父の日が、ずっと遠かった。けど、今なら書けることがある。
まえがき
2025年4月27日。
ぼくのX投稿が、初めて大きく跳ねた日。
いまnoteがヤバいらしい。月に100万円の売上を作ってる人がいて、秘訣はまず100円を稼ぐ。Xに有益な情報を投稿して、いいねが10超えたものをnoteに加筆して書く。100円の有料noteにして、Xの投稿コメントにピっとnoteを貼る。売れる。定期的に投稿し、記事が増えてきたら月額100円のメンバーシップ開設…
— 検証ニキ|瀬戸内note研究所を検証します🫡 (@review_niki) April 26, 2025

そして5月になり、「母の日が、ずっと苦手だった」と書いたあの日から、少しずつ、自分の中の家族との距離が変わってきた気がしている。
言葉にならなかった感情が、
noteを書くことで少しずつ輪郭を帯びていく。
母に「ありがとう」を届けたあの日のように、
今度は、ずっと言葉にできなかった父に向き合ってみたいと思った。
正直、父のことはあまりわからない。
しゃべらないし、怒ることもない。
感情を見せないその背中を、ぼくはずっと遠くから眺めていた。
でも今なら、少しだけ書けそうな気がする。
過去の自分の葛藤ごと、まるっと言葉にできるような気がしている。
これは、「母の日」と「父の日」、ふたつのnoteが交差する、ぼくの物語のつづきです。
1章|しゃべらない父と、しゃべれない息子
交わらなかった時間に、あとから気づいたこと
ぼくの父は、40年間、ずっと同じ仕事を続けてきた人だ。
朝は早く起きて、無言でごはんを食べて、黙って仕事へ行く。夜はテレビを見ながら静かに晩酌し、誰とも話さず眠る。
家族と会話を交わす場面が、極端に少なかった。
喜怒哀楽が見えにくくて、話しかけるタイミングがわからなかった。
小さいころのぼくは、「お父さんって、なんでこんなに話さないんだろう?」と不思議だった。でもそれはきっと、父の中にある"言葉にならない何か"に、幼い自分が触れられなかったからだと思う。
家族なのに、心の距離が近づかない。
目の前にいるのに、ずっと遠い。
そんな違和感を、ぼくはずっと飲み込んで生きてきた。
成長するにつれ、ぼくは「話せない」を正当化するようになった。伝えようとしない父を責めることで、自分の臆病さを隠していた。
「黙ってる方が悪い」
そうやって勝手に裁いてた。
でも今なら、あの沈黙の中に、どれだけの想いが詰まっていたのか、少しだけ分かるような気がしている。
2章|それでも、ちゃんと見ていた
言葉はなかったけれど、たしかに愛はあった
言葉にしてもらった記憶は、正直ほとんどない。
何かを褒められたことも、否定されたことも、あまり覚えていない。
でも、ふと思い出す場面がある。
たとえば、台風の日。
部活帰り、びしょ濡れで最寄り駅に着いたとき。
改札の外に、父が立っていた。
何も言わずに傘を差し出して、無言で歩き出した。
またある日、熱を出して学校を休んだとき。
昼休みにそっと帰ってきて、ポカリを1本だけ置いて、また出ていった。
そんなこと、あの頃は特別だとも思ってなかった。
でも今思えば、それはたぶん、父なりの「愛情表現」だったんだと思う。
ほんとうは、ずっと見てくれてた。
でも、ぼくは「見ていてくれた」って実感が欲しくて、 もっと分かりやすく愛してほしくて、 心の中で拗ねていた。
何も言わず、何も求めず、ただ黙って手を差し出すような、そんな優しさに気づかないふりをしていたのは、ぼくのほうだった。
「見られていた」というより、「見守られていた」。
そんなふうに感じる記憶が、少しずつ思い出せるようになった。
3章|母と向き合ったあと、父の背中が見えてきた
わかり合えないと思っていた人に、少しずつ近づいていく
「母の日が苦手だった」と綴ったあの日。
あれは、ぼくのなかにあった過去の傷を、少しだけ外に出してみた日だった。
ありがたいことに、これまでで一番多くの"スキ"をもらったnoteになった。
それはきっと、誰かに「わかってもらえた」という感覚と、自分の中で「過去と今がつながった」という感覚が重なったからだと思う。
書いて初めて気づいた。
母と向き合うことで、自分のことが少しわかるようになった。そして、母のことがわかると、今度はふしぎと、父の背中が見えてくるようになった。
母は、感情を表に出す人だった。
ときにぶつかり、ときに泣いて、ときに怒る。
その分、誤解もあったけど、言葉の往復があるだけ、ぶつかり合う余白があった。
父は違った。
ぶつかってこない。語ってこない。
喜怒哀楽のどれもが、うまく読み取れないまま、ずっと距離があった。
だけど今、思う。
本当に難しいのは、「何も言わない人」と向き合うことなんじゃないかって。
父は、ずっと沈黙していた。
でもその沈黙には、もしかしたら、
不器用なやさしさとか、照れくささとか、
伝え方を知らないなりの、精一杯の想いが眠っていたのかもしれない。
子どもの頃のぼくは、それを「無関心」だと思っていた。
でも今では、少しだけ見え方が変わってきた。
あれはたぶん、「不器用なまなざし」だったのかもしれない。
母とのnoteを書いたからこそ、たどり着けた感情がある。いまなら少しだけ、父の沈黙と向き合える気がする。
4章|はじめて、父が「失望」を口にしたとき
そんな父が、ぼくに明確な感情を向けてきたことは、人生で二度だけある。
それはどちらも、「失望」だった。
1|大学生のぼくが、夜の街でバイトしていたある日
当時、サークル活動にかける費用も、遊びに使うお金も足りていなかった。
塾講師のアルバイトでは追いつかず、求人サイトを眺めていると、「大学生中心の楽しい職場」という文言が目に入った。時給は1,450円。当時のぼくにとっては、魅力的な内容だった。
気づけば、ぼくは雑居ビルの5階にあるその店で働くようになっていた。俗に言う、キャバクラの黒服。最初はためらいもあったけれど、「これもひとつの社会勉強かもしれない」と自分に言い聞かせて。
1年半ほど働いたある日。よほど疲れていたのか、気が緩んでいて、源氏名が書かれているキャストさんの出勤表をワイシャツの胸ポケットに入れたまま、洗濯カゴに入れてしまった。
それを見つけた父が、ぼくに言った。
「お前、こんなところで働いて……恥ずかしくないのか?」
ただ、それだけだった。
でも、その一言は、雷のように響いた。
*恥ずかしい。自分でもわかっていた。でも、学生らしい生活のためだった。理屈ではそう言い訳しても、父の視線の奥にあった哀しさは、いまでも忘れられない。
この日、ぼくは初めて、父に失望された。
でも、これはまだ、序章にすぎなかった。
*水商売を否定しているわけではなくて、そこは、ご了承ください。ぼく自身、3年前くらいまで、よくお世話になっていました。
2|無口な父が、本気で心配して怒ったあの日
なるほど。ぼく25歳のときに起業しようとして、無知すぎて、実家の不動産を担保にして金を借りさせられそうになって、終いには高額なコンサル契約させられて、洗脳されかけた黒歴史があるけど、こういうの聴きたいのかな?🫡 https://t.co/9Z8zfWGkkU
— 検証ニキ|瀬戸内note研究所を検証します🫡 (@review_niki) June 6, 2025
25歳。当時ぼくは、美容サロンの経営企画として、会社の"頭脳"みたいなポジションにいた。企画・採用・店舗立ち上げ・SNS運用。エリアマネージャーとして人材育成も担当していた。
だから、正直にいうと天狗になっていた。ぼくなら、自分の力で、もっと大きな事業を動かせる。そう思い込んでいた。
その頃、会社が医療分野に事業拡大しようと、Wantedlyというプラットフォームを通じて、とある"医療系に強い"というフリーのコンサルタントと契約した。ぼくはその窓口となり、会社とコンサルタントとの橋渡し役を任された。
でも、その人はとんでもない悪手だった。思い通りにいかないと、怒鳴る。会社の機密情報を握り、脅すような発言もあった。
まさに、このやまださんの記事にきれいに当てはまるような、ヤバい大人。
店員さんやタクシーの運転手さんに当たるタイプの人間も関わっちゃいけません。 https://t.co/Eq6G3WGGQo
— 検証ニキ|瀬戸内note研究所を検証します🫡 (@review_niki) June 7, 2025
こういう人でした↑
以後、"コンサル野郎"と呼びます。
ぼくは、気づけば、どんどん八方美人になっていった。会社にも、コンサル野郎にも、いい顔をし続けた。
気づけば、そのコンサル野郎に、洗脳されかけていた。
そんな中、ぼくの些細な一言が、両者の関係を決定的に壊した。会社とコンサル野郎が真っ向から対立。火種は、ぼくの言葉だった。
責任を感じたぼくは、距離を置くように会社を離れた。
その頃には、コンサル野郎から独立をそそのかされていた。「お前なら絶対いけるよ」甘い言葉に乗せられ、D2C領域での起業を決意した。
気づけば結んでいた、コンサル野郎との業務委託契約は衝撃の月50万円+利益の数%。その頃のぼくは、冷静さを欠き、思慮を失い、まともじゃなかった。
夜の街で接待、酒、女性のアテンド…付き合いだったはずが、いつしか自分からハマっていった。渋谷、六本木、西麻布のクラブや高級ラウンジ。支払いが滞り、信用はどんどん落ちていく。事業資金を調達するために動けど、政策金融公庫からも、地元の信金からも融資の申請は断られた。
ついには、「実家の不動産を担保にしよう」という話までエスカレート。もう、おかしくなっていた。頭の中が、真っ白になっていく。
あぁ、もう終わりだ。何もかも。
ぼくは、髪を剃り落とした。
すべてを、リセットしたくて。
心が壊れた証だった。

その異変に気づいた父は、ぼくがたまたま録音していた、コンサル野郎の脅迫めいた音声を証拠に、警察に相談してくれた。
「息子が、この人から脅されている」
すべてを止めてくれた。
そして、ぼくに、こう言った。
「お前は、何をやってるんだ。ばかやろうが。」
二度目の、深い失望だった。
けれど、あのときの父の言葉には、
初めて、"怒り"と"哀しみ"と、
そしてほんの少しの"愛情"が、
にじんでいた気がする。
5章|照れくさいけど、今なら書ける「ありがとう」
言えなかった「ありがとう」を、いま文字にして届ける
たぶん、直接は言えない。
改まって「ありがとう」なんて、言ったことないし、言おうとしたら、ちょっと笑ってごまかしてしまいそうだから。
でも、noteなら。
書くことなら、ぼくにもできる。
お父さん。
ぼくはずっと、あなたを「遠い存在」だと思っていました。
でも、大人になって、働くようになって、
無職になって、noteを書き始めて。
そして、母と向き合って、
自分のことを少しずつ書けるようになって。
ようやく、あなたの背中の意味が、
すこしだけわかってきました。
言葉にしない人ほど、
"何を選ばなかったか"で
人生がにじむのだと思います。
転職もせず、愚痴も言わず、
いつも同じ時間に出勤して、
家族を支えてくれたこと。
たぶんそれは、愛だったんだと思います。
言葉にしない、でも、確かにそこにある愛。
照れくさいけど、今なら書けます。
ありがとう。
あなたの息子で、よかったです。
あとがき
このnoteが生まれたきっかけは、ポンタパパさんの
父の日、何をあげようか
— ポンタパパ (@ponta_papa12) June 5, 2025
そんな声が聞こえてくるこの季節
でも今年は、モノじゃなくて、
ことばで届ける父の日にしてみませんか?
先日、私自身も「父になるということ」についてnoteに書いてみたところ、
SNSでは共感の声をたくさんいただきました。https://t.co/mHFkBzunUE…
noteを書きながら、あらためて思った。
ぼくが向き合っていたのは、
父そのものだけじゃなくて、
「父と出会いなおすことで、自分の弱さや未熟さにも出会いなおすこと」だったんだと思う。
母の日に「ありがとう」を書けたこと。
父の日に「失望されて、それでも生きてきた自分」を書けたこと。
そのどちらも、いまのぼくにとって大切な再出発だった。
言葉にしてはじめて、「もう終わりだ」と思っていたあの日の感情も、「それでも続けていける何か」に変わっていく。
正直に言えば、まだ怖いです。
何かを伝えるたび、どこかで
誰かに笑われる気がする。
「そんなの甘えだ」と言われそうな自分が、胸の奥にいる。
でも、それでも書きたかった。
父の背中に、母の涙に、あの時の自分に、ちゃんと届いてほしかったから。
このnoteが、ぼくにとっての"父の日"です。
ここまで読んでくれて、ほんとうにありがとう。
そして、もしも今これを
読んでくれているあなたが、同じように
「感情を閉じ込めて生きている」状態なら、
このnoteが、少しでも心の扉を
ノックできていたら嬉しいです。
今年の父の日は、6月15日。
父に「ありがとう」を伝えるタイミングを、
何年も逃してきたぼくが、
ようやくここで、その言葉を書き残せました。
もし、あなたにも
「言えなかったままの気持ち」があるなら、
ぜひこのnoteをきっかけにしてみてください。
"父の日に感謝を伝える"って、
遅すぎることなんてないから。
プロフィール
検証ニキ|noteで猫を飼っていく
普段のキャラは、
超絶ロジカル感情どこいったん?
もはやAI無機質人間。
こればっかりは過去の経験が影響しているのか、
無意識にそうなってるみたいで。
絶賛リハビリ中ですね。
でも今日は、ただの「ひとりの人間」として、
胸の奥から出てきた言葉をそのまま書きました。
☑︎ 頭を丸めたことがあります
☑︎父に二度、深く失望されたことがあります
☑︎ 崩れたあとに、もう一度立ち上がろうとしています
そんなぼくが、いま模索しているのは、
「文章だけで暮らす」という生き方です。
大切なものを見失わずに生きていける言葉を、
静かに、でも確かに発信していきます。

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