うたごえはミルフィーユは、なぜ残念なのか――アカペラは正しい。だが、スタイルにならなければ勝てない
All eyes on うたミル.
『うたごえはミルフィーユ』について書く。
最初に断っておく。
これは、失敗作認定ではない。
うたミルは、ちゃんとすごい。少なくとも、ぼくにはそう見える。アカペラという題材を女性声優音楽企画へ持ち込み、声だけでリズムを作り、ベースを作り、ハーモニーを作り、キャラクターを立て、MVを作り、練習も見せ、アニメまでやった。さらにキャストも弱くない。むしろ強い。かなり強い。
だからこそ、残念なのである。
「惜しい」では少し甘い気がする。惜しいという言葉には、あと少しだった、もう少しで届いた、という柔らかさがある。もちろん、その感触もある。だが、現時点のうたミルについてぼくが言いたいのは、もう少し強い。正しい題材を選んでいる。強い声優陣をブックしている。練習もある。技術もある。上位グループもある。それでも、跳ねていない。
これは惜しいというより、残念である。
ただし、終わったと言いたいわけでもない。続ける意味はある。むしろ、続ければかなり化ける可能性はある。人材のパワーはある。題材の筋もいい。大衆化の可能性も、事件化の可能性も、まだ残っている。だからこそ、現時点では残念だ、と言いたい。
1. 「飾りじゃないのよ涙は」は、普通にすごい
まず、「飾りじゃないのよ涙は -アカペラアレンジver.-」を見る。
普通にすごい。
中森明菜の原曲は、それ自体が強い。歌謡曲としての強度がある。声の強度、旋律の強度、言葉の強度、昭和歌謡的な湿度と緊張感がある。だから、カバーとしてはごまかしが効きにくい。原曲の強さに寄りかかることはできるが、同時に原曲に負ける危険もある。
うたミル版は、そこをアカペラへ変換している。
楽器がない。だが、声がある。ベースが声で置かれる。リズムが声で刻まれる。ハーモニーが声で積まれる。旋律がその上に乗る。原曲の持っている歌謡曲としての強度を、声の層へ移し替えている。
これは、弱い企画ではできない。
もちろん、これを聴いて「日本のアカペラ史が変わった」と言うつもりはない。そこまで言うと嘘になる。だが、女性声優音楽企画として見れば、かなり正しい。キャラクター声で歌い、同時にアカペラとして成立させる。声優の仕事と、音楽の仕事と、キャラクターIPの仕事が重なっている。
だから、うたミルは失敗ではない。
少なくとも、「歌が弱いからダメだった」とか、「声優にアカペラは無理だった」とか、そういう話ではない。むしろ逆である。うたミルは、音楽的にも企画的にもかなり正しいところへ行っている。だから、残念なのだ。
間違った題材を選んで失敗したなら、話は簡単である。人材が弱くて失敗したなら、それも分かりやすい。練習していない、作り込んでいない、技術がない、というなら、批判は楽である。
だが、うたミルはそうではない。
題材は正しい。人材も強い。技術負荷もある。アカペラとしての成果物もある。
それでも跳ねていない。
だから問題は、もっと嫌なところにある。
2. うたミルは、遅れて来た正しい企画だった
うたミルは、早すぎた企画ではない。
ここはかなり重要である。
『うたごえはミルフィーユ』は、Pony Canyonと山中拓也によるアカペラ音楽メディアミックス企画として、2022年4月に始動した。2023年6月17日の初イベントでアニメ化が発表され、TVアニメは2025年7月17日から9月18日まで放送された。全10話である。
つまり、うたミルは、主要な声優音楽IPやキャラクター音楽IPの蓄積がかなり見えた後に出てきている。
バンドリはすでにあった。Poppin’Partyは2015年から動いているし、TVアニメ1期は2017年である。D4DJ First Mixも2020年から2021年にかけて放送されている。ウマ娘は2016年から企画として動き、2021年にゲームとアニメ2期で爆発した。アイマスシリーズの蓄積は当然あり、その後の学園アイドルマスターは2024年に開始した。
つまり、うたミルは何もない荒野に出てきた企画ではない。
声優が歌う。声優が踊る。声優が演奏する。キャラクターを背負ってライブに出る。リアルイベントに出る。MVに出る。配信に出る。SNSで見られる。写真で見られる。キャラクターと本人の距離を運用する。そういう市場は、すでにかなり成熟していた。
その後で、うたミルはアカペラを持ってきた。
これは、かなり正しい。
バンドリは、声優に楽器を持たせた。学マスは、アイドル育成ゲームと新人性と制作人格を重ねた。ウマ娘は、競馬史を美少女キャラクターへ転生させた。D4DJは、DJという題材をサンジゲン3Dの音楽IP文法の中で試した。
その後で、うたミルは声へ戻った。
楽器ではない。ダンスでもない。DJでもない。声だけで音楽を作る。アカペラである。
これは弱い発想ではない。むしろ、声優音楽企画としては、かなり直球である。
だからこそ、問いは厳しくなる。
なぜ、これを跳ねさせられなかったのか。
3. 声へ戻ったはずなのに、声だけには戻れない
前にぼくは、夢限大みゅーたいぷについて書いた。
そのとき、かなり嫌なことを書いた。脚を見る、と書いた。
最低である。
だが、そこから逃げても仕方がない。あのとき見ていたのは、単なる品評ではない。もちろん品評でもある。最低である。だが、それだけではない。女性声優IPが、すでに「声だけの人」ではなく、「見られる身体」を商品設計に組み込んでいることを見ていた。
声優は声を出す。演じる。歌う。だが、それだけでは済まない。配信に出る。番宣写真に出る。衣装を着る。脚を出す。あるいは脚を出さないことまで見られる。髪色を変えれば見られる。戻しても見られる。ライブで見られる。SNSで見られる。ファンとの距離感を見られる。
声優IPは、すでに総合競技になっている。
その後で、ぼくは声優をボディダブルとして考えた。
アニメには本物の身体がない。画面の中のキャラクターは、線であり、色であり、作画であり、演出であり、音響である。そこに声が入ることで、身体の内側が発生する。呼吸があるように感じられる。喉があるように感じられる。年齢があるように感じられる。体温があるように感じられる。
声優は、存在しない身体に声で身体を発生させる。
だが、その声は現実の身体から出ている。
だから市場は、その声の背後にある本人の身体を見に行く。顔を見る。年齢を見る。髪を見る。服を見る。ライブを見る。写真を見る。歌う身体を見る。踊る身体を見る。演奏する身体を見る。結婚を見る。恋愛を見る。SNSを見る。最低である。
だが、そこに市場がある。
今回のうたミルは、その後に来る。
うたミルは、声へ戻る企画だった。
楽器を持たせるのではない。バンドリのようにギターやドラムへ行くのではない。学マスのようにアイドル育成とMVへ行くのでもない。ウマ娘のように競馬史の美少女転生へ行くのでもない。アカペラである。声だけで音楽を作る。
だが、ここで問題が出る。
女性声優市場は、もう声だけへ戻れない。
うたミルは声へ戻った企画である。だが、そこにいる声優たちは、声だけの人ではない。MVで見られる。ライブで見られる。イベントで見られる。練習動画で見られる。写真で見られる。アニメの番宣で見られる。
そして、見た目も強い。
ここが面白い。いや、面白いと言うと最低である。だが、見なければならない。
うたミルは、声だけで音楽を作る企画である。にもかかわらず、そこに集められているのは、現代女性声優市場の総合競技に耐える人たちである。声がある。歌がある。演技がある。キャラクターを背負える。イベントに出られる。写真に耐える。見られる身体として成立する。
つまり、うたミルは声へ戻ったはずなのに、声だけには戻れない。
ここに、今回の問題がある。
4. アカペラは、女性声優音楽企画として正しい
アカペラという題材は、女性声優音楽企画としてかなり正しい。
声優は、声で身体を作る。アカペラは、声で音楽の身体を作る。
この対応は、かなりきれいである。
アカペラでは、楽器がない。だが、音楽はある。ベースを声で作る。リズムを声で作る。旋律を声で作る。ハーモニーを声で作る。音楽の骨格を、声だけで立ち上げる。これは、ただ歌が上手いだけでは済まない。自分の声がどの位置にいるのか、他の声とどう重なるのか、どこで引き、どこで前に出るのかを分かっていなければならない。
声優の仕事も似ている。
声優は、ただ台詞を読む人ではない。キャラクターの身体を声で立ち上げる。年齢を作る。距離を作る。呼吸を作る。感情の発生点を作る。画面の中には本当の喉も肺も腹もない。だが、声が入ることで、そこに身体があるように感じられる。
ならば、声優がアカペラをやることには、かなり強い筋がある。
声優は、声で存在しない身体を作る。アカペラは、声で存在しない楽器を作る。声優は、キャラクターの身体を声で立ち上げる。アカペラは、音楽の身体を声で立ち上げる。
だから、うたミルは正しい。
これは大事である。
うたミルは、バンドリより負荷が弱いからダメ、という話ではない。アカペラにはアカペラの負荷がある。楽器を持たないから楽なのではない。むしろ、声だけで全部を背負う。音程がずれれば見える。和声が濁れば見える。リズムが揺れれば見える。ブレスが合わなければ見える。キャラクター声を維持しながら音楽を成立させる必要もある。
声優がアカペラをやる。
これは、企画としてはかなり強い。
だから、残念なのだ。
正しい題材を選んでいる。声優の職能にも近い。音楽的負荷もある。にもかかわらず、現時点では、他のIPと戦えるスタイルになっていない。
5. 負荷はあった。練習もあった。専門家もいた
うたミルには負荷があった。
ここも、きちんと押さえておきたい。
「声優がアカペラをやる」と聞くと、バンドリのように楽器を練習するわけではないから、負荷が軽いように見えるかもしれない。だが、それは違う。
アカペラは難しい。
一人で歌うのとは違う。合唱とも違う。声だけでベース、リズム、ハーモニー、旋律を分担する。他人の声を聴きながら、自分の位置を保つ。音程を取る。リズムを合わせる。息を合わせる。しかも、うたミルはキャラクターIPである。歌えばよいだけではない。キャラクターとしてそこにいなければならない。
練習風景もあった。専門家のディレクションもあった。アカペラの先生がいて、声の重ね方、響かせ方、合わせ方を見ている。そこには、ちゃんと訓練がある。
花井美春の配置も面白い。
花井美春は、歌える人である。民謡の実績もある。普通に歌わせてもよかったはずである。だが、うたミルではボイスパーカッションへ挑戦させる。これは、かなり攻めている。歌える人を、ただ歌える場所に置くのではない。声だけでリズムを作る側へ回す。
これは、企画としては面白い。
だから、うたミルは楽をしていない。
問題は、負荷の有無ではない。努力の有無でもない。練習しているかどうかでもない。むしろ、努力はある。負荷もある。練習もある。技術もある。
問題は、その努力が物語になっていないことである。
バンドリでは、声優が楽器を弾くこと自体が見える負荷になる。ギターを持つ。ドラムを叩く。指が動く。身体が動く。汗が出る。リズムが崩れれば分かる。ライブで一発で見える。
アカペラの負荷は、もっと内側に入りやすい。
音程が合う。ハーモニーがきれい。リズムが支えられている。すごい。だが、そのすごさは、観客に一瞬で伝わる事件になりにくい。ここに、うたミルの難しさがある。
負荷はある。だが、見える事件になりにくい。
だからこそ、それを物語化しなければならなかった。
声優が、声だけで音楽の身体を作る。これは、本来ならかなり強い中心神話になりうる。だが、うたミルはそこまで言い切れていないように見える。
6. キャストは強い――ウマ娘にも、ブルアカにも、他IPにも接続する
うたミルのキャストは強い。
これは、きちんと言っておく必要がある。
高校生側には、綾瀬未来、夏吉ゆうこ、須藤叶希、松岡美里、花井美春、相川遥花がいる。Parabola側には、小泉萌香、亜咲花、東山奈央、青山吉能、KIYOZOがいる。
弱いわけがない。
しかも、うたミルの面白いところは、ウマ娘やブルアカや他IPとの接続で見ると、さらに強く見えることである。
夏吉ゆうこは、ウマ娘ではシュヴァルグランであり、ブルアカでは杏山カズサである。これは強い。カズサは、ブルアカの中でもかなり声の身体が効いているキャラクターである。気の強さ、過去の荒さ、今の距離感、甘さと警戒心の混ざり方が、声で立っている。夏吉ゆうこは、うたミルにいる「歌える声優」の一人で終わらない。
松岡美里は、ウマ娘ではタニノギムレットである。あのキャラクターは、かなり特殊な芝居を要求する。普通にやれば滑る。格好よさ、芝居がかった言葉、過剰さ、痛さ、それでも成立するキャラクターの圧が必要になる。松岡美里は、そこを成立させている。
花井美春は、ウマ娘ではツインターボである。ツインターボは、かわいさと勢いだけではない。逃げる身体、負ける身体、それでも前へ行く身体である。声が、そのキャラクターの運動性を作っている。
須藤叶希は、ウマ娘ではワンダーアキュートである。おばあちゃん系ウマ娘という、かなり難しい位置を成立させている。普通にやれば、ただのネタになる。だが、ワンダーアキュートには柔らかさ、年齢感、包容力、妙な色気、そして競走馬としての芯がある。そこを声で作っている。
Parabola側を見ると、さらに強い。
東山奈央は、ウマ娘ではメジロラモーヌであり、ブルアカでは聖園ミカである。
ミカである。
これは強すぎる。
聖園ミカは、ブルアカの中でもかなり重いキャラクターである。明るさ、暴力性、罪、孤独、救済への届かなさ、どうしようもない子どもっぽさと強さが同居している。あれは、ただかわいい声では成立しない。ミカの声は、キャラクターの身体だけでなく、物語上の傷まで背負っている。
青山吉能は、ウマ娘ではツルマルツヨシであり、『ぼっち・ざ・ろっく!』では後藤ひとりであり、ブルアカでは朱城ルミでもある。
ルミについても言っておきたい。
朱城ルミは、山海経高級中学校「玄武商会」の会長であり、生徒会的な役割を持つ「玄龍門」の門主様キサキと対になる形で描かれる重要人物である。早口で言っている。だが、ここは大事である。山海経まわりの今後を考えるなら、ルミは単なるサブキャラではない。キサキとの対置を含めて、かなり楽しみな位置にいる。
もちろん、青山吉能の一般的な代表は、ぼっちちゃんだろう。そこは大きい。だが、ぼくの参照軸ではブルアカも重要である。うたミルのParabola側には、そういう声優がいる。
これは、かなり強い。
つまり、うたミルは「声がきれいな人たちを集めました」では終わらない。ウマ娘でブランド化した声優がいる。ブルアカでキャラクターの重さを背負っている声優がいる。ぼざろのような別IPで強烈に立っている声優もいる。歌える。演じられる。キャラクターを背負える。見られる身体としても成立する。
人材は強い。
だからこそ、残念なのである。
7. Parabola「勇者」は、強い。だからこそ残念である
Parabola「勇者 -アカペラアレンジver.-」も見ておきたい。
これも、かなり強い。
Parabolaは、うたミルの中で大学生側の上位グループとして置かれている。高校生側のテトテに対して、より完成された、強い存在として見える。実際、キャストも強い。小泉萌香、亜咲花、東山奈央、青山吉能、KIYOZO。これで弱いわけがない。
「勇者」は、YOASOBIの曲として非常に現代的で、アニメ文脈とも強く結びつく曲である。これをParabolaがアカペラでやる。そこには、単なるカバー以上の意味がある。大学生側の強者感を見せるにはかなり分かりやすい。
さらに、ボイスパーカッションの本職が入ることで、アカペラの「芸」としての分かりやすさも出る。声だけでここまで作れる、という見え方がする。もちろん、エフェクトや編集の問題はあるだろう。だが、それを差し引いても、完成度は高い。
だから、うたミルには燃料がなかったわけではない。
高校生側だけではない。上位グループもある。実力派もいる。声優ファンが反応できる名前もある。アカペラとしての分かりやすい強さもある。
それでも、大きな物語になっていない。
ここが残念なのである。
Parabolaがいるなら、物語上はかなり分かりやすい構造を作れる。高校生側がいて、大学生側の強者がいる。未熟な声があり、完成された声がある。憧れ、距離、敗北、追いつけなさ、声の重なり、グループとしての成熟。いくらでも物語にできる。
だが、現時点でそれがIP全体の中心神話になっているかというと、かなり弱い。
強い部品はある。
しかし、部品が強いことと、スタイルが立つことは違う。
8. バンドリは、見られる身体と鳴らす身体をスタイルにした
ここで、バンドリを見る。
バンドリは、声優が本当にバンドをやるというスタイルを立てた。
これは強い。
もちろん、初期バンドリにぼくはそこまで乗れなかった。Poppin’Partyの物語に最初から深くはまったわけではない。だが、それでも企画として何をやろうとしているかは分かる。声優がキャラクターを演じるだけではない。実際に楽器を持つ。ステージに立つ。演奏する。キャラクターの身体を、声優本人の身体が現実側で引き受ける。
愛美のギターがある。
大橋彩香のドラムがある。
大橋彩香のドラムである。
大事なことなので、また書いてしまう。最低である。だが、ここは重要である。声優がバンドをやります、という企画において、ドラムは逃げ場がない。リズムが崩れればバンド全体が崩れる。ライブでは身体も見える。腕も脚も体幹も見える。汗も見える。姿勢も見える。しかも、大橋彩香は声優としても強く、歌えて、見られる身体としても成立している。
これは、かなり強いスタイルである。
MyGO!!!!!では、羊宮妃那が高松燈を成立させた。あの声、あの間、あの発語の詰まり、あの叫びがなければ、燈は成立しない。さらに林鼓子が椎名立希を演じ、ドラムも背負う。演技と演奏が同時に効いている。
Ave Mujicaでは、佐々木李子の歌が三角初華/Dolorisに必要だった。高尾奏音は豊川祥子/Oblivionisとして声優力とピアノを背負う。米澤茜はドラムを背負う。必要なところに本物を置いている。
バンドリは、見られる身体と鳴らす身体を接続した。
これがスタイルである。
D4DJも、このブシロード/サンジゲンの音楽IP実験の別ルートとして置ける。D4DJ First Mixについては前に書いたので、ここでは繰り返さない。
DJという題材は、サンジゲン3Dの音楽アニメ文法を試すうえで重要だった。ただし、あの時点ではモブやクラウド処理はまだ粗かった。DJにとって本来重要なフロアの高まりを、画面が十分に担えていたとは言いにくい。そこは後のMyGO!!!!!やAve Mujicaで洗練された。個々の観客を無理に描くのではなく、クラウド処理そのものが画面設計として上手くなった。
だから、ブシロードの強さは、単に一つの作品が当たったことではない。
バンドリがあり、D4DJがあり、MyGO!!!!!があり、Ave Mujicaがある。その中で、音楽IPをどういうスタイルで立ち上げるかを試してきた。全部が成功したわけではない。だが、試行錯誤の履歴がある。
うたミルにも、鳴らす身体はある。
ただし、楽器ではなく声で鳴らす。
ここが面白い。
だが、声で鳴らす身体を、バンドリのようにスタイルとして名乗り切れているかというと、弱い。声優がアカペラをやる。これは素材としては正しい。だが、素材の説明で止まっているように見える。
9. 学マスは、蓄積を新人性と制作人格へ変換した
学園アイドルマスターも見る。
時系列だけで言えば、学マスはうたミルより後である。サービス開始は2024年で、うたミルの企画始動より後だ。だから、うたミルが学マスを見て企画されたという話ではない。
だが、アイマスシリーズの蓄積は当然にある。
アイマスは、キャラクターと声優本人を接続する市場を長く作ってきた。ライブがあり、番組があり、ラジオがあり、キャラクターと声優の距離感がある。声優がキャラクターの現実側身体として立つ構造を、かなり長い時間をかけて制度化してきた。
学マスは、その蓄積を新しく使った。
初星学園がある。問題児アイドルがいる。ほぼ新人のキャストがいる。伏見つかさがいる。小美野日出文元Pの初期発信がある。キャラクターの問題性、育成ゲームとしての手触り、楽曲、MV、公式番組、制作側の語りが、かなり早い段階で一つの方向を向いていた。
つまり、学マスは「新しいアイマスである」と名乗れた。
ここが大きい。
声優の新人性も、IP立ち上げの物語に組み込まれていた。キャラクターがまだ未完成であることと、声優がこれから見られていくことと、プレイヤーがプロデュースすることが重なっていた。これはかなり強い。声優を、ただキャラクターの声として起用するだけではない。IPを一緒に立ち上げる人間として見せる。
うたミルは、ここが弱い。
もちろん、うたミルにも新人はいる。綾瀬未来や相川遥花のように、これから見られていく人もいる。だが、全体としては、夏吉ゆうこ、松岡美里、花井美春、須藤叶希、東山奈央、青山吉能、亜咲花、小泉萌香といった、すでに別IPで見えている人たちの強さがかなりある。
これは悪いことではない。
むしろ強い。
だが、その強さは、学マスのような「新人IP立ち上げ神話」にはなりにくい。歌える声優を集めました。アカペラをやります。もちろん、それは正しい。だが、制作人格や新人性や育成構造と結びついて、「このIPを今一緒に立ち上げている」という感覚になっているかというと、弱い。
学マスは、蓄積を新人性と制作人格へ変換した。
うたミルは、強い声優陣をアカペラへ集めた。
この差は大きい。
10. ウマ娘声優は、ブランド化しながらコモディティ化している
ウマ娘についても触れなければならない。
ウマ娘は、艦これ以後の美少女転生ものの巨大成功例である。
艦これが軍艦を美少女化した。ウマ娘は競走馬を美少女化した。何番煎じかは知らない。だが、当たった。まぐれ当たりと言うと乱暴だが、少なくとも、企画としての必然性だけで説明できるものではないと思う。
もちろん、ウマ娘には強い部品があった。競馬史という外部原作がある。史実のレースがある。馬名がある。血統がある。ドラマがある。敗北がある。復活がある。ライバル関係がある。ゲームがある。ライブがある。キャラクターソングがある。ぱかチューブっ!もあった。
アニメ2期は、かなり成功した。あれは、トウカイテイオーとメジロマックイーンを軸に、競馬史を美少女スポ根へ変換することに成功していた。うまゆるも好きである。「うまゆるラップでプチョヘンザ」は名作である。
短尺でキャラ芸と音楽ネタを圧縮している。ROAD TO THE TOPも、新時代の扉も、それぞれ成功している。
だが、それはMyGO!!!!!やAve Mujicaのような必然とは少し違う。
ウマ娘は、外部原作の燃料が強すぎる。題材、尺、スタッフ、キャラクター、タイミングが噛み合えば、奇跡のように強くなる。だが、企画全体としてのスタイルが必然的にそこへ向かっているというより、競馬史という巨大な素材があり、それを個別に上手く料理できたときだけ跳ねる。そう見える。
そして、ここで声優市場の問題が出る。
ウマ娘声優はブランド化した。
ウマ娘に出ている。これは看板になる。ライブに出る。イベントに出る。キャラソンを歌う。ゲーム内で声を出す。キャラクターの現実側身体として見られる。ボディダブル論で書いた構造は、ここでもかなり露骨に出る。
だが、同時にコモディティ化もしているのではないか。
ウマ娘はキャラクター数が多い。初期主要キャラやアニメ主役級は別として、最近のネームドキャラは、よほど重要な役でなければ新人や若手に振られることが多いように見える。もちろん、それ自体は悪くない。新人の登竜門にもなる。だが、ウマ娘に出ることが、そのまま声優本人のキャリアを安定させるわけではない。
アイネスフウジン役の交替もある。嶺内ともみは声優業を廃業し、役は長江里加に引き継がれた。もちろん、これは個別事情であって、「ウマ娘では食えないから廃業した」などとは絶対に言えない。そこまで断定するのはただのゲスである。だが、巨大IPのネームドキャラを担当していても、それだけで声優人生が保証されるわけではない、という例にはなる。
ウマ娘声優は、ブランドでありながら、コモディティでもある。
ここで、うたミルのキャストが効いてくる。
うたミルにいるのは、ただの「ウマ娘にも出ています」の声優ではない。シュヴァルグランの夏吉ゆうこ、タニノギムレットの松岡美里、ツインターボの花井美春、ワンダーアキュートの須藤叶希、メジロラモーヌの東山奈央、ツルマルツヨシの青山吉能。
ウマ娘にもいる。だが、ウマ娘だけではない。
ブルアカにもいる。ぼざろにもいる。他IPにもいる。歌える。演じられる。見られる。声優市場の総合競技に耐える。
だから、うたミルは本当に人材が弱くない。
むしろ、ウマ娘声優のブランド化とコモディティ化が進む中で、他でも通用する側の声優をかなり拾っている。ここまで揃っているなら、もっとやれたのではないか。そう思ってしまう。
11. 大衆化と事件化――紅白に出たから何なんだ
ここで、大衆化と事件化を分ける必要がある。
アカペラについて、ゴスペラーズやLittle Glee Monsterを見ると、声を積み上げる表現が大衆化できないわけではないことは分かる。歌が上手い。ハーモニーがきれい。テレビに出る。紅白にも出る。家族で見られる。NHK的にも処理できる。
そこまでは分かる。
だが、紅白に出たから何なんだ、という話でもある。
もちろん、紅白を軽く見る必要はない。前に水樹奈々について書いたとき、紅白はかなり重要な指標だった。水樹奈々は、女性声優本人の身体を、恋愛や私生活やスキャンダルの身体ではなく、歌唱力、鍛錬、ライブ、職能の身体として外へ出した。声豚共同体が誇れる形でオーバーグラウンド化した。だから、水樹奈々の紅白は意味があった。
だが、紅白に出ることそれ自体が、スタイルの勝利を意味するわけではない。
大衆化と事件化は違う。
大衆化とは、広く受け入れられることである。テレビに出る。NHKに出る。家族で見られる。健全に処理される。歌が上手いね、ハーモニーがきれいだね、と言われる。これはこれで大事である。ゴスペラーズやLittle Glee Monsterは、その意味では成功している。
だが、事件化とは別である。
事件化とは、評価軸をずらすことである。他のスタイルと衝突し、自分たちはこのやり方で勝つと名乗ることである。何を本物とし、何をフェイクと見なすのかを示すことである。
ここでRHYMESTERを出す。
ヒップホップは、最初からスタイルウォーズを引き受けている。どう名乗るか。どう立つか。どう韻を踏むか。どの言葉を使うか。誰と違うのか。何をフェイクと呼ぶのか。スタイルの差異が、そのまま表現の戦場になる。
だから、RHYMESTERが自称する “King of Stage” は、単なる人気やテレビ露出の看板ではない。自分たちはこのスタイルで場を支配する、という宣言である。
うたミルに足りなかったのは、ここだったのではないか。
アカペラは正しい。声優の職能にも近い。声だけで音楽の身体を作る。これはかなり筋がいい。だが、それを大衆化の看板にすることも、スタイルウォーズの武器として名乗ることも、現時点では十分にできていない。
Little Glee Monsterより、うたミルの方が素材としては面白いと思う。
少なくとも、ぼくにはそう見える。
LGMは、声の大衆化には成功した。だが、女性声優IP的な総合競技ではない。キャラクターを背負う身体ではない。存在しない身体に声を入れる職能でもない。アニメ、ボイスドラマ、ライブ、イベント、写真、SNS、別IP横断性をまとめて引き受ける身体でもない。
うたミルには、それがある。
声がある。演技がある。キャラクターがある。アカペラがある。MVで見られる身体がある。ウマ娘にも、ブルアカにも、他IPにも接続できる声優陣がいる。見た目も強い。総合力で見れば、うたミルの方がずっと面白い。
だからこそ、残念なのである。
大衆化ではまだ届いていない。事件化にも届いていない。だが、材料だけ見れば、可能性はある。続ければ、水樹奈々型の職能の身体として、あるいはLGM型の声の大衆化として、外へ出る可能性はある。さらに言えば、RHYMESTER型のスタイルウォーズほどではないにせよ、女性声優アカペラIPとして「このやり方で勝つ」と名乗る可能性もある。
だが、それはまだ起きていない。
12. 結論――うたミルは惜しいのではない。現時点では残念である
結論を言う。
うたミルは、惜しいのではない。
現時点では、残念である。
うたミルは早すぎなかった。むしろ、バンドリ、D4DJ、ウマ娘、アイマスの蓄積を見た後に出てきた。題材は正しかった。アカペラは、声優の職能に近い。声だけで音楽の身体を作るという発想は、女性声優音楽企画としてかなり筋がいい。
声優陣も強かった。綾瀬未来、夏吉ゆうこ、須藤叶希、松岡美里、花井美春、相川遥花。Parabola側には小泉萌香、亜咲花、東山奈央、青山吉能、KIYOZO。ウマ娘にもつながる。ブルアカにもつながる。ぼざろにもつながる。他IPを横断できる。歌える。演じられる。見られる。
練習もあった。専門家の指導もあった。花井美春のボイパ挑戦もあった。Parabola「勇者」も強かった。「飾りじゃないのよ涙は」も普通にすごかった。
つまり、材料はある。
だからこそ、残念なのである。
問題は、素材不足ではない。努力不足でもない。声優陣の弱さでもない。アカペラという題材が間違っていたわけでもない。
問題は、正しい題材を、戦えるスタイルへ変換し切れていないことにある。
うたミルは、声へ戻ろうとした。
だが、女性声優市場はもう声だけへ戻れない。
声は身体から出る。だから声優は見られる。アカペラは声だけで音楽の身体を作る。だが、その声を出す女性声優本人もまた、MVで、ライブで、写真で、イベントで見られる。声だけの企画であっても、声だけには閉じない。
ならば、そこまで含めてスタイルにしなければならない。
声優がアカペラをやる。これは素材の説明である。
声優が、声だけで音楽の身体を作り、その声を出す本人の身体まで含めて、女性声優IPの総合競技をアカペラへ変換する。ここまで言えれば、スタイルになる。
うたミルには、その可能性がある。
だが、現時点では、そこまで届いていない。
だから、残念なのである。
ただし、終わったとは思っていない。
続ければ、まだ分からない。人材のパワーはある。題材の筋もいい。大衆化の道もある。事件化の道も、まだ完全には閉じていない。水樹奈々型の職能の身体として外へ出ることも、ゴスペラーズやLGM型の声の大衆化へ行くことも、あるいは女性声優アカペラIPとして独自のスタイルを名乗ることも、まだ可能性としては残っている。
だが、現時点では、残念である。
アカペラは正しい。
声優陣も強い。
だからこそ、うたごえはミルフィーユがそれを戦えるスタイルにできていないことが、あまりにも残念なのである。
スタイルを磨け。
Word up.
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければチップお願いします。AI批評の各種経費に役立てます。