イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第七十二話 亀に歌を
街はまだ、眠りから目を覚ましたばかりだった。
崩れた家も、足りない水も、不安そうな顔も残っている。
それでも私たちは、次の朝へ進む方法を探していた。

エラとヨル 第七十二話
【亀に歌を】
朝日が昇る。
中央殻都の大広場には炊き出しの煙が立ちのぼり、多くの人が新しい朝を迎えていた。
あの日、エラと一緒に空へ行くと決めてから、数日が経っていた。
広場の中心に建てられたテントでは、LAG長官代行のディケが頭を掻きながら、地図へ細かなメモを書き加えている。
「やはり、水が足りませんね」
誰に聞かせるわけでもなく、ディケはそう呟いた。
私はエラが万全の状態に戻るまで、ここで手伝うことにしていた。
ディケの目の下には、はっきりと濃い影が浮かんでいる。
――この人、あれから一度も寝てない。
刻々と変わる街の状況を整理し、記録し、処理していく。
普段は、少し変わった人だと思っていた。
でも今はわかる。
こういう人がいるから、ルーベントはまだ立っていられる。
「水、ないんですか?」
気づけば、私はディケに声をかけていた。
独り言を聞かれていたことに、ディケは少し驚いたようだった。
けれどすぐに、ため息まじりに話し始める。
「当初の予定では、節水すれば二週間は持つはずでした」
ディケは眼鏡を外し、マントの端でレンズを拭いた。
「ですが、今回の災害対応で貯水池の水が半分を切っています。これでは、あと一週間持つかどうか……」
疲れた声だった。
しかし、その表情は次の瞬間に険しくなる。
「それなのに、住人たちはもっと水をよこせ、体を洗わせろと大騒ぎです」
苛立ちを抑えきれないのか、ディケの目が据わっていく。
「ローズさんに相談したら、なら酒を配ればいいとか言い出すし。子供に酒を配って、酒で体を洗わせるんですか?!」
私は苦笑いを浮かべながら、広場の様子を見渡した。
地面を揺らしていた震動は、ほとんど収まっている。
それでも被害は深刻だった。
とくに亀の甲羅外苑部では、多くの家屋が倒壊している。復旧の目処すら立たない場所も少なくない。
「朝から元気ですね」
ディケの悲鳴にも似た声を聞いたのか、オトが笑いながらテントへ顔を出した。
その傍には、小さな子供たちがいる。
不安そうな顔で、オトの服の裾を掴んでいた。
オトは子供たちの頭を撫でると、ゆっくり歌い始める。
優しい歌声が、広場へ広がった。
炊き出しをしていた人も、荷物を運んでいた人も、少しずつ手を止める。
疲れた顔を上げ、静かにその歌へ耳を澄ませていた。
ひとつの節を歌い終える頃には、張りつめていた空気が少しだけほどけている。
ディケは頭に手をやり、オトへ小さく頭を下げた。
「すいません。私が感情的になっても仕方がないことは、わかっています。ただ……」
続きの言葉を探すディケを見て、オトは小さく首を振る。
「ディケさんが頑張っていることは、みんなわかっています」
オトは穏やかに笑った。
「でも、もう少しだけ。周りを頼ってもいいかもしれませんね」
そう言うと、テントの中に置かれていた小さな箱を開ける。
中には、たくさんのクッキーが入っていた。
オトはそれを一枚ずつ、子供たちへ配っていく。
子供たちは嬉しそうな声を上げ、両手でクッキーを受け取った。
そして、少しだけ明るくなった顔で、テントの外へ駆けていった。
「エラさんは、なんとかなると言っていましたが……今は彼女の言葉だけが唯一の希望です」
ディケは地図に書き込まれたメモを見つめながら、皮肉そうに笑う。
私は小さく頷き、口を開いた。
「竜石の力を引き出すためには、竜祀教の……シーズの力が必要です」
そう言うと、ディケは黙って頷き、テントの外へ目を向けた。
「手配はできています。懸念されるのは、竜石を使った時に再びギガントタートルが暴れ出す可能性です」
私は口元へ手をやった。
確かに、禁区でもエラが力を使ったあと、大きな揺れが起こった。
エラが言ったように、ギガントタートルがドラゴンを恐れているのなら、その力を感じた時に何をするかわからない。
テントの中に静けさが落ちた。
「それなら、先に言っておけば良いじゃん!」
明るい声が、テントの外から聞こえる。
目を向けると、いつもと変わらないエラが立っていた。
赤いスカーフが、朝の風に揺れている。
「エラ。まだ寝てなくて大丈夫なの?」
私が言うと、エラは歯を見せて親指を突き立てた。
「大丈夫! もう元気になったよ!」
あっけらかんと答える。
「で、さっきの話の続きだけど、先に亀に言えば良いよ」
あいかわらず説明が雑だ。
その方法があるなら、先に言ってほしい。
私はひと息吐いてから訊ねた。
「その方法って、あるの?」
エラはにこにこしながら答える。
「さっきオトの歌を聴いて思いついたんだ。オト、亀に歌を聞かせてよ」
エラの視線がオトへ向く。
オトは一瞬だけ驚いた顔を浮かべたが、すぐに頷いた。
「エラさん。ちゃんと説明してください」
エラは頭に手をやると、少しだけ舌を出した。
「オトが亀に歌を聞かせて、私がその意味を亀に運ぶんだよ」
「どうやって?」
今度はディケが訊ねる。
「それはね……」
エラの話をまとめると、こうだ。
オトがギガントタートルに向けて歌う。
歌には、これからエラが空を飛ぶことと、それが敵意によるものではないことを込める。
亀に暴れないでほしいという願いも、一緒に届ける。
その歌を、エラの竜の力でギガントタートルの意識へ直接流し込むという計画だった。
「私の力だけじゃ、亀はまた怖がるかもしれない」
エラは自分の手を見つめて言う。
「でもオトの歌声なら、怖がらせないで伝えられるはずだよ」
「そんなこと、できるの?」
私はまだ信じられずにいた。
「できるかもしれない」
青い髪の青年が、テントの入口に立っていた。
シーズだ。
「どうやって?」
私が訊ねると、シーズは口元をわずかに上げる。
「竜石の力と、エラの力を使えば可能だ」
シーズの言葉を聞いたエラは、なぜか自信満々に胸を張った。
「やる価値はありそうですね」
そう言うと、ディケはずれた眼鏡を指で押し上げた。
*
どこで聞きつけたのか、広場には多くの人が集まっていた。
話を聞いたニコやローズたちも、エラとオトへ視線を向けている。
「亀に歌を聞かせるんですか?」
気づけば、サンの姿もあった。
傷を負った右手は、包帯で吊られている。
「サン。動いて大丈夫なの?」
私が声をかけると、サンは口を尖らせた。
「ヨル。酷いです。こんな楽しそうな話を、私抜きで始めるなんて」
――いやいや、あなた肩から血を出して寝込んでましたよね?
口には出さなかったが、サンの顔を見て少し安心した。
説明しようとしたところで、大きな声が広場に響く。
「みなさーん。これから彼女たちがギガントタートルと話をします。ですので、お静かにお願いしまーす」
間の抜けたディケの声に、人々の間から小さな笑いがこぼれた。
LAGの憲兵たちが広場の周囲に並び、人の流れを整えていく。
「前の方から、少しずつ下がってください。あっ、苦情は書面でお願いします」
ディケはいつもの調子で続けた。
その声に笑いが広がると、張りつめていた人々の空気もわずかに和らいだ。
やがて人混みの中心から、緩やかな歌声が聞こえてくる。
〜♬
眠りの背中に 街をのせ
長い長い道を 歩いてきたね
揺れる大地も 痛む足も
もうひとりで 抱えなくていい
空を行く影が 見えても
どうか怖がらないで
あれはあなたを傷つける
竜の牙ではないから
〜♬
まるで語りかけるような歌が、広場を満たしていく。
その傍では、竜石を持ったシーズが詠唱を始めていた。
淡い青い光が竜石からこぼれ、静かな朝の空気に溶けていく。
エラは目を閉じ、オトの歌に言葉を重ね始めた。
胸元から、やわらかな光が漏れ出す。
それは禁区で見たような、激しく強い光ではなかった。
温かく、辺りを包み込むような光だった。
周囲から感嘆の声が上がる。
子供たちもオトの歌を真似るように、小さな声で歌い始めた。
――届け。届いて。
私も胸に手を当て、目を閉じて歌へ意識を向ける。
やがて地面が、かすかに揺れた。
まるで歌声に返事をするように。
小さく、それでも確かに。
歌が終わると、エラを包んでいた光がゆっくりと弱まっていく。
目を開けると、エラがこちらを見て笑い、ウィンクをした。
「亀。わかったってさ」
私も笑って答える。
「空へ行くよ!」

