実録丨不死身の赤坂──私は6回、死に損ねた
今日、新しいテレビとテレビ台の搬入をしていたときのことです。
設置の途中で少しバランスを崩して、
手首の近くを切ってしまいました。
大した傷ではありません。
血を拭いて、傷口を見て、
「あーあ、やっちゃった。」
その程度でした。
でも、その傷を眺めているうちに、
ふと昔の記憶が蘇ってきました。
今とはまったく違う理由で、
自分の手首を見つめていた頃の記憶です。
私は人生で、6回、死と向き合いました。
いや、正確には。
4回、自ら死のうとした。
2回、本当に死にかけた。
合わせて、計6回です。
映画『ファイナル・デッド』シリーズでは、どれだけ運命から逃げても、最後は必ず「死」に追いつかれます。
でも、私の人生は、その真逆でした。
どれだけ人生を終わらせようとしても。
どれだけ「もう終わった」と思う出来事があっても。
なぜか私は、生かされ続けてしまった。
運なのか。単に悪運が強いのか。
それとも、生命力だけが異様にしぶといのか。
その答えは、今でも分かりません。
ただ今日、偶然できた小さな傷を見て、
「あの頃のことを、一度ちゃんと振り返ってみよう。」
と思いました。
これは、死に方についての記事ではありません。
何度も死に近づきながら、
それでも今ここにいる人間の話です。
今日は、そんな赤坂の過去を、
お話ししようと思います。
※この記事には、自死についての内容が含まれます。現在回復の途中にある方は、過去のつらい記憶や感情が呼び起こされる可能性があります。読むことが負担になりそうな場合は、どうか無理をなさらないでください。
【1回目】5歳
小学校へ上がる前、幼稚園の年長の頃でした。
その頃には、親による英才教育が始まっていました。IQを高める特殊な塾へ通わされ、周囲の子どもと比べられ、毎日のように怒鳴られる。
竹刀で叩かれるバレエ教室。
親の承認欲求のためのバイオリン教室。
幼稚園が終われば、
友達と遊ぶ時間はありませんでした。
母は黒塗りのアウディセダンで迎えに来る。
他の親よりも、いつも完璧な身なりで現れた。
今思えば、幼い私にはラスボス級の佇まいだった。
遊具にしがみつく私を引き剥がし、
無理やり車へ乗せる。
車内は、母が育てた薔薇で作ったポプリの匂いで充満していて、私は毎回車酔いをしていました。
だから今でも、薔薇の香りは少し苦手です。
そんなある日、
幼稚園の友達の誕生日会へ招待されました。
勉強漬けだった私にとって、
久しぶりに心から楽しいと思えた時間でした。
母は渋々了承しましたが、友達の家へ向かう車の中でも、私は怒鳴られ、泣いていた記憶があります。
誕生日会は本当に楽しかった。
最後はみんなでかくれんぼをして、
終わったら解散という流れでした。
でも私は、その「解散」が怖かった。
終われば、また家へ帰らなければならない。
そう思った瞬間、強い恐怖に襲われました。
隠れ場所を探して駐車場裏のフェンスをくぐると、
4メートルほどの高さの塀がありました。
幼稚園児にとっては、とてつもない高さに見えました。
その下を覗くと低木がびっしり植えられていました。
そのときのことは、今でも鮮明に覚えています。
当時の私は、自殺という言葉も、その概念も知りませんでした。
でも、
「あそこへ行けば、お母さんからずっと隠れられるかもしれない。」
そう思って、躊躇せず飛び降りました。
結果、足には無数の枝が突き刺さり、大怪我をしました。
刺さった枝が身体を支え、倒れることすらできませんでした。
私の泣き声を聞いて大人たちが駆け寄り、
枝から身体を引き抜いてくれました。
心配そうにこちらを見ていた友達の顔も覚えています。
今振り返れば、一年で一番楽しい日を台無しにしてしまったことを申し訳なく思います。
でも、5歳の私には、
他人のことを考える余裕なんてありませんでした。
そして最近、調べて知りました。
統計上、5歳で自殺する子どもは「存在しない」とされています。
けれど、私の中には、
確かにその選択肢があった。
自殺という言葉は知らなかった。
それでも、「ここから飛び降りれば、もう家へ帰らなくて済むかもしれない」と考えた。
統計には現れないのかもしれません。
それでも、その瞬間は確かに私の人生にありました。
それが、私にとっての事実です。
【2回目】8歳
小学校3年生のときです。
これは、ただこの頃から色狂いの片鱗があったというだけの話で、暗い話ではありません。(笑)
下校中、当時好きだった男の子と鬼ごっこをしながら帰っていました。
その日は、私が鬼でした。
当時の通学路には、「100段階段」と呼ばれていた、とてつもなく急な階段がありました。
相手は男の子です。
やっぱり足が速い。
どんどん距離が開いていきました。
彼が一番下へ降り立ったとき、
私はまだ30段近く上にいました。
そのとき私は、
「何が何でも、あの子にタッチしたい。」
という欲求で頭がいっぱいでした。(笑)
欲求に支配された私は、
まともな思考回路を持ち合わせていませんでした。
なぜか、
「残り30段。これだけ急勾配なら、思いっきり前へ飛べば、階段に当たらず一番下まで着地できる。」
という謎の自信がありました。
しかも、体育では走り幅跳びが得意だったことも、
その根拠のない自信に拍車をかけていました。
そして私は、思いっきり前へジャンプしました。
次の瞬間、身体は仰向けのまま宙へ浮き、
顔と膝から階段へ叩きつけられました。
グシャッ
という鈍い音が響き、
顔と膝に焼けるような激痛が走りました。
全身、血で濡れていく感覚がありました。
……それでも、子どもながらに下心だけは満載でした。
私は痛みより先に、
「ああ、きっと●●君が駆け寄ってきて、私を助け起こしてくれる……。」
と考えていました。
けれど、彼から見えた景色は、きっと惨状だったのでしょう。彼は悲鳴を上げ、そのまま走って帰ってしまいました。
私は失血と痛みの中で、
だんだん意識が遠のいていきました。
次に目を覚ましたとき、
最初に感じたのはサロンパスの匂いでした。
目を開けると、近所のおじいちゃんにおぶられ、
家まで運ばれている最中でした。
しばらくすると、家の方から母が走ってきました。
その後ろには、あの男の子もいました。
彼は逃げたのではありませんでした。
私の家まで走り、母へ知らせに行ってくれていたのです。
今振り返ると、この頃から私は、
言葉で「好き」を伝えるのではなく、身体で距離を縮めようとする癖が完成していたのだと思います。
ちなみに怪我はかなり酷く、膝の肉は完全にえぐれ、
一部は骨が見えていました。
それでも私の回復力はすごいもので、
今では傷跡はほとんど残っていません。
これは、ただ私がアホだったという話です。
【3回目】11歳
小学校6年生のときです。
中学受験のため、進学塾へ通っていた頃でした。
当時、私の学校では進学塾へ通っている家庭はそれほど多くありませんでした。
放課後は毎日塾があったため、
友達から遊びに誘われても断り続けるしかない。
その結果、私は少しずつクラスで浮き、からかわれたり、はみごにされる標的になっていました。
一方で、肝心の受験勉強も思うようにはいきませんでした。
模試では思うような判定が出ない。
家でも塾でも毎日のように罵倒される。
夜中の2時、3時まで、親の監視のもと勉強を続けさせられました。
勉強ができなければ怒鳴られる。
成績が悪ければ人格まで否定される。
そんな生活が続き、子どもながらに原因不明の心臓の痛みまで出るようになりました。
心も身体も、もう限界でした。
そんな中、家族で映画を観る時間がありました。
父はホラー映画が好きで、
よく私にも一緒に観せていました。
その頃ビデオで観ていたのが、
『オーメン』(1976年)です。
父は冗談半分で、
私を主人公の「ダミアン」と呼んでいました。
ダミアンは、人類に災いをもたらす悪魔の子です。
頭には「666」の刻印があります。
父は私に向かって、
「お前はここまで俺らを悲しませて、ダミアンみたいやな。」
とよく言っていました。
今でも、その言葉を覚えています。
『オーメン』の中では、ダミアンに関わる人たちが次々と不可解な死を遂げていきます。
その中でも、私の脳裏に焼き付いて離れなかった場面がありました。
物語の序盤。
ダミアンの誕生日パーティーの最中、乳母のホリーが、
「It's all for you, Damian!(すべてはあなたのためよ、ダミアン!)」
と叫び、屋敷の屋上から身を投げ、首を吊るシーンです。
なぜか、その死に方だけが強烈に頭へ残っていました。
後日、いつものように両親から罵倒されて自室へ戻った私は、ベッドの上にある蛍光灯の紐を見つめました。
その紐は金属製のチェーンで、背の小さい私にも届くように長く加工されていました。
私は、『オーメン』のあのシーンを思い出し、
気づけば、そのチェーンを、自分の首へ巻きつけました。
そして、ベッドから足を滑らせました。
次の瞬間、一気にチェーンが首へ食い込みました。
頸動脈が締め付けられ、
目玉が飛び出しそうな感覚がありました。
その瞬間、
「あ、やばい。死ぬ。」
と思いました。
すると突然、
ブツッ
という音がして、チェーンが切れました。
私はそのままベッドから床へ崩れ落ちました。
直後、猛烈な恐怖が襲ってきて震えが止まりませんでした。同時に、助かったという安堵もありました。
その後、チェーンを切ったことで、
私は親からひどく怒られました。
でも、
「どうして切れたの?」
とは、一度も聞かれませんでした。
私は今でも、そのことが不思議でした。
親は薄々、何が起きたのか気づいていたのだと思います。
でも、本当の理由を知ってしまうことが怖かった。
だから、そのことには触れなかったのかもしれません。
【4回目】15歳
中学3年生のときです。
普通なら高校受験がある時期ですが、
私は中高一貫の女子校だったので、高校へはエスカレーター式で進学できることが決まっていました。
それでも親は、どうしても私を国公立コースへ入れ、
薬剤師にさせたかった。
必死でした。
この頃には、私はすでに母より体格が大きくなっていて、母のビンタも受け止められるようになっていました。
母一人では、もう力では押さえつけられない。
そこで親は、大阪市内でも体罰で有名だった家族経営の塾へ私を入れました。
当時の私は、学校では成績もそれなりで、クラスでも上位のグループにいて、先生にも平気で口答えするような、いわば少しイキっていた時期でした。
そんな私にとって、
その塾は人生で一番屈辱的な場所でした。
分からなければ怒鳴られる。
分からないと言えなければ、拳で殴られる。
しかも周囲には、いわゆるガリ勉タイプの生徒ばかり。当時、派手めな女子中学生だった私は、その中でも完全に浮いていました。
親は、私が一番苦手だった英語と数学だけを受講させました。
当然、毎回分からない。
手を挙げるしかありませんでした。
そのたびに周囲の視線が集まる。
先生から罵倒される。
そして、最後まで正しく解答を書いた紙を提出できなければ居残り。
掃除をさせられ、家へ帰る頃には日付が変わっていることも珍しくありませんでした。
この頃も、仲の良かった友達から泊まり会などへ誘われていました。
でも、毎日こんな生活でした。
断るしかありませんでした。
幸い露骨に仲間外れにはされませんでした。
それでも、少しずつ輪の中へ入りづらくなり、一部の友達からはきつく当たられるようになりました。
学校でも居場所がなくなり始める。
家にも居場所がない。
塾にも居場所がない。
幼い頃とは違い、思春期だった私は、
「もう消えてしまいたい。」
そう強く思うようになっていました。
ある日、友達との会話で、
「手首を切っても死ねないらしいよ。」
「あれは身体の痛みで、心の痛みをごまかすためにやるらしい。」
そんな話を聞きました。
そして次の休み時間。
気づけば私は、トイレへ入り、
右手にカッターナイフを持っていました。
このときは、「死にたい」というより、
「本当にそうなるのか試してみたい。」
という実験の気持ちの方が近かったと思います。
恐る恐る手首へ刃を当てました。
痛い。
ヒリヒリする。
でも、その次の瞬間。
心の痛みが、少しだけ鈍くなった気がしました。
もしかしたら、友達に聞いた話の暗示にかかっていただけなのかもしれません。
それでも、あの環境で毎日心が痛かった私にとって、
一時的にでも心の痛みを消す方法を見つけてしまった。
そう感じました。
ただ、手首を切ること自体が目的ではありませんでした。しかも、見える場所に傷を作るのも嫌でした。
身体を痛めつければ心の痛みが和らぐ。
そう覚えてしまった私は、今度は見えない腹部を横一直線に切り続けるようになりました。
ある日、家で寝ていると、
母が私のお腹をめくりました。
寝相が悪く、服が少しずれていたのでしょう。
母は、
「なんなの、これ!」
と驚いていました。
私は、
「かゆくて掻いただけ。」
と答えました。
今思えば、どう見ても引っかき傷ではなく切り傷です。
それでも母は、それ以上追及しませんでした。
私は今でも、
娘が腹を切るほど追い詰められている現実を認めたくなかったのだろう
そう思っています。
そんなある日、私は体罰塾が限界になり、
「お願いだから辞めさせてほしい。」
と親へ頼みました。
返ってきたのは、長時間の人格否定でした。
泣き腫らし、生きる気力もなくなった私は、自室へ戻りました。
そして、母の薬箱を開けました。
何の薬かも分からないまま、
中にあった薬を片っ端から飲みました。
両親は薬剤師でした。
家には薬が山ほどありました。
恐らく、100錠近くは飲んだと思います。
でも、また死ねませんでした。
最後の方に飲んだ錠剤が喉に引っかかる向きで入り、激しく咳き込みました。
その拍子に胃がひっくり返るように吐き気が込み上げ、飲んだ薬をすべて吐き出しました。
また、生き残ってしまった。
その後、大量の薬がなくなっていることに親が気づかなかったはずはありません。
それでも、このときも何も聞かれることはありませんでした。
【5回目】27歳
社会人4年目。
DVをする元交際相手と同棲していた頃です。
日常的なマインドコントロール。
身体的暴力。
気に入らないことがあれば、
何日も寝かせてもらえない。
まともな判断力を失わされ、お金も搾取され、
気づけば300万円の借金を背負わされていました。
拒否しているにもかかわらず避妊をされない性的DVも、ほぼ毎日のように続いていました。
一日のスケジュールは逐一報告させられ、
行動もすべて監視される生活。
私は、限界を迎えていました。
さらに、彼は会社の管理職にも嘘を吹き込み、
私は職場でも追い詰められていきました。
家庭にも居場所がない。
会社にも居場所がない。
大人になってから味わう絶望は、幼少期や思春期の絶望とはまた違う種類のものでした。
逃げ道がない。
そう感じていました。
この頃にストレスの影響で橋本病も悪化し、
体重は30kg近く増加しました。
普通に出社することさえ難しい状態でした。
本来であれば甲状腺ホルモンの治療が必要な状態でしたが、彼はそれを許しませんでした。
「痩せてモテたら困る。」
それが理由でした。
一方で、彼は少しでも気に入らないことがあると、
「お前は精神疾患だ。」
「病院へ行け。」
と言い続け、私を精神的な問題がある人間だと思い込ませようとしていました。
そして、当時まだ規制の緩かった抗不安薬を、
私名義で個人輸入させていました。
今振り返れば、その薬は私のためではありません。
健常者が服用しても多幸感や脱力感が得られることから、彼自身も乱用していました。
ある日、もう限界まで追い詰められた私は、
レイプされた後、裸のまま抗不安薬を一気に飲みました。
途中で制止されたため、飲めたのは数錠ほどでした。
そこから先の記憶は曖昧です。
次に覚えているのは、
包丁を自分の腹へ向けていたことです。
けれど、腹部の皮下脂肪が厚かったことに加え、
その奥の腹壁にも阻まれ、思い切って刺し切ることができませんでした。
相手にも包丁を奪われ、止められました。
正直に言えば、
「こんな奴のために死にたくない。」
その気持ちが、
ほんの少しだけ勝って手加減してしまったのです。
そこから数日間の記憶は今でもありません。
以前の記事でも書きましたが、
これは解離性健忘と呼ばれる症状でした。
強いトラウマを経験した際、その前後の記憶が抜け落ちてしまうことがあります。
断片的に覚えているのは、
殴られて床へ倒れ込んだ瞬間の景色。
そして、避妊されないまま性的暴力を受けていた記憶だけです。
余談ですが、「27クラブ」という言葉があります。
27歳という若さで命を落とした著名人が数多くいたことから生まれた言葉です。
もちろん、私の状況とは意味が違います。
それでも、私の人生で最も死を望んだのは、
この27歳の出来事でした。
【6回目】32歳
これまで何度も記事に書いてきた、
子宮頸がんになった歳です。
この日までの私は、ずっと、
「早く人生が終わらないかな。」
と思いながら生きていました。
積極的に死のうとしていたわけではありません。
ただ、自分の人生にそれほど執着がなかった。
人間関係も恋愛も、
相手を変えながら同じことを繰り返す。
傷ついて、壊して、
また似たような場所へ戻っていく。
何度やり直しても、自分だけは変わらない。
いつしか、
「もう、いつ終わってもいいや。」
と思うようになっていました。
未来に期待していなかったし、
自分の人生を大切にしようとも思っていなかった。
生きているというより、 ただ人生が終わるまで時間を消費していたのだと思います。
そんな私に、癌が見つかりました。
そして皮肉なことに、
「死ぬかもしれない」
という現実を突きつけられた瞬間、 それまで何年も「いつ死んでもいい」と思っていた人間の本能が、猛烈な勢いで生きようとしました。
怖かった。
ただ、怖かった。
そして、自分でも驚くほど強く思いました。
死にたくない。
あれほど人生なんてどうでもいいと思っていたのに。
いざ、その人生を本当に失うかもしれないとなった瞬間、私は初めて、自分が生きたがっていることを知りました。
おそらく、死そのものが怖かっただけではありません。
このまま人生が終わったら、
私は一度も、自分の人生を生きないまま死ぬ。
その後悔が、一気に押し寄せてきたのだと思います。
誰かに求められることを自分の価値にして、
誰かの機嫌を読み、 誰かの期待に応え、
傷つけば自分を粗末に扱い、 それでも「私はこういう人間だから」と諦めてきた。
では私は、
自分のために何を選んできたのだろう。
そう考えたとき、ほとんど何も残りませんでした。
死にたくなかった。
でも、それ以上に、
このままの人生で死にたくなかった。
のだと思います。
そして、この癌をきっかけに、
私の人生を大きく動かす出来事が起きました。
それまでなら選ばなかったものを選び、
それまでなら手放せなかったものを手放し、
少しずつ、自分の人生のハンドルを自分の手へ取り戻していった。
もちろん、癌になって良かったとは思いません。
失ったものもあるし、
身体には今もその痕跡が残っています。
あんな経験は、しないで済むならその方がいい。
それでも、
癌になる前の私は、 自分が死にかけていることにすら気づいていなかったのだと思います。
身体ではありません。
心の方です。
身体が病気になったことで、 長い間死んだように眠っていた心が、皮肉にも「生きたい」と叫び始めた。
そして私は、32歳になってようやく、
ただ生存するのではなく、
自分の人生を生きてみたい
と思うようになりました。
身体だけではなく、 心まで息を吹き返した。
32歳。
癌になった歳であり、
私にとっては、
人生を終わらせたくなくなった歳でもありました。
■ 最後に
振り返ると、私は何度も死の淵に立ちながら、
それでも生き延びてきました。
運が良かったこと。
驚異的な回復力があったこと。
そして、どこか底知れない生命力があったこと。
そのすべてが重なって、今の私がいます。
以前、神職の友人から、
「竜胆はミトコンドリアが、とんでもなく強い。」
と言われたことがありました。
当時は笑って聞き流していましたが、
こうして人生を振り返ると、
不思議と腑に落ちる言葉でもあります。
ここまで何度も死の淵まで行って、
そのたびに戻ってきたのだから、
もしかすると死神の方も、
そろそろ首を傾げているかもしれません。
「……こいつ、まだ来ないのか。」
そんなふうに、少しくらい呆れられていそうな気もします。(笑)
あのとき何が起きていたのか。
なぜ私は、あんな生き方しかできなかったのか。
何に傷つき、何を失い、それでも何を抱えて生き延びてきたのか。
そのときには理解できなかったことも、
6回も死を間近にしたからこそ、
今こうしてnoteを書けているのだと思います。
もし、あのどこかで人生が終わっていたら、
この文章を書くことも、皆さまと出逢うこともありませんでした。
過去を振り返れば、
消してしまいたい出来事もあります。
自分の未熟さを思い知らされることも、
「あのとき違う選択をしていたら」と思うことも、
今でもあります。
それでも、それらすべてを経験した人間が、今ここにいる。
だから私にとってnoteを書くことは、
過去を美化するためでも、自分の人生を悲劇として語るためでもありません。
自分が歩いてきた人生を、自分自身の言葉でもう一度拾い直していく作業なのだと思っています。
長い間、私は自分の人生でありながら、
自分の人生を生きている感覚がありませんでした。
けれど、何度も死を間近にして、最後に癌になって、
私はようやく、
「死にたくない。」
と思いました。
そして、その先で初めて、
「だったら、私はどう生きたいのか。」
という問いに辿り着きました。
今の私は、生き直している最中です。
過去を無かったことにはできません。
受けた傷も、自分がしてきた選択も、失ったものも、
全部抱えたままです。
それでも今は、
昔のように生きることから逃げたいとは思いません。
ちゃんと自分の人生を生き切って、
そのうえで天寿を全うしたい。
楽しいことも、
苦しいことも、
誰かを好きになることも、
失うことも、
間違えることも、
後悔することも。
まだ知らない景色を、自分の意思で見てみたい。
そう思えるようになりました。
だから私は、不死身なのではありません。
死なない人間だったわけでもない。
強かったから、何も傷つかなかったわけでもありません。
むしろ何度も壊れました。
何度も人生を投げ出しました。
それでも、そのたびに身体は生きようとし、
最後には心まで、生きる側へ戻ってきた。
私はきっと、
何度死にかけても、それでも生きることを選び直してきた人間なのだと思います。
そして今度は、
ただ生き延びるだけではなく、
自分の人生を、自分として生き切りたい。
6回、死を間近にした先で、
ようやく私は、そう思えるところまで来ました。
