見出し画像

イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第四十二話 紅き瞳の仮面③ 赤い瞳の継承


*本作には、暴力・支配・監禁を想起させる描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。



二人の赤い瞳が見つけたのは、救いなのか。

私にはわからない。

『そうするしかなかった』
そう思えば良かったのか。

『そうしなければ』
そう思えば良かったのか。

ただ、わかっているのは、選んだということだけだった。


エラとヨル 第四十二話
【紅き瞳の仮面③】
【赤い瞳の継承】


あの夜から、サーシャとの関係は確実に私を変えていた。
お嬢様と使用人の関係は変わっていない。

でも、一つだけ違っていた。
私が、彼女といたいと思ってしまったことだ。

外に出ることができない彼女の代わりに、街へ行くことが許されるようになった。

サーシャの後押しのおかげだ。

表向きには、お嬢様のわがままを聞く使用人。
お金を渡され、言われたものを買いに行く。

周囲には、そう映ったはずだ。

実際は、私が話したものを彼女が欲しがっただけ。けれど、そこには確かに私の意思があった。

この檻から逃げ出すための手段を探し、密かに準備を進めるためのものだった。

館からの逃走経路。
必要なもの。
外部とのつながり。

私は必死にそれを探した。

怪しまれないように。
気づかれないように。
そして、サーシャにもわからないように。

彼女と過ごす時間が心地よいものであればあるほど、私はこの檻から、彼女の前から、姿を消す方法を探した。

そして、一つの可能性を手に入れた。

サーシャが欲しがったお香を買うために訪れた、街の薬屋。

フルーレ草――眠り薬をさらに濃縮したもの。

本来はお香として焚くものだが、それを飲むことで一時的に死んだように眠る。
だが、ある気付け薬を使えば、急激に目覚めることができる。

薬師との何気ない会話がヒントになった。
私は館で捕まえた鼠を使い、何度も実験を繰り返した。
死んだ鼠もいた。だが、気付け薬でぎりぎり息を吹き返したものもいた。

これなら……。

死を偽装して外に出られる。
死体が運ばれる餌場には、金で雇った冒険者を一人待たせてある。
気付け薬はすでに預けていた。
目覚めさえすれば、そのまま街の外まで出られる。

わずかな可能性が見えていた。

でも、すぐにその希望は砕かれた。

用心深いブルースは、必ず死体を確認する。
しかも、気付け薬は自分では使えない。
餌場の外に手を回していても、そこへ辿り着く前に見破られれば終わりだ。

この街で、信頼できる人はいない。

一人だけ、顔が浮かぶ。

「エラ……」

――だめだ。

彼女を巻き込めば、私だけでは済まない。
それに、サーシャとの穏やかな日々が、その先へ踏み込むことを拒ませていた。

時間だけが過ぎていった。
だが、待ってはくれなかった。

サーシャの父。
赤い瞳のボスの容態が悪化したのだ。

夕暮れ時、その時は来た。
急を知らせる使いの者が館を訪れた。
これまで一度もなかった、中央殻都(ちゅうおうかくと)への呼び出し。

サーシャの顔が強張った。

「ニコ。お願い。ついて来て」

私は頷いた。

馬車に揺られながら、私たちは赤い瞳の本部がある街の中心――最も高い場所を目指した。

今まで足を踏み入れることさえなかった場所。

古い街並みは、まるで城下町のようだった。

行き交う人々の余裕ある顔。
広く清潔な通りは、ここが生き物の上に築かれた街であることを忘れさせる。

同じ街の中とは思えなかった。

街で最も高い塔を備えた大きな建物の前で、馬車が止まった。

私は入念な検査を受けた後、いくつもの通路を通り、サーシャの父が待つ部屋まで案内された。

――迷路のような造り。覚えさせないためか……。

私の頭は冷静だった。

大きな扉が開くと、豪華なベッドに身を起こした老齢の男がいた。

「お父様」

サーシャは駆け寄り、その胸にしがみつく。
だが、その肩は小さく震えていた。

周囲には医師と思われる老人。
部屋を囲むように並び立つ男たちは、誰もが神妙な面持ちを浮かべている。

ただ、その中に一人だけ見覚えのある男がいた。

――ブルース。

彼がいるのは当然ではあったが、その顔を見た瞬間、私の体は硬直した。

こちらには見向きもしない。
沈痛な表情を浮かべている。

彼の本心を知らなければ、騙されていたであろう。

落ち着くように促されたサーシャは、ベッドの横に用意された大きな椅子に座らされた。
白い指先が、ドレスの裾を強く握っている。

近くに立つ執事のような男が、重い口を開いた。

「継承の儀を行う」

ベッドの老人が頷く。

「お父様……どうして……」

サーシャが立ち上がろうとする。
だが、老人は首を横に振り、それを制した。

サーシャは唇をきつく噛みしめ、震える膝を押さえるようにして、もう一度椅子に腰を下ろした。

長い宣誓が行われる。
長年受け継がれてきたのだろう、その儀式は、血の盟約、裏切りへの代価、そして新たな指導者への忠誠の言葉へとつながっていった。

役職とともに名が呼ばれ、そのたびに男たちがサーシャの前に跪き、彼女の足に口づけをする。

サーシャは怯えたように肩を揺らしたが、それでも逃げることはできず、ただ前を向いていた。

ブルースも名を呼ばれる。

穏やかな表情を浮かべ、一切の迷いなく頭を垂れる。

ただ、ほんのわずか。
誰も気づかない一瞬、彼は私の目を見た。

私は心臓を掴まれたようだった。

急に動悸が早くなり、息がうまくできない。
周囲に悟られぬよう、歯を食いしばる。

長い儀式が終わりを告げる。

男たちは部屋の外に出され、私は迎えの馬車で待つよう言われた。

外に出た時には日が落ち、かがり火が焚かれていた。
私は迎えの馬車の中で、サーシャが戻るのを待つ。

かなりの時間が過ぎたあと、サーシャの姿が浮かんだ。

黙って馬車に乗り、俯いたまま一言も発しない。
中で何があったのかは、私にはわからない。
ただ、彼女の赤い瞳には、いつもの光がなかった。

館に戻った私は、一人になりたいというサーシャの言葉を受けて、自室へ戻った。

部屋に入ると、見慣れぬ白い便箋が一通、机の上に置かれていた。

手が震える。

――来てしまった。

私はすぐにそう理解した。

ランプの灯る、誰もいない部屋で封を切る。
中身は短い言葉だけだった。

『古い薔薇が枯れた。新しい赤い薔薇に植え替えよ』

その手紙をすぐに燃やすと、私はベッドに倒れ込んだ。

隠してあった小さな瓶を取り出す。
指でつまみ、それを黙って見つめていた。

月の光が辺りを淡く照らしている。

心が揺れる。
やらなければいけないこと。
やりたくないこと。
どちらも、私には答えを与えてくれない。

広い館の中は静かだった。

だからこそ、扉の前に立つ人の気配にすぐ気づいた。

扉を開けると、目を赤く腫らしたサーシャ。
黙って俯き、扉を叩こうとした拳を握ったまま、動けないでいたようだった。

私は優しく微笑み、部屋に招き入れた。

ベッドの脇の椅子に座らせる。
何か温かいものでも淹れようかと立ち上がろうとした、その時、私のスカートの端をサーシャが掴んだ。

「私が次のボスになるんだ……」

私は立ったまま動けなかった。

彼女の泣き声のような言葉が続く。

「お父様はもう長くない。あとは周りに任せたから、私はここにいればいいって……」

「何も聞かなくていい。何も言わなくていい。何も考えなくていい。ただ、ここにいれば……」

言葉が溢れていた。

急にサーシャは立ち上がり、私を見つめた。
青い美しい髪と、赤い瞳が私の目に映った。

頬を伝う涙が、月明かりに照らされている。


「ニコ! お願い……私を殺して!!」


サーシャの声が響く。
これまで聞いたことのない、心の叫びだった。

顔を押さえ、その場に崩れ落ちるサーシャを見て、私は決めた。

泣き声を上げるサーシャに向かい、重い口を開いた。


「あなたを殺す。そして、私も殺す」


その言葉を耳にしたサーシャは、目を見開き、私を見つめた。

私はすべてを打ち明けた。
サーシャに近づいた目的。
ブルースの指示。
そして、逃げようとしていた私自身のことも。

サーシャは驚いた様子ではあったが、黙って聞いてくれた。

「ここから逃げ出すには、どちらも一度死ななければいけない」

「そのための手段なら……あるわ」

そう言って、私は小瓶を取り出した。
街で手に入れたフルーレ草が入った液体だ。

「私とサーシャが入れ替わる。そして、ニコを死んだことにするの」

「館の使用人がお嬢様のものを盗んでいた。それが見つかって自殺したと」

「この薬を飲めば、死んだように眠れる。あとは餌場まで運ばせる」

「餌場には、私が手配した冒険者を待たせてある。気付け薬も預けてあるから、目覚めればそのまま街の外へ出られる」

私の言葉を聞いたサーシャは首を振る。

「あなたはどうするの?」

「私はサーシャを殺さないと、殺される。しかも、家族も友人も一緒にね」

「だから、ここに残って私がサーシャになる」

「でも……」

サーシャは俯く。

「お願い、サーシャ。私を助けて」

彼女の肩を掴み、真っ直ぐ見つめる。
サーシャの赤い瞳に、私が映った。

なぜか、私は微笑んでいた。

長い沈黙。

サーシャは小さく頷いた。

時間はない。
私はすぐに準備を進めた。



数日後、ブルースの館に知らせが届いた。

お嬢様の館で、使用人の女が死んだ。
お嬢様から盗みを働いたことがわかって自殺したのだと。

すぐに遺体を引き取るために屋敷へ向かうと告げたあと、ブルースは笑う。

その顔は、勝利を確信していた。



「さっさと、その汚い女を処分して!」

私は使用人たちに罵声を浴びせていた。

青い髪。赤い瞳。

そこには、サーシャと瓜二つの私がいた。

内心は焦っていた。
ブルースが来る前に、彼女を餌場まで運ばせるために。
棺ではなく袋に入れて、すぐに運ばせるよう指示していた。

「私の言うことが聞けないの!」

声を荒げる。
サーシャの豹変ぶりに驚きながらも、使用人たちは慌てて馬車を用意し、“ニコ”の死体は運び出された。

入れ違うように、ブルースが館を訪れる。
使用人の不始末についての謝罪に来た、ということだった。

サーシャの部屋に案内させ、私も向かう。

部屋に入ると、いつもと変わらないブルースがいた。

「この度は、私の指導が足りず申し訳ございませんでした」

心にもない言葉を口にする。
私は部屋にいた者たちに外へ出るよう指示し、ブルースと二人きりになった。

扉が閉まった直後、ブルースの顔が変わる。
余裕に満ち、すべてを理解している顔だ。

「良くやった。で、死んだ使用人はどうした?」

口元を上げて尋ねる。

「先に処分させました。今頃は餌場のゴミの中かと……」

「少しは使えるようになったな」

私の返答に満足した様子だった。
私は頭を下げて、部屋にあったワインを開ける。

「祝杯の準備もできています」

ブルースは目を細める。
声を上げて笑うと、部屋のソファに腰を下ろし、襟元を緩めた。

「気が利くじゃないか」

ワインが注がれたグラスを受け取ると、ブルースはニヤリと笑い、私にグラスを差し出す。

「毒でも入ってるんじゃないか?」

その言葉を受け、私はグラスを受け取り、一口飲んだ。

しばらく様子を見て、安心したブルースがワインを飲む。


――その瞬間。


握ったグラスが床に落ちる。
ガラスの割れる音とともに、ブルースは口から血を吐いて倒れた。

「なぜ……」

息を吐くたびに、口から血を流すブルース。

その姿を見つめながら、私は小さな瓶を見せた。
その瓶のラベルには、解毒剤とあった。

「ばか…な……」

その文字を見たブルースは、喉元を押さえたまま力尽きた。

ゴフッ……

直後に、私も口から血を吐いて倒れた。

これは賭けだった。
先に飲んだからといって、効くとは限らない。

物音に気づいた使用人たちが、部屋に駆け込んで来るのがわかる……。



次に目を覚ました時には、ベッドの上だった。

周りには医師と思しき男と、多くの使用人。
さらに、赤い瞳の幹部たちがいた。

安堵の声が上がる。
泣く者。俯く者。恐れる者。
みながそれぞれの表情を浮かべていた。

幹部の一人が、サーシャの父の死を告げる。
私は黙って頷いた。

喉の奥が焼けるように痛い。
体も思うように動かなかった。

でも、私は体を起こし、声を上げた。

「ブルースは……私を裏切り、亡き者にしようとした!」

皆が耳を傾ける。

「だが、私は生き残った」

「私に刃向かう者は容赦しない」

「私が……私こそが、赤い瞳だ」

部屋の中に声が響く。
私の言葉を聞いたすべての者が膝をつき、頭を垂れた。

誰かが言う。

「新たな赤い瞳に、絶対の忠誠を!!」


ニコが死んだ日、サーシャが生まれた。


🔙第四十一話   第四十三話🔜



創作大賞2026 ファンタジー小説部門 投稿作

いいなと思ったら応援しよう!