イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第三十五話 負けた朝
昨日の私は、たぶん浮かれていた。
その報いは、翌朝きっちりやってくる。
ミーツタウンの宴は、寝て起きたくらいでは終わってくれなかった。

エラとヨル 第三十五話
【負けた朝】
ミーツタウンでの宴は、翌朝、思わぬ形で現れた。
お腹を締めつけるような痛み。
込み上げる吐き気。
昨日の暴食を思い返しながら、私は口元を押さえた。
――最悪。
横を見ると、エラはいつも通りの顔でぐっすり眠っていた。
オトも穏やかな寝息を立てている。
二人とも、顔色ひとつ変わっていない。
――この二人、どうなってるの?
私だけが別の戦場に取り残されたみたいだった。
ひとり、ベッドから体を起こす。
重い足を引きずるようにして、部屋を出た。
朝日が窓から差し込んでいる。
まだ、明け方だった。
宿の近くの井戸までたどり着き、桶から水を汲んで顔にかける。
ぱしゃ、と冷たい水が跳ねた。
火照った頭が、少しだけ冷える。
――気持ち悪い。
思わず口元を押さえ、込み上げるものを飲み込んだ。
誰もいない朝の街には、まだ静けさが残っていた。
近くの椅子に腰を下ろし、俯いたまま昨日のことを思い出す。
口の中でほどける肉の脂。
喉が焼けるように甘かったクレープ。
昨日はあれほど幸せだったはずなのに、今は戦いの後よりもずっと疲れていた。
人の気配に気づいて顔を上げると、杖をついた小柄な老人が、こちらを心配そうに見ていた。
「負けた顔じゃな」
老人は、目元に皺を寄せてやさしく笑った。
その表情に、少しだけ気が緩む。
「……負けました」
そう答えるのが、今の私にはいちばん正確だった。
「この街に、勝てるものなんぞおらんよ」
老人は、フォフォホと楽しそうに笑う。
その瞬間、宿のベッドで元気そうに寝ていた二人の姿が頭に浮かんだ。
――いますけど。
もちろん、そんなことは言わない。
老人は腰を伸ばし、軽く叩きながら言った。
「良ければ、これを使うか」
差し出された手には、小さな袋に入った薬草があった。
「なんですか?」
「食べすぎに効く薬草じゃ。少し苦いが、煎じて飲めばいくらかは楽になる」
私は薬草を見つめたまま、すぐには手を伸ばせなかった。
苦しい。
正直、すがりたい気持ちはある。
けれど、知らない相手から渡されたものを、何も考えず口にするのは怖かった。
そんな私の迷いを見て、老人はうなずく。
「用心深いんじゃな。それでいい」
「……ごめんなさい。そういうつもりじゃ……」
図星を突かれ、言葉がしぼむ。
「いやいや、旅人ならそれでええ。警戒できるうちは、まだ大丈夫じゃ」
老人は穏やかな口調のまま言った。
「ワシはフー。みんなには薬屋フーと呼ばれておる」
そう言って、杖の先で通りの奥を軽く示す。
「近くで薬屋をやっておるんじゃ。よかったら店に来るか? 煎じるところまで、ワシがやろう」
ゆっくり話すその声には、不思議と人を急かさない温度があった。
張っていた警戒が、少しずつほどけていく。
迷っていたけれど、それ以上に腹の差し込むような痛みが限界だった。
冷や汗がにじむ。
椅子に座ったまま動けない私は、小さく頷いた。
「連れがおるのか?」
私はこくりと頷く。
「なら、心配かけんようにワシから宿に伝えておこう」
そう言ってフーは宿の方へ向かった。
道すがら、店先を掃いていた宿の主人と二言三言だけ言葉を交わす。
主人も慣れた様子で手を上げ返した。
少なくとも、まったくの怪しい相手ではなさそうだった。
「話はしておいた。行けるかの?」
私は小さく頷き、フーのあとを追った。
フーの店は宿のすぐ近く、酒場が並ぶ通りの一角にあった。
通りには、昨夜の戦いに敗れたのだろう“屍”が転がっている。
酒瓶を抱えたまま大いびきをかく中年の商人。
樽にもたれたまま動かない若者。
路地の隅では、見覚えのある包み紙を握ったまま眠っている人までいた。
少しすえた匂いが鼻を刺す。
その匂いが、私の吐き気をさらに強くした。
口元を押さえながら、ふらふらとフーの後についていく。
ミーツタウンの朝は、昨日の楽しさをそのままひっくり返したような景色だった。
私は飲屋街に薬屋が必要な理由が、少しわかる気がした。
小さな看板が目に入る。
葉っぱの絵と、フーの名が書かれていた。
フーが扉を開くと、独特な香りがふわりと広がった。
どこかお香を焚いたような匂い。
外に満ちていた酒と汗の匂いとは違う、落ち着く香りだった。
店内は狭い。
けれど、棚に並ぶ薬草や瓶はきちんと整えられていて、不思議と息がつける空間だった。
窓辺には乾かした葉が束ねて吊るされ、朝の光を受けてやわらかく揺れている。
昨夜の喧騒がまだ街のどこかに残っているはずなのに、この店の中だけ時間の流れが遅いみたいだった。
「ちっと、待っておれ」
私に椅子を勧めると、フーはカウンターの奥へ姿を消した。
朝日が窓から差し込み、遠くで鳥の鳴き声がする。
ここはまるで、安全な避難所のように感じられた。
しばらくして、湯呑みに入った薬湯を持ってフーが戻ってくる。
「ゆっくりでいい」
そう告げると、フーはカウンター近くの椅子に腰を下ろした。
私は薬湯を一口飲む。
少し苦い。
けれど、不思議と腹のあたりがすっと楽になる。
前かがみにしかなれなかった体が、少しずつほどけていくようだった。
私の様子を見たフーは、パイプに火をつけてひと息吐く。
店内に甘い匂いの煙が漂う。
けれど、それも不思議と嫌ではなかった。
「お前さんは、旅人か?」
ふいに、フーが声をかけた。
「ええ。地図を書く仕事をしています」
「ほう、地図か……」
フーは煙をひとつ吐き、目を細める。
「どこへ向かっておるんじゃ?」
何気ない問いかけだった。
けれど、私はすぐには答えられなかった。
――ルーベント。
その名前を、ここで出していいのだろうか。
エラでさえ、あの街のことは多くを語らない。
旅の途中で誰かに軽々しく話していい場所ではない気がしていた。
それでも、ここまで来て手がかりを逃したくなかった。
「言いたくなければ、言わんでもいい」
私の迷いを見て、フーが静かに言う。
「……ごめんなさい。ルーベントって街を探しています」
その瞬間、フーの動きが止まった。
パイプを持つ指先に、ほんのわずか力が入る。
店の空気が、そこで変わった気がした。
さっきまでの穏やかさが、音もなく引いていく。
「お前さん……まさか、あの街のもんか?」
「違います。でも……知っているんですか?」
思わぬところで話がつながった。
フーは、ルーベントを知っている。
さっきまで重かった体の奥に、別の熱が灯る。
私は思わず身を乗り出した。
「どうしても、ルーベントに行きたいんです」
フーはすぐには答えなかった。
細い煙を吐いてから、低い声で言う。
「やめておけ」
その言葉は短く、妙にはっきりしていた。
「あの街が、なんと呼ばれておるか知っとるのか?」
私は小さく首を振る。
フーはしばらく私を見つめ、それから静かに告げた。
「……犯罪都市ルーベント」

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