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イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第二十二話 まだ帰らないの?


私は腹を立てていた。

エラが消えた理由もわからない。

追われることを予想していたみたいに痕跡を消しているくせに、私にわかるような目印は残している。

見つけてほしいのか。
放っておいてほしいのか。

ちぐはぐな行動ばかりが見えて、答えが見えない。
それが、たまらなく気に入らなかった。

その結果が、これだ。


エラとヨル 第二十二話
【まだ帰らないの?】


「……最悪」

思わずこぼれた声が、石の壁に小さく跳ね返る。

部屋は静かだった。

石造りの壁に細い窓。
ただ、外から扉には鍵をかけられていた。

牢屋というほどひどくはない。
寝台は二つ。毛布もある。水差しもある。
さっき運ばれてきた食事も、冷めてはいるが粗末ではなかった。

でも、それで何が変わるわけでもない。

閉じ込められていることに、変わりはない。

「怒ってますねぇ……」

向かいの寝台に腰掛けたオトが、困ったように言った。

「見ればわかります」

「はい。すごくわかります」

腹立たしいことに、声はいつも通りやわらかい。

私とオトは、エラの痕跡を追って教団の施設近くまで来たところで、あっさり見つかった。
見つかった、というより、たぶん最初から見られていた。

取り囲まれた時も、怒鳴られたりはしなかった。

「どうか落ち着いてください」
「危害を加えるつもりはありません」
「少しの間、こちらでお休みください」

そんな調子だ。

礼儀正しく丁寧だ。
しかし、逃がす気はない。

それが余計に気に入らなかった。

「ほんと、嫌な感じ」

私が壁にもたれたまま言うと、オトもすぐに頷いた。

「やさしい顔で閉じ込めるの、ちょっと怖いです」

私は少しだけオトを見る。

その膝の上には、何もなかった。

山小屋でいつも抱えていたリュートは、ここへ入れられる前に取り上げられている。
荷物も、武器も、音を出せるものも、全部だ。

「歌わないんですね」

私が言うと、オトは少しだけ目を丸くした。

「歌ってほしいんですか?」

「違います」

即答した。

「静かだから、歌いそうだなと思っただけです」

オトは小さく笑う。

「楽器がないので、いつもより心細いです」

「そういうものなんですか?」

「はい。あれがあると、少しだけ自分の居場所がわかるので」

その言い方が、妙に耳に残った。

私は視線を落とす。
床の上に、自分の指先の影が落ちている。

「……エラも、こんな感じだったんでしょうね」

気づけば、口に出していた。

丁寧に扱われ、大切そうにされる。
傷つけないように囲われる。

それは一見、ひどいことに見えない。

だから厄介だ。

「エラさん、怒ってると思いますか?」

オトがぽつりと聞く。

「怒ってないですよ。多分……」

私は即答した。

「普段は周りのことなんてお構いなしで、好きなことにまっしぐらになる癖に、肝心な時だけ臆病になるんです」

私は少し笑っていた。

「だから、変だと思っても言えない。特に悪意じゃなくて、優しさで近づいて来る相手には」

言ってから、自分で少し驚く。

でも、たぶん本当にそうだった。

オトは私を見て、少しだけ目を細めた。

「ヨルさん、ちゃんと見てるんですね」

「何がですか」

「エラさんが嫌がる時だけじゃなくて、言えなくなる時も」

私は黙った。

わかっている。
たぶん、少しは。

でも、わかっているからこそ、余計に腹が立つのだ。

「……だったら、なおさらです」

私は膝を抱えるようにして言った。

「残るなら残るで、ちゃんと言えばいいのに」

「中途半端に目印なんか残して」

「見つけてほしいのか、放っておいてほしいのか、どっちなんですか」

最後は、ほとんど独り言だった。

静かな部屋に、その言葉だけが落ちる。

「……見つけてほしかったんだと思います」

オトが静かに言った。

私は眉を寄せる。

「根拠は?」

「ないです」

オトはあっさり答えた。

「でも、ヨルさんにわかるように残してたんですよね?」

「……」

「だったら、そういうことなんじゃないかなって」

私は返事をしなかった。

納得したわけじゃない。
でも、否定もできなかった。

私にだけわかるように。
私が見つける前提みたいに。

そう思いながら、私はずっと握っていた髪飾りを見た。

雪の中で拾った、エラの髪飾り。

少し傷がついている。
金色の飾りの端が、窓から差す弱い光を受けて鈍く光っていた。

なんとなく、指先でなぞる。

エラのものだとわかった時は、それだけで十分だった。
目印だと思った。
見つけたこと自体が意味だと思った。

でも今、こうして静かな部屋で見ていると、少しだけ違和感があった。

「どうしました?」

オトが聞く。

「……これ」

私は髪飾りを光にかざした。

留め金の端に、妙な引っかかりがある。
歪みというほどでもない、小さなずれ。

雪の中で拾った時には気づかなかった。
でも、一度気になると、そこだけが不自然に見えた。

私は指先でそっと押す。

かち、と小さな音がした。

「……え?」

思わず息が止まる。

飾りの裏側が、ほんの少しだけ浮いた。

私は声を潜めた。

「オトさん、これ……」

慎重に開くと、中から小さく折りたたまれた紙が落ちてきた。

部屋の空気が、一瞬で変わった気がした。

私は急いでそれを拾い上げる。
指先が少し震えていた。

こんなもの、最初から入っていたのか。
エラが?
いつ?

紙を開く。

そこにあったのは、乱れた短い文字だった。

『ヨル。ごめん』

私はしばらく、その文字を見つめた。

短い。
説明もない。
場所もない。
理由もない。

なのに、エラの字だとすぐにわかった。

何度も見てきた字だ。
少し雑で、勢いだけはある字。

「なんで、謝るのよ……」

気づけば、そう呟いていた。

謝るくらいなら、最初からこんなことしなければいい。
謝るくらいなら、勝手にいなくなったりしなければいい。

胸の奥が、じり、と熱くなる。

「……エラさんの字、ですよね」

オトが静かに言う。

私は黙って頷いた。

オトは紙ではなく、髪飾りの方を見ていた。

「これ、中に隠してあったんですね」

「……そうみたいです」

「落とすだけなら、こんなふうにはしないと思います」

私は顔を上げた。

オトの声は、さっきまでと同じようにやわらかい。
でも、その中に少しだけ確信が混じっていた。

「見つけてもらうためというより」

オトは髪飾りの留め金を見ながら続ける。

「見つかった時に、誰に拾われてもすぐには気づかれないようにしたかったのかも」

その言葉に、胸の奥が少しだけ冷えた。

隠した。
誰にも見つからないように。
それでも、私には届くように。

「じゃあ……少なくとも、この時は……」

「自分で考えて、残したんだと思います」

私は紙を見た。

『ヨル。ごめん』

たったそれだけ。

でも、それだけだからわかることもある。

書く時間がなかった。
急いでいた。
それでも残した。

何もできなかったわけじゃない。
何も考えていなかったわけでもない。

「……何それ」

私は紙を握ったまま、吐き捨てるように言った。

「紙に書くぐらいなら、ちゃんと言葉にしてよ」

最初はエラが自分で決めたことじゃなかった。
でも、何も言えずここに残っているのは、エラが決めたことだ。

少なくとも、この時のエラは、自分で考えていた。

だったらなおさら、置いていけない。

「ごめん、じゃないでしょ」

自分でも驚くほど、声が震えていた。

「勝手に謝って、終わりみたいにしないでよ……」

オトは何も言わず、私を見ていた。

私は紙を丁寧にたたみ直す。
今度は落とさないように、懐にしまった。

服の上からそっと押さえる。

「……帰る気、あるんですかね」

ぽつりと漏れた言葉は、怒りより少しだけ弱かった。

オトは少し考えてから答える。

「あると思います」

「どうしてそんなこと言えるんですか」

「帰る気がないなら、ヨルさんに向けて何も残さない気がするから」

また、それだ。

私は小さく息を吐いた。

納得したくないのに、少しだけ納得してしまう。

「悪いですよ」

私は壁に寄りかかったまま言う。

「すごく悪い」

「はい」

「勝手にいなくなって」

「はい」

「こっちに探させて」

「はい」

「しかも、帰る気があるなら、最初からそう言えばいいのに」

オトはそこで少しだけ笑った。

「それは、本当にそうですね」

少しだけ、笑いそうになった。

笑うような話じゃないのに。
でも、そう言われると本当にそうだった。

部屋がしばらく静かになる。

それからオトが、何も持っていない両手を膝の上で重ねた。

「……歌ってもいいですか?」

私は顔を上げる。

「本当に歌うんですか」

「こういう時こそ、です」

「楽器ないのに」

「ないからです」

オトは少しだけ笑った。

それから、静かに歌い始める。

アカペラだった。

『スピカ』

山小屋で聞いた時より、ずっと細くて、やわらかい。
何も支える音がないぶん、声だけが真っ直ぐ届く。

――
あの星の名を 知らなくても
進む理由は 消えない

迷いながらで かまわない
それでも人は 歩いていく
――

石の部屋に、声だけが残る。

私は膝を抱えたまま、それを聞いていた。

エラはこういう歌を聞くと、すぐ顔に出る。

好き、とか。すごい、とか。
考えるより先に言う。

そういうところが、たまに腹立たしい。

でも今は、その顔ばかり浮かんでくる。

「……見つけたら」

歌が終わったあと、私はぽつりと言った。

「はい?」

「最初に言うことは決まってます」

オトがこちらを見る。

私は少しだけ間を置いた。

怒っているようで。
呆れているようで。
たぶん、少しだけ安心してしまうのもわかっていて。

だから余計に腹が立つ、その言葉。

「……まだ帰らないの?」

オトは笑わなかった。

ただ、やさしく頷いた。

「いいと思います」

私は目を閉じる。

眠れる気はしない。
懐の上から、もう一度紙を押さえた。

怒りはまだ消えていない。

でも、それだけじゃないことを、もうごまかせなかった。

今度こそ、ちゃんとエラを連れて帰るために。


🔙第二十一話   第二十三話🔜



創作大賞2026 ファンタジー小説部門 投稿作

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