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「半拍(はんびょう)の足音」〜第38夜〜

第38夜「半拍(はんびょう)の足音」
(小説𝓿𝓮𝓻𝓼𝓲𝓸𝓷)


えぇ……ね、夜の廊下って、どうしてあんなに“静かすぎる”んでしょうね……。
音がないって、音そのものよりも……こわいなぁ、いやだなぁ……って。
でね、音がないはずなのに、ひとつだけ“ある”んですよ。足音が。
自分の、ね。コツ、コツ、って。
ところがね……その足音がね、ある夜だけ、半拍、遅れて返ってくるんです……えぇ……。

あれは、夏の盛りでした。窓を開けても風が入ってこない、むしむしした夜。
寝苦しくってね、のどがカラカラになって、台所に水を飲みに行こうと布団を抜けたんです。
廊下に足を下ろした瞬間、畳がぬるい。体温を吸ったみたいな、いやなぬるさ。
暗がりの奥に、古い振り子時計の影が、ぶら下がって揺れて見える。
止まってるんですよ、その時計。針は十一時四十七分から動いてない。なのに、影だけ揺れる。……いやだなぁ。

で、歩き出したらね、コツ。
半拍、遅れて、……コツ。
自分の足音の後ろに、薄くもうひとつ、ついて来る。
わかるんですよ、これがね、壁に跳ね返ってる音じゃないってのが。
壁の反射ってもっと軽いでしょう? これは、重い。足の重さが乗ってる。
しかもね、私の足と、同じ場所を踏んでくる。畳の“柔らかいところ”を選ぶみたいに、きっちり、同じ“沈み方”で。……えぇ。

振り返ればいいじゃないかって?
いや、振り返ったら終わる──そう思ったんです。
だからね、歩調を変えてみたんですよ。
わざと、コツ、……コツコツ、って不規則にしてみる。
するとね、後ろのそれも、不器用に真似してくる。コツ、……コツコツ。
遅れるんじゃなくて、遅れて“合わせてくる”。
“聴いている”──そんな感じ。……こわいなぁ。

台所の戸、引き戸なんですけどね、手をかけたら、ひやっとした。
部屋は暑いのに、戸の桟だけ、冬みたいに冷たい。
引くと、スーッと、風が抜ける。
窓は閉まってる。換気扇も回ってない。なのに、流れ込む風。
その風に混じってね、ふっと、線香の匂いがしたんです。
お盆前でもない、誰も焚いてない、焦げの匂いじゃない、あの“まだ火が芯のどこかに残ってるときの、生ぬるい匂い”。
……いやだなぁ。

コップに水を入れて、口をつけると、背中がすすけるみたいにぞわっとして、
コツ。
背後で、ひとつ。
私はそこで、初めて足を止めた。息も止めた。
そしたらね、後ろのそれが、止まりきれなかったみたいに、もう一歩だけ、近づいてきた。
畳が、私のかかとのすぐ後ろで、“ふ”って沈む。
……そこには誰もいないのに、沈む。

見ないように、コップの水面を見たら、表面が二度、揺れた。
私の呼吸でも、冷蔵庫の振動でもない、二度。
まるで、誰かが私の首筋に、近づいて──吐いた息が、水面に触れたみたいに。
ね、ここでやっと、私はわかった気がしたんです。
“半拍”ってのは遅れてるんじゃない。
向こうが、私に、合わせてる。
こっちの呼吸に、足音に、視線にまで。……えぇ。

そのとき、ふっと、耳元で鳴ったんですよ。
……ちり。
風鈴なんか、かけてない。
なのにね、耳たぶのすぐ横、透明な金属が、ひとつ“触れた”ような音。
私、条件反射みたいに首をすくめた。皮膚が、そこだけ氷水を垂らされたように冷たくなる。
で、気づいた。
冷たさ、耳の後ろから首筋、背骨をなぞって、ぴたりと止まるんです。
止まった場所ってのが……私の影と、台所の床の境目。
そこに、うっすら、濡れた跡が伸びていた。

ね、濡れてるんですよ。
私、素足は乾いてるのに、床には、足跡が、二つ分。
かかとから指先まで、きれいに、べったり。
しかもね、向きが逆なんです。
私と「向かい合う」形で、そっちから、こっちに、近づいて来てる。
私があと一歩下がれば、その足跡と、ぴたり、重なる。
……いやだなぁ。

そこで、たまらず振り返ろうとしたら、
戸棚のガラスに、自分の肩越しの奥が映った。
廊下。
暗がりの、畳の目。
そして、その真ん中へんに、黒い楕円が二つ、低い位置に並んでる。
目だ、と思った。
でもね、それは目じゃない。
ぬれて、光を映した、足の指の“先”。
四つ、じゃない、五つ。五本の指が、こちらに向いて、ぴたっと止まっている。
その“先”が、ゆっくり開いて、また閉じる。
足の指が、床を“つかむ”みたいに、ぎゅ……ぎゅ……って。
音はしないのに、畳が鳴る感覚だけ、皮膚に届く。

「すみません」
と、言ってしまった。
謝って、どうにかなる相手じゃないのに、反射的に。
するとね、向こうも、真似をした。
「……すみ、ま」
半拍、遅れて。
でも、それは声じゃない。
冷たい息が、耳の形をなぞって、言葉の“形”だけ、押し込んでくるような、そんな気配。
こわいなぁ、いやだなぁ……。

私は、廊下の角にある、古い姿見の鏡を、見ちゃいけないと思った。
あれ、正直なんですよ。
見たものだけ、きっちり映す。
でも、映したくないものも、平気で映す。
で、視線を床に落として、小さく横歩きして、背中でそいつを押し返すように、部屋へ戻ろうとした。
その瞬間、耳元で──ちり。
二度目が鳴った。
今度は、鏡の奥で鳴った気がした。

部屋の敷居をまたぐと、足跡は、ぱたりと途切れた。
畳は乾いてる。においも消えた。
でも、時計は、十一時四十七分のまま。影だけ、ぶらぶら揺れている。
私は布団に身を潜らせて、耳をふさぎ、目を閉じた。
目を閉じれば終わる──子どもの頃のおまじない、覚えてます?
効かない夜ってのが、あるんですよ。
その夜は、まさにそう。
だってね、目をつぶってるのに、わかるんです。
布団の端、足首の上に、薄い手のひらみたいな“重さ”が乗ったの。
五本の指が、ゆっくり、畳むたびに、皮膚の下の血が、冷たく引いていく。
……こわいなぁ。

いつ眠ったのか、覚えてない。
朝になって、母が廊下で声を上げた。
「水こぼしたの? 夜中に」
出てみると、台所からまっすぐ、玄関へ向かって、小さな濡れ跡が続いている。
“私の”足より、ひとまわり小さい。
で、その足跡、玄関の前で、向きを変えてるんです。
扉の方じゃない。
家の中の方へ、くるり、と。
まるで、誰かがいったん外に出て、また戻って来たみたいに。

母が、ふっと言った。
「昨日、おじいちゃんの仏壇、香炉の灰、ほんのり温かかったよ」
線香なんか焚いてないのに、ね。
時計はね、いつの間にか動いてた。
気がついたら、針はちゃんと朝の時刻を指してる。
ただ、ガラスの内側に、曇りが丸く残ってた。
耳たぶの大きさくらいの、丸い曇りが二つ。
左右の、ね……耳の場所に、ぴったり合うみたいに。

それからですよ。
夜、廊下を歩くとき、一度だけ、試すようになった。
コツ。
半拍、置いて、……コツ。
返って来なければ、何もない夜。
返ってきたら、誰かが“聴いてる夜”。
でね、これは一回だけじゃないんです。
年に、二度か三度。季節の、皮がめくれるみたいな、境目の日に。
だいたい決まって、十一時四十七分の少し前。
風もないのに、戸の桟が冷たくなる夜に。
……ちり。
鳴る。
見なきゃいい。
でも、わかるでしょう?
見ないでいられる人なんて、いないんですよ……えぇ……。

で、ね──今夜が、その時間なんです。
あなたの家の廊下は、どっちに伸びてます?
右ですか、左?
……試してみますか。
コツ。
……コツ。

……返りました?
半拍、遅れて。
だったら、ね。
どうか、振り返らないで。
“聴いてる”のは向こうだけじゃない。
あなたが、向こうを、聴かせてしまうときが、いちばん、近いんです。えぇ……こわいなぁ、いやだなぁ……。


あとがき


……信じるか、信じないかは、あなた次第です。
ただ──この話を読んだあと、もし夜道や廊下を歩くときに、半拍遅れて響く音を聴いたら……どうか振り返らないでくださいね。


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