《短編小説版》視えてしまう世界の話〜第10夜〜
まだ来たら、あかんよ
『※全て実話を元に短編小説にしています』
はじめに──心の崖の音
心が壊れるときは……音がしないんです。
けれど──確かに胸の奥で“パキン”と小さな亀裂が走る音がする。
その音を抱えたまま、人は笑います。
笑いながら……静かに崩れていくんです。
誰にも見えない、心の崖のふちで。
──私も、そのひとりでした。
朝が来るのが怖い。
目を開けた瞬間に「また今日が始まってしまった」と、胸の奥から絶望があふれてくる。
息を吸うだけで苦しい。
光さえも、罰のように感じる。
鬱病とは、そういうものなんです。
闇に沈み、声は届かず、ただ静かに溺れていく。
父の誘い──小さな揺らぎ
そんなある日、父が言いました。
「……温泉でも、行くか」
不器用で、短い言葉。
でも、その一言は、凍りついた湖に投げられた小石のようでした。
静かな心に、波紋がじわりと広がっていったんです。
車窓に映る冬枯れの山。
灰色の雲が、低く、重く垂れ込めている。
ワイパーがフロントガラスを行き来し、かすれたゴム音が響く。
ラジオは雑音にまみれ、途切れ途切れの歌声が遠くで揺れている。
父は、何も言わない。
ただハンドルを握る手の節が白く浮かび上がり、横顔が前だけを見ている。
その姿に、私は気づきました。
言葉にしなくても、必死に「生きろ」と伝えてくれていることを。
湯気の中で──終わらせたい心
宿に着きました。
古びた木造の建物。
濡れた柱の匂い、薪の煙の匂い、湿った畳の匂い。
脱衣所に入ると、裸電球がひとつ、黄色くぼやけていました。
籠棚の端には、小さなタオルが、忘れられた時間のように丸まっている。
父は「先に入ってる」と言い残し、のれんをくぐりました。
私はひとり残され、衣服を脱ぎながら、ふと……考えてしまった。
──ここで終わらせても、いいんじゃないか。
その思いは激しいものではなかった。
ただ、静かに沈んでいく石のように……重く、深く。
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