イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第四十一話 紅き瞳の仮面② 月下の約束
*本作には、暴力・支配・監禁を想起させる描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
ブルースに拾われた私は、考えるのをやめた。
彼に聞かれたことに答え、
彼に言われたことをこなし、
彼の言葉だけに従った。
ただ、生き残るために。

エラとヨル 第四十一話
【紅き瞳の仮面②】
【月下の約束】
動けるようになった私には、部屋から出ることすら許されなかった。
使用人が食事を運び、身なりを整え、髪は黒く染められた。
ブルースの命令は単純だった。
食事をとり、読み書きを覚え、身の回りのことをすべて一人でできるようになれ。
それだけだった。
あの地獄に比べれば、ここはまだましだと思えた。
殴られることもあった。
怒鳴られることもあった。
それでも、生きることはできた。
ブルースの館では、私は彼の愛人の子どもということになっていた。
使用人たちは彼に傅き、私にも最低限の節度をもって接した。
ただ、言葉を交わすことは許されない。
会話を許されるのは、彼が連れてきた講師だけだ。
そしてその場には、必ずブルースが同席していた。
知識を身につけ、家事を覚え、戦い方を叩き込まれる。
幸い、私は物覚えが早かった。
一つ覚えるたびに、すぐ次の課題が与えられる。
何かを終えれば、また別の何かが始まる。
目的を教えられることはなかった。
けれど、そんなことを考える暇もないほど、私は次々に新しいことを覚えさせられていった。
ブルースが赤い瞳の幹部の一人だと知ったのは、そう遅くない頃だった。
部屋から出ることはほとんどなかった。
それでも、時折訪れる客や、使用人たちの噂話を耳にするうちに、嫌でも理解できた。
そんな日々が続く中、ある夜、私はブルースに呼ばれ、彼の居室を訪れた。
「明日から、お嬢様の館に行け」
短い命令。
お嬢様とは、赤い瞳のボスの一人娘、サーシャのことだ。
「かしこまりました」
私は短く答える。
「いいか。お前の仕事は、お嬢様に気に入られ、取り入ることだ」
私は黙って頷いた。
「そして、時期が来たら、これを使え」
ブルースが小さな瓶を差し出す。
私はそれを受け取った。
「毒だ。匂いも味もしない。ほんの少し、食事や水に混ぜて飲ませればいい」
そこで一度、彼は言葉を切った。
「あと、万が一、お前の素性がばれそうになったら、それを飲め。楽に死ねる」
その言葉に、私の肩がわずかに揺れた。
「お前には確か、祖母がいたな……」
ブルースが目を細めながら、私を見つめる。
何気ない口調なのに、その一言一言が喉元に刃を置くみたいだ。
「あと……エラ、だったか。一緒に暮らしていたガキの名前は……」
――エラ。
その名前が出た瞬間、私の表情に焦りが浮かんだ。
ブルースは、その一瞬を見逃さない。
「なに、簡単なことだ。お嬢様とお前は瓜二つだ。取り入り、仲良くなり、タイミングが来たら……」
彼は私の手の中の瓶を指さした。
「裏切れば、殺す。お前の祖母も、エラとかいうガキも、全部な」
ブルースは表情ひとつ変えず、淡々と続けた。
「ボスは老齢で病に侵されている。奴が死ねば、一人娘が次期ボスだ」
ブルースの瞳が一段と細くなる。
「くだらん」
「血統? そんなもんで決めるなど。実力がある者が上に立てばいい」
「そう、俺のような人間がな」
ブルースの口元が歪む。
選択の余地はなかった。
彼は私のすべてを握っている。
家族も、友人も、私の命すら。
私は小さく頷いた。
翌日。
使用人の服を着せられた私は、身の回りのものを持たされ、街の一番奥にある館の前へ連れて来られた。
高い生垣と豪華な門。
砂漠地帯では見ることのない、緑の庭が広がっている。
入口には重武装した男たちが立ち、鋭い眼差しをこちらに向けていた。
ブルースが男たちに声をかけると、軋む音を立てて門が開く。
庭を抜けた先。
館の入口に立つ一人の少女が、こちらへ手を振っている。
その姿に気づいたブルースは、胸に手を当てて頭を下げた。
私もそれを見て、慌ててスカートの端をつまみ、会釈する。
「ブルース。よく来てくれました」
「そちらが……」
彼女が私を見つめる。
「はい、お約束の使用人です」
その声は、私に命令を下すときのものとはまるで違っていた。
やわらかく、穏やかで、まるで別人みたいだ。
すぐに彼の目線を受け、私は深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります、お嬢様。ニコと申します」
顔を上げると、満面の笑みを浮かべたサーシャがいた。
「ニコ。はじめまして。私はサーシャ。これからよろしくね!」
弾むような声。
日の光を受けた彼女の綺麗な青い髪が、きらきらと揺れる。
彼女と目が合った瞬間、心の奥を何かがそっと触れた気がした。
サーシャが私の瞳を見つめる。
「本当。私たちの瞳、そっくり!」
そう言うと、彼女はくすくすと笑った。
「不束者ですが、お嬢様のため精一杯努めさせていただきます」
そう言い終わる前に、サーシャは私の腕を掴んで引っ張った。
「こっちに来て。館を案内してあげる」
慌てる私をよそに、サーシャはそのまま館の中へ入っていく。
私は引かれるまま、その後について行った。
館の扉が閉まる一瞬、ブルースと目が合う。
ただ、その目は笑っていなかった。
それからの毎日は、騒がしくもあり、忙しくもあった。
彼女は館から出ることはできない。
だが、どこへ行くにも私を呼び、いつも傍にいさせた。
「ニコ。見て、この花! 私が育てたの!」
「ここはね、夕日が綺麗に見える場所!」
「ニコ……」
彼女の言葉は止まらない。
なぜだかわからない。
でも、わかったような気がした。
彼女の笑顔が、話し方が、私の記憶に触れてくる。
――エラ。
紫色の髪の少女と、サーシャが重なった。
私は頭を小さく振り、記憶を掻き消す。
――この娘には気に入られている。
――これならいつでも……
そう考えたが、その先の言葉が出てこない。
私の役目はわかっている。
サーシャは新しいおもちゃを手に入れた子どもと同じだ。
今は珍しがっていても、いずれ飽きる。
ただ、それだけだ。
何度も自分に言い聞かせていた。
だが、彼女は違った。
『私と一緒に寝たい』と言って、他の使用人を困らせ、『食事も一緒に食べよう』と言う。
ことごとく止められるが、そのたびに頬を膨らませ、舌を出す。
――やめてくれ。
――その笑顔を向けるのも、名前を呼ぶのも。
仮面が剥がれ落ちそうになるのを止めるのに、精一杯になっていた。
ただ、そんな毎日が少しずつ私の心を締め付けていった。
そんなある夜。
小さなノック。
私の部屋の扉が静かに開く。
サーシャが口に指を立てて、こっそり現れた。
「ごめんなさい。ニコ。寝れなくて……」
私がベッドから立ち上がろうとするのを手で制し、彼女は私の隣に座る。
「夜になると、思い出しちゃうの……」
少し開いていた窓から、ふわりと風が流れた。
月明かりが優しく部屋を照らしている。
「お兄様たちのことを……」
私は何も言えずにいた。
ブルースから教わっていた。
サーシャには腹違いの兄たちがいたことを。
そして、ボスの座を巡って対立し、お互いに争った末、死んでしまったことを。
「お父様は私を守るために、この館を作ったわ」
サーシャは俯いたまま、言葉を選ぶように呟いた。
「でも、私の居場所はどこにもないの……」
私は黙って聞くことしかできなかった。
サーシャがそっと私の手に触れる。
「でもね。ニコ。あなたが来てくれた」
サーシャの手は、わずかに震えていた。
「あなたは、私にできた初めての友達……」
「お嬢様……」
うまく返せない。
――友達。
そんな言葉は、過去に置いてきた。
それでも、サーシャから目を背けることはできなかった。
「ニコ。お嬢様はやめて。せめて、二人のときは名前で呼んで……」
サーシャの言葉が揺れる。
私は黙って頷いた。
口に出したら、崩れてしまいそうだったから。
でも、目の前の一人の少女の手を離すことはできなかった。
「サーシャ……」
小さな声。
でも、その一言を聞いたサーシャはこれまでで一番の笑みを浮かべ、抱きついてきた。
「ありがとう。ニコ」
私はベッドに倒れ込んだまま、天井を眺める。
外れた仮面を戻す方法は、もうなかった。

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