作る」
「捜索?」
「外から入り込んだ者がいる。使徒様に害をなすかもしれない。そう言えば、村を出る理由にはなる」
私は少し考える。
確かに、それなら教団の理屈の中でも動けるのかもしれない。
でも、引っかかることは別にあった。
「……ディアは?」
シーズの目が、一瞬だけ揺れた。
「知らない」
「知らないって」
「話していない」
それは、少し意外だった。
あの二人は、同じ側の人間に見えたから。
シーズは低く続ける。
「ディアは教団の中でも、俺よりずっと深く信じてる。疑いながら従ってる俺と違って、あいつはまだ、守ることを正しいと思ってる」
その言い方に、少しだけ苦いものが混じった。
「だから、話せない。止められる」
私は唇を噛む。
つまり、この話は本当に戻れない話だ。
シーズは、一人でここに来ている。
失敗すれば終わりだ。
「どうして、私たちが協力すると思うんですか」
私が言うと、シーズは少しだけ目を細めた。
「思ってない」
「は?」
「思ってない。でも、お前はエラを連れて帰りたいはずだ」
私は答えない。
「俺は、もうここに従いたくない。でも、俺一人で全部はできない」
それは、ひどく不格好な言い方だった。
助けてほしい、とも違う。
命令でもない。
取引に近いのに、打算だけでもない。
「……相談しに来たんですか」
オトが、やわらかく言う。
シーズは少しだけ驚いたようにオトを見た。
それから、小さく頷いた。
「そうかもしれない」
私は思わず息を吐く。
ずるいと思った。
こんな話を聞かされて、断れるわけがない。
エラを助けたい。
それは最初から変わらない。
でも今は、それだけじゃなくなっている。
この世界の中で、少しずつ何かが崩れ始めている。
その中で、エラだけを連れて逃げれば終わる話でもないのかもしれない。
それでも。
まずは、エラだ。
私は懐の上から、紙を押さえる。
『ヨル。ごめん』
あの字を思い出すだけで、迷っている場合じゃないと思えた。
「……エラは、今どれくらい覚えてるんですか」
シーズは首を横に振る。
「わからない。会話は普通にできる。でも、ここに来る前のことを考えようとすると、途切れる時がある。名前や言葉に引っかかることもある」
残っている。
まだ、切れていない。
私は顔を上げた。
「連れ出せれば、戻るんですか」
「すぐには無理かもしれない。でも、ここから離せば竜石の影響は薄くなる可能性が高い」
「可能性」
「絶対とは言えない」
そこを濁さなかったのは、少しだけ信用できた。
私はオトを見る。
オトも、こちらを見ていた。
やわらかい顔のまま。
でも、目だけはちゃんと起きている。
「オトさんは」
私が聞くと、オトは一拍だけ置いて頷いた。
「私は、エラさんを連れて帰りたいです」
まっすぐだった。
いつものやわらかさのまま、迷いがない。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
私はもう一度シーズを見る。
「条件があります」
「何だ」
「嘘つかないでください」
シーズは黙った。
「全部話せとは言いません。でも、都合の悪いことを隠したまま話を進めるなら、私はあなたを信用しません」
少し間があってから、シーズは低く答えた。
「わかった」
「あと」
私は一歩だけ前に出る。
「エラを連れて帰るのは、私です」
シーズは私を見たまま、静かに頷いた。
「そうしてくれ」
その答えは、妙にあっさりしていた。
まるで最初から、それ以外の形を考えていなかったみたいに。
扉の外で、かすかに足音がした。
シーズの表情が変わる。
「もう戻る」
「次は?」
私が聞くと、シーズは扉に手をかけたまま答えた。
「明日の夜。見張りの交代前に、もう一度来る。それまでに、村の外へ出る方法を作る」
「失敗したら?」
「その時は」
シーズは少しだけ振り返る。
月明かりが、横顔の輪郭だけを白くした。
「その時は、俺が先に死ぬ」
扉が開き、閉まる。
鍵は、かからなかった。
部屋の中に残ったのは、さっきまでと同じ石の冷たさと、でももう同じではいられない静けさだった。
私はゆっくり息を吐く。
オトも、何も言わない。
しばらくしてから、私は寝台に腰を下ろした。
眠れるわけがないと思っていた。
でも今は、眠れない理由が少し変わっていた。
ただ怒っていただけの夜じゃない。
明日になれば、動く。
たぶん、本当に。
懐の紙を、もう一度指先で確かめる。
エラはまだ、向こうにいる。
でも、終わってはいない。
私は細い窓の向こうの夜を見る。
見えないだけで、星はたぶん、まだそこにある。
「……待ってて」
誰に向けたのか、自分でもわからなかった。
でもその言葉は、小さくても、ちゃんと前を向いていた。

創作大賞2026 ファンタジー小説部門 投稿作
