声優はアニメにおけるボディダブルである――本物の身体がない場所に身体を発生させる仕事と、その市場について

All eyes on (女性)声優


1 『π』論から『ブラック・スワン』へ――実写映画は本物の身体へ戻ってしまう

前にぼくは、ダーレン・アロノフスキーの『π』を、『ブラック・スワン』、今敏、押井守を経由して読み直した。

そこで問題にしたのは、アロノフスキーが「人の心の光」をどう反転させ、どう身体へ落とし込むかだった。『π』では数式と妄想が身体を侵食し、『ブラック・スワン』ではバレエと狂気が身体を侵食する。頭の中のものが、最後には肉体へ返ってくる。そこにアロノフスキーの強さがある。

だが、同時にそこには実写映画の限界もある。実写映画は、どれほど虚構を組み立てても、最終的には俳優の身体へ戻ってしまう。画面に映っているのは役である。しかし、それは同時に俳優でもある。ニナであると同時にナタリー・ポートマンである。バレリーナであると同時に、バレエをどこまで踊ったのかを問われる実在の女優の身体である。

『ブラック・スワン』をめぐって、ナタリー・ポートマンがどこまで自分で踊ったのか、サラ・レーンというダンサーの身体がどこまで使われたのかが問題化したことは、実写映画の制度をかなり露骨に示していた。観客はニナの狂気を見ている。だが同時に、ナタリー・ポートマンの身体を見ている。さらに、その身体が本当に踊っていたのか、それとも別の身体に代替されていたのかを気にする。つまり、虚構の身体を見ていたはずの視線は、すぐに実在の身体へ戻ってしまう。

ここで誤解してはいけないのは、ぼくが「本物の身体」を賛美しているわけではない、ということだ。むしろ逆である。本物の身体を持っていること、本当に経験したこと、当事者であること、それ自体に過剰な価値を置く考え方を、ぼくはかなり疑っている。戦争を語るには戦争を体験していなければならない。沖縄を語るには沖縄の当事者でなければならない。広島や長崎を語るには被爆者でなければならない。そういう言い方は、証言の価値を守っているようでいて、しばしば表現や解釈の自由を狭める。当事者の証言は重要である。だが、当事者性は作品の価値を自動的に保証しないし、非当事者の表現を自動的に禁じる権利にもならない。

身体も同じである。本当に踊ったから偉いわけではない。本当に狂ったから偉いわけでもない。本当に傷ついたから芸術になるわけでもない。実写映画において重要なのは、「本物の身体」が価値の源泉だからではない。そうではなく、実写映画という制度が、どうしても観客の視線を俳優の身体へ引き戻してしまう、ということである。

俳優は役を演じる。だが、俳優の身体は消えない。声、顔、皮膚、筋肉、年齢、性別、骨格、歩き方、癖、過去の出演作、ゴシップ、インタビュー、私生活。そうしたものが、役の身体の奥に残り続ける。だからスターという制度が成立する。だからキャスティングが意味を持つ。だからスキャンダルが作品鑑賞に干渉する。だから観客は、役を見ているようで、役者を見ている。

『ブラック・スワン』におけるボディダブル問題は、その意味で、単なる制作上のトリックの問題ではなかった。それは、実写映画がどれほど虚構を高めても、最後には実在の身体へ戻ってしまうことの露呈だった。ニナの身体は、ナタリー・ポートマンの身体でなければならない。だが、ナタリー・ポートマンの身体だけでは成立しない。そこにサラ・レーンの身体が入る。すると観客は、ニナではなく、ナタリー・ポートマンとサラ・レーンの身体の配分を見始める。虚構は、身体の所有権の問題へ引き戻される。

実写映画は、身体から逃げられない。

だからこそ、次に問題になるのはアニメである。アニメには、最初から本物の身体がない。ナタリー・ポートマンの身体も、サラ・レーンの身体もない。そこにあるのは、線であり、色であり、動きであり、声であり、編集であり、音響である。ならば、アニメにおける身体とは何なのか。実写映画でボディダブルが問題になるなら、アニメにおけるボディダブルとは何なのか。

その問いへ行く前に、まずは実写映画の側で、ボディダブルという制度そのものを見ておきたい。

2 その名も『ボディ・ダブル』――デ・パルマが近づいた場所

ボディダブルとは、文字通り、身体の代替である。俳優の身体の代わりに、別の身体が画面に置かれる。危険なスタント、性的な露出、身体能力を要する場面、あるいは俳優本人にはできない動作。そこに別人の身体が入り、編集と撮影によって、あたかも同一人物の身体であるかのように見せられる。
この制度は、実写映画のかなり根本的な部分に触れている。なぜなら、映画の観客は、画面に映っている身体を信じてしまうからだ。顔がつながり、衣装がつながり、カットがつながり、物語がつながれば、観客は別人の身体を同一人物の身体として受け入れる。映画は、身体を連続させることで、人格を連続させる。

ブライアン・デ・パルマが『ボディ・ダブル』という題名の映画を撮ったことは、いま見てもかなり直截である。デ・パルマは、ヒッチコック以後の覗き、欲望、替え玉、女の身体、映画を見る視線を、ほとんど露悪的に扱った監督だった。見ることは欲望であり、映画は覗きであり、女の身体は視線によって構成される。『ボディ・ダブル』という題名は、その構造を隠していない。映画は身体を見せる。だが、その身体は本当にその人の身体なのか。観客が欲望しているのは誰の身体なのか。そもそも、観客は何を見ているつもりなのか。

デ・パルマは、かなり近くまで行っている。映画が女の身体を作ること。観客の欲望が、その身体を本物として見たがること。だが、その本物らしさが、実は代替、偽装、編集、演出によって作られていること。ボディダブルとは、その意味で、映画の嘘を支える制度であり、同時に映画の嘘を暴いてしまう制度でもある。

しかし、デ・パルマもまた、実写映画の内側にいる。そこでは身体は、最初から存在している。代替されるにせよ、覗かれるにせよ、欲望されるにせよ、撮影される身体がある。俳優の身体があり、ボディダブルの身体があり、カメラがあり、観客の視線がある。問題は、どの身体がどの身体の代わりをしているのか、どの身体が本物として提示されているのか、という配分にある。

つまり、実写映画におけるボディダブルは、すでにある身体の複製であり、代替であり、すり替えである。ナタリー・ポートマンの身体があり、サラ・レーンの身体がある。俳優の身体があり、スタントの身体がある。スターの身体があり、無名の身体がある。片方の身体が、もう片方の身体として画面に出る。観客はそれを同一人物の身体として受け取る。ここに実写映画の魔術がある。

だが、アニメでは事情が違う。

アニメには、代替されるべき俳優の身体がない。最初にあるのは、実在の身体ではない。線で描かれた身体である。記号としての顔である。演出された動きである。まだ肉体ではないもの、まだ声を持たないもの、まだ呼吸していないものが、画面の上に置かれている。実写映画のボディダブルが、すでにある身体を別の身体で代替する制度だとすれば、アニメにおけるボディダブルは、そもそも存在しない身体へ、別の現実の身体を接続する制度でなければならない。

その現実の身体とは何か。

声優である。

声優は、アニメにおけるボディダブルである。ただし、それは実写映画のボディダブルとは反対の方向を向いている。実写映画のボディダブルは、ある身体を別の身体で置き換える。アニメの声優は、まだ身体ではないものに身体を発生させる。線に呼吸を与え、記号に年齢を与え、絵に体温を与え、存在しない少女や少年や怪物や神に、現実側の身体を貸す。

だから、声優は単に声を当てているのではない。声優は、身体のない場所に身体を発生させている。

このことを考えるためには、次に日本アニメがどのように身体を線と記号へ抽象化してきたのかを見なければならない。

3 マンガは線的身体の母体であり、アニメはそこに声と運動を与える

実写映画は身体から逃げられない。では、アニメはどうか。

ここで、いきなりアニメへ行く前に、マンガを置いておく必要がある。なぜなら、「線が身体になる」という表現の自由度そのものは、アニメよりもマンガの方が高いからである。

マンガは、線だけで身体を作る。コマ割りで時間を作る。余白で沈黙を作る。擬音で音を作る。モノローグで内面を作る。デフォルメで表情を作る。現実の俳優の身体も、カメラも、実際の声も、実際の運動も必要ない。にもかかわらず、読者はそこに身体を読む。走っている身体を読む。泣いている身体を読む。黙っている身体を読む。殴られた身体、恋をしている身体、死にかけている身体を読む。

これはかなり根本的なことである。

棒人間を見れば分かる。人間は、かなり少ない線でも身体を読む。頭があり、胴があり、手足があり、少し傾いていれば、そこに走る身体や倒れる身体を読み取る。日本のマンガは、この認知能力を、子どもの落書きではなく、高度な表現体系へ押し上げた。線が身体になる。記号が表情になる。余白やコマ割りが時間になる。実在の身体を厚く再現しなくても、身体は成立する。

だから、前に書いた「うすほそ」論が先にあることは重要である。うすく、ほそく、軽く、線によって身体を成立させる。現実の肉体をそのまま厚く再現するのではなく、線へ、記号へ、余白へ、運動の暗示へ削ぎ落とす。浮世絵からマンガ、マンガからアニメへ続く線的身体の文化は、実写映画の身体とは別の身体観を持っている。

この意味では、マンガはアニメより自由である。

マンガの身体は、動かなくても動く。声がなくても喋る。音がなくても音が鳴る。読者がページをめくる速度、視線の移動、コマとコマの間の補完によって、身体も時間も空間も発生する。現実の身体からの自由という点では、マンガは徹底している。アニメよりも、むしろマンガの方が、線だけで身体を発生させる表現として先鋭的である。

だが、今回の論考はマンガ論ではない。アニメ声優論である。

理由は単純である。アニメは、その線的身体に運動と声を与えるからである。

マンガは線で身体を作る。アニメは、その線的身体を動かす。歩かせる。振り向かせる。手を伸ばさせる。髪を揺らす。まばたきをさせる。間を作る。呼吸のタイミングを作る。紙面上の線だったものが、時間の中で動く身体として受け取られる。

そして、そこに声が入る。

声が入った瞬間、線的身体のあり方は変わる。キャラクターは、ただ描かれた身体ではなく、喋る身体になる。声の高さ、息の量、発語の速度、間、震え、笑い、泣き、怒り、ためらいによって、線の身体に内側が発生する。そこに本当の喉はない。本当の肺もない。本当の胸も腹もない。だが、声によって、そこに呼吸があるように感じられる。感情が胸の奥から出ているように感じられる。

ここで、マンガとアニメの差が市場構造の差にもつながる。

国内マンガ市場は巨大である。2024年の日本国内の紙・電子を合わせたマンガ販売額は7043億円で過去最高となり、そのうちスマートフォンなどで読まれる電子コミックは5122億円を占めた。線だけで身体を発生させる文化は、いまなお巨大な市場を持っている。

しかし、アニメ市場は別の構造を持つ。ここで言う市場規模は国内マンガ販売額とは定義が違うので、単純比較はできない。だが、日本動画協会が毎年アニメ産業レポートを出しているように、アニメ産業は映像作品だけではなく、テレビ、映画、配信、ビデオ、商品化、音楽、ライブ、イベント、ゲーム、海外展開まで含む複合産業として把握される。日本動画協会系の報告をもとにした報道では、2023年のアニメ産業全体は約3.4兆円規模に達し、収益の半分以上が海外由来になったとされる。

この違いは、単なる規模の違いではない。マンガは、線的身体の自由を持つ。アニメは、その線的身体を運動させ、声によって身体化し、さらに声優本人の現実の身体を作品の外側に発生させる。そこから、キャラクターソング、ライブ、声優イベント、ラジオ、配信番組、舞台挨拶、SNS、ゲーム、グッズ、IP展開が広がる。

つまり、アニメ産業が複合産業になる一つの要因は、声優である。

声優は、作品内では、存在しないキャラクターの身体を声によって発生させる。作品外では、そのキャラクターが現実側へ出てくるための身体になる。アイマス、ウマ娘、バンドリ、学マスのようなプロジェクトでは、この構造がさらに露骨になる。キャラクターは二次元の中に閉じていない。声優という現実側アバターを持ち、歌い、踊り、イベントに出て、場合によっては演奏する。

したがって、ここで言いたいのは、マンガよりアニメの方が表現として自由だ、ということではない。むしろ逆である。線的身体の自由度としては、マンガの方が自由である。マンガは、線とコマと余白だけで身体を発生させることができる。

だが、アニメはその線的身体を、声と運動によって、より理解されやすく、より身体的に、より市場化しやすいものへ変える。マンガは線的身体の母体である。アニメは、その線的身体に声と運動を与える。声優は、その声によって、存在しない身体を身体化する。そして声優本人の身体が、アニメを複合産業へ押し広げる。

ここから、ようやく本題に入れる。

アニメには、そもそも本物の身体がない。だが、その本物の身体の不在は、声優という仕事によって埋められる。そして、その声は現実の身体から出ている。

4 アニメには、そもそも本物の身体がない

実写映画では、まず身体がある。俳優がいる。カメラの前に立つ人間がいる。その身体をどう演じさせるか、どう撮るか、どう編集するか、どう別人の身体で代替するかが問題になる。だから実写映画のボディダブルは、すでに存在する身体の代替である。

しかし、アニメでは、最初に身体がない。

もちろん、キャラクターの絵はある。設定画もある。表情集もある。作画もある。動きもある。けれど、それはまだ、実写映画における身体ではない。誰かがその身体で生きているわけではない。誰かがその顔で笑っているわけではない。誰かがその喉で喋っているわけではない。画面の中の少女は、撮影前からどこかに存在していた少女ではない。少年も、魔女も、妖精も、ロボットも、神も、最初から世界に存在していた身体ではない。

アニメの身体は、制作される身体である。

これは、アニメ表現を低く見る話ではない。むしろ、アニメの根本的な強度である。実写映画では、俳優の身体がどうしても残る。役柄をどれほど作っても、そこには俳優本人がいる。年齢も、顔も、声も、過去の役柄も、スターイメージも、私生活も残る。観客は、それを完全には忘れられない。

アニメは、その制約を持たない。

アニメのキャラクターは、俳優の身体に縛られない。老いないこともできる。永遠の少女でいることもできる。毎週別の衣装を着ることもできる。現実にはありえない髪色でいることもできる。視聴者の十年後にも、同じ年齢で現れることができる。現実の身体であればグロテスクになる等身も、線の身体なら成立する。現実の俳優であれば耐えられないほど強い感情表現も、アニメの顔なら成立する。

だからアニメは、身体の消去によって身体を拡張した。実在の身体から離れることで、身体の可能性を広げた。これは、アニメが持つ大きな自由である。

しかし、自由はそのままでは作品にならない。線だけでは、人は十分には生きない。キャラクターは、画面の中で動き、喋り、呼吸し、誰かと距離を取り、誰かへ近づき、傷つき、黙り、叫び、笑い、泣かなければならない。そこで、身体の不在を埋める複数の技術が必要になる。

作画は、身体の運動を作る。歩き方、座り方、振り返り方、手の置き方、視線の動き、肩の落ち方、髪の揺れ方。そこに身体の重さや癖が出る。

演出は、身体の時間を作る。間、沈黙、カットの長さ、視線の切り返し、近さ、遠さ、躊躇、反応の遅れ。そこに身体の心理が出る。

音響は、身体の空間を作る。足音、衣擦れ、息、環境音、残響、距離感。そこに身体の位置が出る。

そして声優は、身体の内側を作る。

声は、キャラクターの外側に貼られるものではない。声が入ることで、キャラクターには内側が発生する。画面の中に本当の喉はない。本当の肺もない。本当の胸も腹もない。だが、声によって、そこに呼吸があるように感じられる。笑いが口元からこぼれるように感じられる。怒りが腹から上がってくるように感じられる。泣き声が呼吸を乱すように感じられる。

もちろん、それは錯覚である。だが、その錯覚こそがアニメの身体を成立させている。声は、線の身体に内側を与える。

ここで、アニメと声優の関係は、単なる「絵に声を当てる」という説明を超える。声優は、キャラクターに声を付加しているだけではない。声優は、キャラクターの身体を発生させている。少なくとも、観客がキャラクターを身体として受け取るための、決定的な回路を作っている。

この回路は、非常に強い。

だから、声優の変更はしばしば大きな事件になる。キャラクターの絵は同じでも、声が変わると身体が変わる。声が変わると年齢が変わる。距離が変わる。性格が変わる。空気が変わる。キャラクターは同じ記号でありながら、同じ身体ではなくなる。つまり、声優はキャラクターの現実側身体として機能している。

ただし、ここで「現実側身体」と言うとき、それは実写映画における俳優本人の身体とは違う。

実写映画では、俳優の身体が画面に映る。観客はその顔を見る。その手を見る。その肌を見る。その歩き方を見る。俳優本人の身体は、画面内にある。
アニメでは、声優の身体は画面内にない。声優の顔も、肌も、手も、歩き方も、キャラクターの絵とは別である。声優の身体は画面の外にある。だが、声だけが画面の中へ入る。この外部の身体が、声を通じて、線の身体へ接続される。

ここに、アニメにおける身体の特異性がある。

アニメの身体は、実在の身体ではない。しかし、完全に非身体的でもない。線の身体であり、記号の身体であり、演出の身体であり、声の身体である。そして、その声は、現実の声優の身体から出ている。つまりアニメは、身体を消して成立しながら、声を通じて身体を再導入する表現なのである。

この再導入は、まず職能の問題として現れる。誰がその声を出せるのか。誰がそのキャラクターの年齢、距離、体温、感情の発生点を作れるのか。誰が、存在しない身体を身体として立ち上げられるのか。これが声優の仕事である。

ここまでは、声優一般の話である。

だが、この構造は、とくに女性声優市場で露骨に歪む。なぜなら、声は身体から出るからである。キャラクターに身体性を与える声の背後に、今度は声優本人の身体が見られ始める。声優は、存在しない身体に声で身体を与える。すると市場は、その声を出している現実の身体を見に行く。

ここから先は、女性声優史であり、声豚の市場の話である。

5 女性声優史――舞台俳優系から、声優本人の市場化へ

ここから女性声優の話へ入る。

ただし、これは「女性声優だけが増えた」という話ではない。『声優名鑑』掲載人数ベースで見ると、2001年には女性225人、男性145人、合計370人だった。それが2020年には女性907人、男性595人、合計1502人となり、2026年には女性1135人、男性702人、合計1837人に達している。女性比率は、2001年が約60.8%、2020年が約60.4%、2026年が約61.8%であり、大きくは変わっていない。つまり、女性声優だけが突出して増えたというより、女性6割・男性4割前後の比率を保ったまま、声優市場全体が巨大化したと見るべきである。

だから、男性声優側にも、市場拡大、競争激化、アイドル化、ファン共同体、結婚やスキャンダル、キャラクターとの距離をめぐる問題は当然あるのだろう。知らんけど。ここでぼくが扱うのは女性声優である。統計上、女性だけが増えたからではない。ぼくが見ている市場が女性声優市場だからである。声豚として、ぼくはそちらにしか興味がない。

その上で、女性声優史を乱暴に整理すれば、最初にあるのは「声優本人の商品化」ではない。舞台俳優、子役、吹替、ラジオドラマ、児童劇、劇団、ナレーションといった、声と演技の職能である。いまの意味での声優アイドル市場が最初からあったわけではない。むしろ声優とは、舞台や映像だけでは十分に食えない俳優、あるいは声の仕事へ流れてきた俳優たちが担っていた職能だった。黎明期の声優は、最初から「声優」という独立したアイドル商品だったのではなく、俳優業の周辺、吹替の周辺、舞台の周辺にいた人たちの仕事だった。

だから、初期の重要な女性声優を、現在のドル売り声優の感覚で見ると間違える。

島本須美は、1979年公開の『ルパン三世 カリオストロの城』でクラリスを演じ、1984年公開の『風の谷のナウシカ』でナウシカを演じた。クラリスとナウシカは、後のアニメ的少女像に大きな影響を与えたキャラクターである。クラリスは「ロリコン」的欲望の震源地の一つとしても語られてきた。だが、そこで声を担っていた島本須美は、いまの女性声優市場におけるドル売り声優ではない。舞台・俳優・吹替の流れを持つ声の職能者である。クラリスもナウシカも、素人の自然な声で成立しているのではない。声の技術によって、線の身体が少女の身体として立ち上がっている。

田中真弓も同じである。1986年公開の『天空の城ラピュタ』でパズーを演じた田中真弓は、少年身体を声で成立させた。女性が少年を演じることは、日本アニメでは当たり前のように受け取られている。しかし、よく考えれば、これはかなり特殊な技術である。実写なら、少年の身体は少年俳優の身体に縛られる。だが、アニメでは違う。女性声優が、声によって少年の身体を作る。パズーは、田中真弓の現実の身体とは別の身体として成立している。ここに、すでに声優がアニメにおけるボディダブルであることの原型がある。

日髙のり子も、この流れに入る。1985年放送開始の『タッチ』で浅倉南を演じ、1988年公開の『となりのトトロ』で草壁サツキを演じた。日髙のり子は子役・アイドル的な出自を持ちながら、国民的な少女身体を声で担った。島本須美に近いが、よりテレビ的で、より1980年代的なアイドル性も帯びている。ここではまだ、後年の声豚市場における処女性審査のようなものとは違うが、声優本人がキャラクターの清潔な少女像と結びつく回路は、すでにできている。

高山みなみも重要である。1987年放送開始の『ミスター味っ子』で味吉陽一を演じ、1989年公開の『魔女の宅急便』ではキキとウルスラを演じた。特に『魔女の宅急便』は、後で宮崎駿の俳優起用を考える上で皮肉な作品である。宮崎駿は後年、いわゆるアニメ声を嫌い、俳優や著名人の声を入れようとした。しかし『魔女の宅急便』の中核は、高山みなみの声優的職能によって成立している。キキとウルスラを演じ分けることは、本人の身体を前面に出すことではない。むしろ本人の身体を消し、複数の線的身体に別々の内側を与える仕事である。

川村万梨阿は、少し別枠で置くべきだろう。1984年放送開始の『重戦機エルガイム』でガウ・ハ・レッシィを演じたが、彼女の場合は最初から永野護とある意味でセットだった。のちに永野護と結婚し、仲人を富野由悠季夫妻が務めたという受け止められ方まで含めて、これは後年の声豚市場における「恋愛発覚炎上」とはまったく違う。声優本人が、アイドル商品として孤立して消費される以前の、作品、作家、制作現場の共同体に近い初期例外である。だから、女性声優史の中心線に置くというより、後年の声豚市場との違いを示すための例外として扱うのがよい。

この流れが変わるのが、林原めぐみ以後である。

林原めぐみは、1989年放送開始の『らんま1/2』で女らんまを演じ、1992年開始の『林原めぐみのTokyo Boogie Night』でラジオの人格を持ち、1995年放送開始の『スレイヤーズ』でリナ=インバースを演じ、同じ1995年放送開始の『新世紀エヴァンゲリオン』で綾波レイを演じた。ここで、声優は単に作品内でキャラクターに声を与えるだけではなくなる。ラジオで喋る。歌う。複数のキャラクターを横断する。ファンはキャラクターだけでなく、声優本人の声、人格、語り口、歌、メディア上の存在を追うようになる。

林原めぐみは、現在の意味での女性声優市場をかなり決定づけた人だと思う。リナ=インバースと綾波レイは、キャラクターとしてはほとんど逆である。前者は過剰に喋り、動き、怒り、食い、叫ぶ。後者は沈黙し、薄く、空白を持つ。だが、その両方を同じ声優が成立させる。声優は、本人の身体を消して複数の身体を持つ。ここでは、声優技能そのものがキャラクター横断的な魅力として見え始める。

同時に、声優本人の市場化も進む。

國府田マリ子は、1993年放送開始の『GS美神』でおキヌを演じ、1994年放送開始の『ママレード・ボーイ』で小石川光希を演じた。また、1993年開始の『ツインビーPARADISE』のようなラジオ・メディア展開も重要である。ここでは、キャラクター、ラジオ、歌、ファン共同体が結びついていく。声優本人は、作品の外側で喋り、聴かれ、親密な距離を作る存在になる。

椎名へきるも、この流れをさらに押し出した。1994年放送開始の『魔法騎士レイアース』で獅堂光を演じ、1997年には日本武道館公演を行い、『ミュージックステーション』にも出演した。声優が歌手としてステージに立ち、一般音楽番組にも出る。この時点で、声優本人はすでに作品内の声だけではなく、作品外で見られ、聴かれ、応援される存在になっている。

そして、2000年代に入ると、女性声優市場はよりはっきりとアイドル化する。

堀江由衣は、1999年にTVアニメ化された『To Heart』でマルチを演じ、2000年放送開始の『ラブひな』で成瀬川なるを演じた。田村ゆかりは、2001年放送開始の『ギャラクシーエンジェル』で蘭花を演じ、2004年放送開始の『魔法少女リリカルなのは』で高町なのはを演じた。この二人の時代になると、声優はキャラクターの声であるだけではなく、本人の歌、ライブ、ラジオ、ファンクラブ、王国、キャラクター化された本人像まで含めて消費される。

水樹奈々は、その別の成功例である。2002年放送開始の『NARUTO』で日向ヒナタを演じ、2004年放送開始の『魔法少女リリカルなのは』でフェイト・テスタロッサを演じ、2009年12月31日には第60回NHK紅白歌合戦に初出場して「深愛」を歌った。水樹奈々の場合、声優本人のオーバーグラウンド化は、恋愛や私生活の露出ではなく、歌唱力、ライブ、鍛えられた身体、ストイックな職能性を通じて行われた。これは重要である。声優本人が見られる存在になっても、処女性や清純性の幻想を大きく破壊することなく、職能と努力と歌唱の側へずらすことで、声優市場の外へ出ることができた。

釘宮理恵と能登麻美子は、声質ブランド化の強さを示す。

釘宮理恵は、2005年放送開始の『灼眼のシャナ』でシャナを演じ、2006年放送開始の『ゼロの使い魔』でルイズを演じ、2008年放送開始の『とらドラ!』で逢坂大河を演じた。いわゆるツンデレ的少女身体は、釘宮理恵の声によって強くブランド化された。キャラクターはそれぞれ別である。だが、声の背後にある「釘宮理恵性」が、複数のキャラクターを横断する。これは声優本人の顔や身体の市場化とは別に、声質そのものがキャラクター市場を横断していく例である。

能登麻美子は、2003年放送開始の『成恵の世界』で七瀬成恵を演じ、2005年放送開始の『地獄少女』で閻魔あいを演じた。能登麻美子の声も、透明さ、湿度、薄さ、幽霊的な気配を持つ声質として、キャラクターの身体を横断していく。声質が、キャラクターの存在様式を先に決めてしまうことがある。ここでも、声優は単に台詞を読む人ではない。声そのものが身体の種類を作っている。

そして平野綾で、ひとつの亀裂が走る。

平野綾は、2006年放送開始の『涼宮ハルヒの憂鬱』で涼宮ハルヒを演じた。ハルヒは、キャラクターとしても、作品としても、2000年代深夜アニメ文化の一つの中心だった。歌い、踊り、世界を改変し、メタ的な作品構造とも結びつく。平野綾は、そのハルヒの声であり、同時に、声優本人としても強い注目を浴びた。声優がキャラクターの現実側へ出てくる時代の象徴だった。
しかし、その象徴性は、2010年前後に別の形で爆発する。2010年8月4日の『グータンヌーボ』出演で、平野綾は恋愛経験や性生活をめぐる話をしたとされ、その後、バックバンドメンバーとの関係をめぐるスキャンダル語りも流通した。ここで何がどこまで事実だったのかを、裁判官のように確定することに意味はない。重要なのは、ドル売り声優が、声豚の願望とは外れる形で、自分の身体と欲望を持つ女性として見えてしまったことだ。

声豚は、そこで平野綾を“ビッチ”として烙印した。

ここで言っているのは、平野綾本人の道徳評価ではない。声豚の側の処理である。キャラクターに本物性を供給する、清潔で、若く、処女的で、ファン共同体の中に留まるはずの女性声優が、テレビで恋愛経験を語り、性的な噂を背負う女性として現れた。その瞬間、声豚の共同体は、それを単なる芸能人の私生活として受け取れなかった。キャラクターへ身体を与えていた声の供給源が、本人自身の身体と欲望を持ってしまったように見えたからである。

これが、平野綾の問題である。

つまり、女性声優史は、単に「声優が増えた」「声優がアイドル化した」という話ではない。最初にあったのは、舞台俳優、子役、吹替、ラジオドラマ、劇団、ナレーションの流れを持つ、声の職能だった。そこから、ラジオ、歌、ライブ、テレビ出演、ファンクラブ、キャラクター横断的な声質ブランド、本人の見られる身体が加わっていった。女性声優は、存在しないアニメキャラクターの身体を声で発生させる職能者でありながら、やがてその声を出している本人の身体まで市場に差し出す存在になった。

この流れの後に、2014年の『SHIROBAKO』が来る。

だから『SHIROBAKO』において、女性声優志望者がなかなかオーディションに受からない描写は、単なる職業ものの苦労話ではない。そこには、声によってアニメの身体を発生させる職能へ、現実の若い女性が入ろうとして、市場に選別されるという構造がある。

6 SHIROBAKO――アニメの非身体性を、本物の労働で支える作品

『SHIROBAKO』は2014年のテレビアニメである。

この年号は重要である。『SHIROBAKO』は、平野綾をめぐる騒動の前ではなく、後に作られている。女性声優が、もはや声だけの職能ではなく、顔、身体、年齢、キャリア、商品性、恋愛、ファン共同体、オーディション市場の中で見られる存在になった後に、『SHIROBAKO』は女性声優志望者を描いている。

もちろん、『SHIROBAKO』は、声豚市場を暴くための作品ではない。基本的には、健全な職業群像劇である。制作進行がいて、演出がいて、作画がいて、3DCGがあり、脚本があり、音響があり、監督がいて、プロデューサーがいて、納品があり、トラブルがあり、修羅場がある。アニメがどのように作られるのかを、現場の具体的な労働として描いている。

だが、だからこそ重要である。

『SHIROBAKO』は、一見するとメタフィクションではない。『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」のように、反復構造そのものを作品の前面に出すわけではない。『STEINS;GATE』のように、世界線や時間の分岐を物語の中心に置くわけでもない。今敏作品のように、虚構と現実、メディアと人格、キャラクターと本人の境界をあからさまに崩すわけでもない。

しかし、『SHIROBAKO』は、別の意味でかなりメタである。

アニメが、アニメを作る現場をアニメにしている。これは、単なる業界紹介ではない。アニメには本物の身体がない。線、色、作画、演出、音響、声、編集によって、キャラクターの身体が発生する。その非身体的な表現を、現実の人間たちの労働身体が支えている。『SHIROBAKO』は、その構造を、メタフィクションの顔をしないまま描いている。

つまり『SHIROBAKO』は、アニメの非身体性を、本物の労働で支える作品である。

作画は、線の身体を作る。制作進行は、その線を間に合わせるために走る。演出は、身体の時間を調整する。3DCGは、線的身体とは別の仕方で運動を組み立てる。音響は、空間と距離を作る。脚本は、キャラクターの行動と心理の骨格を置く。監督は、それらを一つの作品へ束ねる。どれも、身体を持たないアニメに、身体らしさを与えるための仕事である。

その中で、声優は危うい位置にいる。

なぜなら、声優だけが、線の身体へ生身の声を直接接続するからである。作画も演出も音響も、もちろん身体を作る。しかし声だけは、現実の人間の身体から出ている。喉、肺、口、呼吸、体調、訓練、年齢、性別、癖、経験。それらが、声としてキャラクターへ入る。声優は、アニメ制作の中で、存在しない身体と現実の身体をもっとも直接につなぐ職能である。

だから、『SHIROBAKO』における声優志望者の描写は重い。

オーディションに受からない。呼ばれない。選ばれない。手応えがない。作品の中では、夢を追う若者の苦労として描かれる。だが、この論考の文脈で見るなら、それはもっと胃の痛い構造である。身体を持たないアニメに身体を与える仕事へ、現実の若い女性が入ろうとしている。そして、その入口で、声、演技、年齢、印象、事務所、タイミング、キャラクターとの適合、商品性によって選別される。

『SHIROBAKO』が2014年の作品であることは、ここで効いてくる。

2014年には、女性声優市場はすでに、単なる声の職能ではなかった。林原めぐみ以後のラジオと歌、國府田マリ子や椎名へきる以後の本人市場化、堀江由衣や田村ゆかり以後のアイドル声優市場、水樹奈々のオーバーグラウンド化、そして平野綾をめぐる亀裂を通過している。女性声優は、声だけでなく、本人として見られる存在になっていた。

だから、『SHIROBAKO』の声優志望者は、ただ録音ブースへ入りたいだけの人ではない。彼女は、キャラクターに声を与える職能へ入りたい。同時に、声優本人が商品として見られる市場へ入ろうとしている。そこには、夢もある。職能への憧れもある。だが同時に、選別と競争と市場がある。

この意味で、『SHIROBAKO』は健全な作品でありながら、かなり残酷である。

アニメ業界を描くことは、夢の制作現場を描くことでもある。しかしそれは、夢を労働として描くことでもある。アニメキャラクターの身体は、自然に発生するのではない。誰かが描き、誰かが動かし、誰かが声を入れ、誰かが納品し、誰かが売る。キャラクターの身体は、労働によって作られる。
声優志望者は、その中でも、特に露出した場所にいる。

彼女は、キャラクターの身体を声で発生させたい。しかし、声は本人の身体から出る。だから、彼女自身の身体もまた、市場の視線に晒される可能性を持つ。オーディションに受かるかどうかは、声の技術だけの問題ではない。キャラクターに合うか。売れるか。イベントに出せるか。作品のイメージを背負えるか。ラジオで喋れるか。将来的に市場へ展開できるか。少なくとも、2014年以後の女性声優市場では、そうした要素が背後にある。

もちろん、『SHIROBAKO』はそこまで露悪的には描かない。そこがよいところでもある。

作品は、声優志望者を声豚市場の対象として描くのではなく、一人の職業人志望者として描く。そこには敬意がある。アニメ制作に関わるさまざまな仕事の一つとして、声優を置いている。その意味では、『SHIROBAKO』は非常にまっとうな職業アニメである。

しかし、まっとうであるからこそ、逆に見えてしまうものがある。

アニメには、本物の身体がない。その身体は、制作現場の労働によって作られる。声優は、その最後の入口で、線の身体へ声を入れる。存在しない身体に、呼吸と体温と内側を与える。だが、その声は、現実の身体から出ている。だから、声優という職能は、アニメの非身体性を支えると同時に、アニメへ現実の身体を再導入する。

『SHIROBAKO』は、この問題を、気持ち悪く描いてはいない。だが、構造としては、そこにある。

海外アニメDBなどを見ると、『SHIROBAKO』の評価は、作品の構造的な重要性に比して妙に低く見えることがある。これは作品の問題というより、鑑賞者側がこの作品をただの業界もの、あるいは地味な職業群像劇としてしか見ていない問題だろう。『SHIROBAKO』は派手なメタフィクションではない。だが、アニメという非身体的な表現を、現実の労働身体がどう支えているかを描いた作品としては、かなり重要である。

そして、その中で声優は、最も危うい接点である。

ここまでで、準備は整った。アニメには本物の身体がない。マンガから受け継いだ線的身体に、アニメは運動と声を与える。その声は、声優の現実の身体から出ている。声優は、存在しない身体に声で身体を与える仕事である。
では、その声が女性の身体から出ているとき、市場は何を見始めるのか。
ここから、いよいよ声豚の話になる。

7 声優は、存在しない身体のボディダブルである

ここで、ようやくタイトルに戻る。

声優は、アニメにおけるボディダブルである。

ただし、それは実写映画のボディダブルとは逆の方向を向いている。実写映画のボディダブルは、すでに存在する俳優本人の身体を代替する。俳優がいる。スターがいる。その身体が画面に映る。だが、危険なスタント、専門的な動作、性的な露出、身体能力を必要とする場面では、別の身体が入る。その別の身体が、編集と撮影によって、あたかも俳優本人の身体であるかのように提示される。

つまり、実写映画のボディダブルは、存在する身体の代替である。

だが、アニメには、そもそも代替されるべき俳優本人の身体がない。画面の中にいる少女も、少年も、魔女も、神も、ロボットも、怪物も、最初から現実の身体を持っているわけではない。それらは、線であり、色であり、作画であり、演出であり、音響であり、編集である。マンガから受け継いだ線的身体が、アニメでは運動を与えられ、画面の中で動き始める。

しかし、まだ声がない。

声が入ることで、線の身体は別の段階へ進む。キャラクターは、ただ動く身体ではなく、喋る身体になる。呼吸する身体になる。怒る身体になる。泣く身体になる。黙る身体になる。言い淀む身体になる。言葉を飲み込む身体になる。声優は、その存在しない身体に、声で内側を与える。

だから、アニメにおける声優は、実写映画のボディダブルとは逆である。実写のボディダブルは、ある身体を別の身体で置き換える。アニメの声優は、まだ身体ではないものに、声で身体を発生させる。そこに俳優本人の身体はない。だが、声優の声が入ることで、観客はそこに身体を受け取る。

声優は、存在しない身体のボディダブルである。

この言い方は、少し奇妙に聞こえるかもしれない。ボディダブルとは、本来、身体の代役である。ならば、存在しない身体の代役とは何なのか。だが、アニメではまさにそれが起きている。声優は、キャラクターの代わりに現実の身体を画面に出すわけではない。声優本人の顔も、手も、肌も、姿勢も、歩き方も、キャラクターの画面には映らない。だが、声だけが入る。その声によって、キャラクターには、喉があるように、息があるように、年齢があるように、体温があるように、距離があるように感じられる。

つまり、声優は、自分の身体を画面に出さないまま、キャラクターの身体を発生させる。

ここが重要である。

声優は、自分の身体を消す職能である。少なくとも、声優技能の中核はそこにある。自分の顔を出すのではない。自分の実年齢を出すのではない。自分の骨格を出すのではない。自分の生活を出すのではない。自分の身体を直接見せるのではない。声だけを通じて、自分ではない身体を作る。

だから声優は、実写俳優よりも、ある意味では自由である。

実写俳優は、どれほど演技力があっても、本人の身体を完全には消せない。顔がある。年齢がある。身長がある。骨格がある。肌がある。過去の役柄がある。スターイメージがある。どれほど役を作っても、画面に映るのは俳優本人の身体である。だから、役柄は俳優本人の身体に制約される。

声優は違う。本人の顔がどうであれ、本人の身長がどうであれ、本人の年齢がどうであれ、声によって別の身体を作ることができる。幼児も、老婆も、少年も、少女も、獣も、妖精も、エルフも、神も、ロボットも、怪物も、声で成立させられる。本人の身体から声は出ている。だが、画面に出る身体は本人の身体ではない。ここに、声優という職能の大きな自由がある。

しかし、自由はそのままでは終わらない。

なぜなら、声は身体から出るからである。

声優は自分の身体を消す。だが、その声は、現実の身体からしか出ない。喉がある。肺がある。口がある。舌がある。歯がある。鼻腔がある。姿勢がある。呼吸がある。年齢がある。性別がある。体調がある。訓練がある。生活がある。声は、抽象的な記号ではない。身体の産物である。

だから、声優は自分の身体を消す職能でありながら、同時に、自分の身体を完全には消せない職能でもある。

この矛盾が、女性声優市場で爆発する。

アニメには本物の身体がない。だから声優が声で身体を発生させる。ここまでは、表現の話である。だが、その声が現実の女性の身体から出ているとき、市場はそこで止まらない。キャラクターの声を聴いているはずの視線と耳は、声の背後にいる女性声優本人の身体を見に行く。

顔を見る。年齢を見る。服を見る。髪を見る。恋愛を見る。結婚を見る。SNSを見る。イベントでの立ち姿を見る。ライブでの身体を見る。歌う身体を見る。踊る身体を見る。場合によっては、演奏する身体を見る。声優は、存在しないキャラクターの身体を声で発生させるはずだった。だが、その瞬間、今度は声優本人の身体が市場に引きずり出される。

ここに、声豚の市場がある。

真面目なアニメ表現論をやっているつもりだった。実写映画の身体から始め、『ブラック・スワン』へ行き、ボディダブルへ行き、マンガとアニメの線的身体へ行き、『SHIROBAKO』で制作労働へ行った。ところが、掘っていくと、そこにあったのは声豚の市場だった。

ぶひぶひ言っている。

ぼくも言っている。

大橋彩香さんラヴ。七瀬つむぎさんラヴ。

まさに深淵をのぞくとき案件である。いや、5年前に『ウマ娘』でウオッカを引いたとき、ぼくはもうその深淵をのぞき込んでいたのだと思う。ウオッカを引いた。大橋彩香の声を聴いた。そこから島村卯月へ行き、山吹沙綾へ行き、バンドリへ行き、アイマスへ行き、学マスへ行き、女性声優市場へ行った。気がつけば、アニメにおける身体論を考えているつもりで、声豚の市場を見ていた。

これは最低である。

だが、最低だからこそ、見なければならない。

声優は、存在しない身体のボディダブルである。だが、その声は現実の身体から出る。そして市場は、その現実の身体を見に行く。だから女性声優は、キャラクターに身体を与えると同時に、自分自身の身体を審査される。ここから、処女性、清純性、恋愛、年齢、容姿、髪色、SNS人格、ライブ映え、身体提示、あたしこ、結婚、炎上が出てくる。

声優は、アニメの非身体性を支える職能である。

そして女性声優市場は、その非身体性が、声を通じて、現実の身体へ戻ってしまう場所である。

8 水樹奈々と平野綾――オーバーグラウンド化の成功と破裂

女性声優市場の一つの転機は、2009年末から2010年夏にある。

これは、偶然のゴシップ年表ではない。2000年代を通じて進んできた女性声優市場の拡大、本人市場化、歌手化、ライブ化、深夜アニメ化、声豚文化の成熟が、かなり分かりやすい形で二つの症例を見せた時期である。必然とまで言うと強すぎる。だが、歴史的整理としては、かなり出来すぎている。

2009年12月31日、水樹奈々は第60回NHK紅白歌合戦に初出場し、「深愛」を歌った。

そして、その八か月弱後の2010年8月4日、平野綾はフジテレビ系のトーク番組『グータンヌーボ』に出演した。そこで恋愛経験や性生活をめぐる話をしたと受け取られ、声優ファン共同体の中にあった処女性・清純性への期待が割れた。さらにその後、バックバンドメンバーとの関係をめぐるスキャンダル語りも流通し、平野綾は声豚の側から“ビッチ”として烙印されていく。

この二つは、女性声優がアニメファン共同体の外へ出るという同じ圧力の、まったく違う現れ方だった。

一方には、水樹奈々がいる。声優アーティストが、紅白へ出る。声優本人が、アニメファン共同体の外側へ出る。これは、女性声優のオーバーグラウンド化の成功例だった。

他方には、平野綾がいる。ドル売り声優が、テレビのトーク番組で恋愛経験や性的身体を匂わせるものとして受容される。そこに、のちのスキャンダル語りが重なる。これは、女性声優のオーバーグラウンド化の破裂例だった。
どちらも、女性声優本人が作品の外へ出る出来事である。だが、声豚市場はこの二つを同じようには受け取らなかった。

水樹奈々は、ストイックな芸の追求によって外へ出た。

歌う。鍛える。ライブを成立させる。声優でありながら、アニソン歌手として、ライブアーティストとして、職能の身体として外へ出る。そこにあるのは、歌唱力、努力、鍛錬、舞台上の強度である。もちろん身体はある。歌う身体がある。ステージに立つ身体がある。鍛えられた身体がある。だが、その身体は、恋愛や性生活や本人の欲望を前面化する身体ではなかった。

水樹奈々は、女性声優の身体を、職能の身体へ変換した。

だから、水樹奈々の外部化は、声豚共同体の期待を大きく壊さなかった。むしろ、共同体はそれを誇れた。自分たちの側から出た声優が、紅白まで行った。深夜アニメ、美少女アニメ、キャラクターソング、ラジオ、ライブ、アニソン文化の先に、ついに紅白がある。そう受け取れた。水樹奈々は、声豚市場とアニメファン共同体に依存しながら、その共同体が誇れる形で外へ出た。

ここが重要である。

水樹奈々は、共同体を裏切らずに外へ出た。あるいは、少なくともそう受け取られた。

平野綾は違った。

平野綾は、2006年放送開始の『涼宮ハルヒの憂鬱』で涼宮ハルヒを演じた。ハルヒというキャラクターは、2000年代深夜アニメ文化の中心の一つだった。世界を改変する少女であり、歌い、踊り、作品のメタ構造そのものとも結びつく。平野綾は、そのハルヒの声として、強烈な注目を浴びた。

ハルヒは、キャラクターとしても、声優市場としても、かなり危険な位置にいた。

キャラクターが強すぎる。声も強い。歌も踊りもある。本人も若く、見られる存在として前に出る。ここでは、キャラクターの身体と声優本人の身体が、かなり近いところまで接近する。ファンはハルヒを見ている。だが、平野綾も見ている。ハルヒの声を聴いている。だが、平野綾の声を聴いている。キャラクターの自由さ、攻撃性、欲望、自己主張が、声優本人のイメージとも接続されていく。

だからこそ、平野綾は難しかった。

平野綾は、オタク市場に依存して売れた。ハルヒの声として、深夜アニメファン共同体の中で巨大化した。だが、本人はその内側に閉じているだけの存在ではなかった。一般芸能へ出ようとする。テレビへ出る。声優共同体の外へ出る。そして、そこで恋愛経験や性生活をめぐる話をしたと受け取られる。

声豚は、そこに耐えられなかった。

ここで問題なのは、平野綾本人が実際に何をしたかを裁判官のように確定することではない。重要なのは、どう受け取られたかである。ドル売り声優が、オタク市場に依存しながら、私生活ではオタクの期待を裏切った。少なくとも、声豚にはそう見えた。キャラクターへ声を与える、清潔で、若く、処女的で、ファン共同体の内部に留まるはずの女性声優が、自分の身体と欲望を持つ女性として見えてしまった。

だから声豚は、平野綾を“ビッチ”として烙印した。

この言い方は強い。だが、ここでは必要である。平野綾がビッチだったと言っているのではない。声豚が、彼女をそう認定したのである。キャラクターに声を与える、清潔で、処女的で、ファン共同体の内部に留まるはずの女性声優が、恋愛経験を語り、性的な噂を背負う女性として現れた。その瞬間、声豚の共同体は、それを単なる芸能人の私生活として処理できなかった。
なぜなら、声優は「声だけの人」ではなかったからである。

声優は、キャラクターに身体を与える人である。キャラクターの声を供給する人である。キャラクターの本物性を支える人である。だから、その声の供給源が「汚れた」と見なされたとき、キャラクターの本物性まで汚れたように感じられる。もちろん、それは錯覚である。声優本人の恋愛経験が、過去に演じたキャラクターの価値を変えるわけではない。だが、声豚の聴取態度はそうではない。

ここで、「処女膜から声が出ている/出ていない」という最低語彙が意味を持つ。

初出を断定するつもりはない。ただ、Pixiv百科事典では「こいつ処女膜から声出てんな」が『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の台詞として立項され、その元ネタが「声優オタの最低な台詞」と説明されている。つまり、少なくとも2010年代前半には、声優オタの下劣な語彙として、マンガ内のギャグに回収できる程度には流通していたということだ。

問題は、誰が最初に言ったかではない。

問題は、その言葉が成立してしまう聴取態度である。声を、演技ではなく身体の証拠として聴く。声の奥に、性的履歴、処女性、清純性、汚れの有無を聞き取ろうとする。下劣である。だが、下劣だから切り捨てれば済む話ではない。女性声優に求められてきた本物性の気持ち悪い核が、そこには露出している。

声豚は、声を声としてだけ聴いていない。

声の背後に、身体を聴いている。顔を聴いている。年齢を聴いている。恋愛を聴いている。処女性を聴いている。清純性を聴いている。キャラクターに身体を与えた女性声優本人の身体を、声の奥から引きずり出そうとしている。

だから平野綾問題は、単なる炎上史ではない。

それは、女性声優市場における本物性審査の破裂だった。ドル売り声優が、キャラクターへ本物性を供給する声の存在から、自分の身体と欲望を持つ女性芸能人へ移ろうとした。そのとき、声豚はそれを裏切りとして受け取った。そして、“ビッチ”として烙印した。

2009年末、水樹奈々は、ストイックな芸の追求によって共同体への訴求に成功した。

2010年夏以降、平野綾は、オタク市場に依存しながら、私生活ではオタクの期待を裏切ったと受け取られた。

この二つが相次いで起きたことは、単なる偶然では済ませにくい。少なくとも、2000年代女性声優市場の到達点として整理する価値がある。女性声優は、もはや作品内の声だけではなかった。ラジオ、歌、ライブ、テレビ、雑誌、ファンクラブ、イベントを通じて、本人として外へ出ることが求められていた。問題は、その外へ出る身体が、何として見られるかだった。

水樹奈々は、職能の身体として外へ出た。

平野綾は、本人の欲望を持つ女性の身体として外へ出たと受け取られた。

この差は大きい。

どちらも、声優本人がキャラクターの外へ出る動きである。しかし、前者はオーバーグラウンド化の成功として受け取られ、後者は声豚市場における破裂として受け取られた。

ここに、女性声優市場の非対称性がある。

男性声優にも、結婚や不倫やファン共同体をめぐる炎上はあるだろう。アイドル化もあるだろう。キャラクターとの距離も問題になるだろう。だが、女性声優の場合、声の本物性が、処女性、清純性、若さ、容姿、髪色、恋愛、性的履歴へ接続されやすい。女性声優は、存在しないキャラクターの身体に声で本物性を与える。そして、その瞬間、自分自身の身体が、キャラクターの本物性を裏切っていないかどうか審査される。

これが、気持ち悪い。

だが、この気持ち悪さは、外部から笑って済むものではない。声優市場は、それによって膨らんできた。ファンは、キャラクターを追う。声を追う。中の人を追う。ラジオを聴く。ライブへ行く。写真を見る。SNSを見る。イベントへ行く。声優本人を見に行く。そこで、キャラクターの現実側身体としての声優が市場化される。

そして、この分岐の後に、女性声優市場はさらに複雑になる。

若い女性声優には、処女性、透明性、清純性、キャラクターとの一致が求められる。一方で、年齢が上がると、成熟した本人消費、身体提示、写真集、セルフプロデュース、いわゆる「あたしこ」的な振る舞いも市場に入ってくる。ここには別の歪みがある。本来、アメリカのティーンアイドルなら十代後半から二十代前半に通過するような、少女から性的商品への転換を、日本の女性声優市場では三十代以降に遅れて行うことがある。

若い間は、清純であれ、汚れるな、キャラクターを壊すな、恋愛の匂いを出すな、と求められる。三十代以降になると、今度は成熟した身体を見せることが市場になる。グラビアアイドルとは違う、声優としての身体提示である。もちろん、三十代の身体の成熟には、それはそれでよさがある。ぼくにもその価値観はある。だが、構造としてはかなり歪んでいる。若い時期の身体は隠され、守られ、清純化される。成熟した後に、遅れて性的な見られ方が許可される。

英語で言うなら、これは atashiko として説明するしかない。

Atashiko は、直訳すれば「わたしでシコれ」に近い、かなり下品な語彙である。英語版では、atashiko — a crude shorthand for “jerk off to me,” used for a mode of self-sexualizing presentation by female performers と説明することになるだろう。ただし、ここで重要なのは単なる自己性的商品化ではない。遅延である。若い時期には清純性を求め、年齢が上がってから成熟した身体提示を許可する、遅れた自己性的商品化である。英語で補うなら、delayed self-sexualization とでも言うしかない。

アニメには本物の身体がない。だから声優が、声で身体を発生させる。だが、声は身体から出る。だから市場は、その声の背後にある身体を見に行く。そして、女性声優本人の身体が、キャラクターの本物性を支えるものとして、あるいはそれを裏切るものとして審査される。

水樹奈々は、その審査を職能の身体へ逃がした。

平野綾は、その審査の前で破裂した。

そして、その後の女性声優市場では、清純性要求と成熟した身体提示が、奇妙に同居していく。

声豚は清純な声を欲しがる。

だが同時に、見られる身体も欲しがる。

この矛盾の上に、女性声優市場は膨らんでいる。

9 宮崎駿の俳優起用――本人性というノイズ

ここで、宮崎駿を置く必要がある。

なぜなら、宮崎駿は日本アニメにおいて、本物の身体、声優の身体、俳優の身体、キャラクターの身体を考える上で、非常に面倒な存在だからである。宮崎駿は、アニメによって現実の身体から自由になった人である。にもかかわらず、後年の宮崎駿は、しばしば声優を嫌い、俳優や著名人を起用する。そこでは、アニメにおける声の問題が、かなり分かりやすく歪む。

まず確認しておくべきなのは、宮崎駿の初期の成功が、いわゆる「自然な素人声」によって成立していたわけではない、ということである。

1979年公開の『ルパン三世 カリオストロの城』でクラリスを演じたのは島本須美だった。1984年公開の『風の谷のナウシカ』でナウシカを演じたのも島本須美だった。クラリスとナウシカは、後のアニメ的少女像に大きな影響を与えた。クラリスは、日本のアニメ的少女欲望、あるいはロリコン的欲望の震源地の一つとして語られてきたキャラクターでもある。そこに島本須美の声があったことは、偶然ではない。線で描かれた少女の身体に、清潔さ、弱さ、品位、気高さ、危うさを与えたのは、声優の職能である。

もちろん、宮崎駿と島本須美をめぐるミューズ的な噂や欲望の読みは、事実として断定すべき話ではない。ここで重要なのは、噂の真偽ではない。そういう読みが流通してしまう構造である。クラリス、ナウシカ、島本須美、宮崎駿、少女身体、作家の欲望。これらは、アニメにおけるキャラクターの身体と、声を与える女性声優の身体と、作家の欲望が結びついて語られやすい配置にあった。

つまり、ここでも問題は「声は身体から出る」ということである。

『カリオストロの城』のクラリスは、実在する少女ではない。『ナウシカ』のナウシカも、実在する少女ではない。どちらも、線であり、作画であり、演出であり、物語である。だが、そこに島本須美の声が入ることで、キャラクターには身体が発生する。観客は、そこに少女の呼吸を聴く。気高さを聴く。危うさを聴く。清潔さを聴く。これは、声優の仕事である。

田中真弓も同じである。1986年公開の『天空の城ラピュタ』でパズーを演じた田中真弓は、少年の身体を声で作った。実写であれば、少年の身体は少年俳優の身体に縛られる。だが、アニメでは女性声優が少年身体を作る。パズーの身体は、田中真弓本人の身体ではない。しかし、田中真弓の声がなければ、パズーの身体はあのようには成立しない。

高山みなみも重要である。1989年公開の『魔女の宅急便』で、高山みなみはキキとウルスラを演じた。キキとウルスラは同じ身体ではない。同じ年齢でも、同じ生活でも、同じ性格でもない。だが、高山みなみは、その二つの線的身体に別々の内側を与えた。これは、本人の自然な声をそのまま置いた仕事ではない。声優の技術である。自分の身体を消し、別の身体を声で発生させる仕事である。

ここまでを見る限り、宮崎駿アニメの名作は、明らかに声優の職能によって支えられている。

にもかかわらず、宮崎駿は後年、声優的な声を嫌い、俳優や著名人を起用していく。ここで起きていることは、単なるキャスティング方針の変化ではない。アニメにおける身体の作り方が変わっている。

声優は、存在しない身体に声で身体を与える。自分の本人性を消し、キャラクターの身体を立ち上げる。ところが、俳優や著名人が起用されると、その本人性が画面の外から入ってくる。キャラクターの身体を作るはずの声が、キャラクターではなく、声を出している本人を連れてきてしまう。

これがノイズである。

1988年公開の『となりのトトロ』における糸井重里は、その早い例である。糸井重里の声を聞くと、キャラクターの父親だけではなく、糸井重里本人が聞こえてしまう。もちろん、それを味として受け取ることはできるのだろう。だが、少なくともぼくにはノイズである。アニメのキャラクターの身体に入るべき声が、本人の身体を連れてくる。父親の身体ではなく、糸井重里の身体が聞こえてしまう。

1997年公開の『もののけ姫』では、その差がさらに分かりやすい。

美輪明宏はよい。西村雅彦もよい。なぜなら、彼らは俳優であり、しかも声によってキャラクターの内部に入っているからである。美輪明宏の声には、もちろん美輪明宏本人の強烈な本人性がある。だが、モロというキャラクターの異様な存在感と、その本人性が作品内で結びつく。西村雅彦も、俳優としての声と間が、キャラクターの身体を作る方向へ働いている。

石田ゆり子は違う。

石田ゆり子の声は、サンとカヤの身体を作るというより、石田ゆり子本人を連れてきてしまう。これは、美輪明宏や西村雅彦とはレベルが違う。俳優だから駄目なのではない。本人性がキャラクターの身体を作る側へ沈むか、それとも本人の身体を画面外から引きずってくるかの違いである。石田ゆり子の場合、ぼくには後者に聞こえる。キャラクターの声ではなく、石田ゆり子の声が聞こえてしまう。

2004年公開の『ハウルの動く城』における木村拓哉も同じ問題を持つ。

ハウルは、美しい男であり、スター的な男であり、見られる男である。だから木村拓哉の起用は、ある意味では分かりやすい。スターの身体を、スター的なキャラクターに重ねる。だが、それはやはりキャラクターの身体を声で発生させることとは違う。木村拓哉の声を聞くと、ハウルの身体と同時に、木村拓哉本人のスター身体が聞こえてしまう。これは、声優が自分の身体を消してキャラクターの身体を作る仕事とは逆である。本人性が強すぎる。

そして、2013年公開の『風立ちぬ』における庵野秀明である。

これは、さらに別の意味で象徴的である。庵野秀明は俳優ではない。声優でもない。アニメを作る側の人間である。その庵野秀明に、創作する男、設計する男、夢を見る男を演じさせる。ここには、ある種の「本人性の資格」がある。創作する男に、創作する男を演じさせる。作る側の人間に、作る側の人間の声を出させる。

これは、逆向きの当事者性である。

ぼくは、当事者性信仰を信用していない。何かを経験した人間だけが、それについて語れるわけではない。被害者だけが被害を語れるわけではない。戦争経験者だけが戦争を語れるわけではない。病者だけが病を語れるわけではない。もちろん、証言や経験には価値がある。だが、それは表現の独占権ではない。

庵野秀明の起用にも、それに近い気持ち悪さがある。創作する男だから、創作する男の声として本物である。そういう本人性の資格が、アニメのキャラクターに貼り付く。だが、アニメに必要なのは、本人の本物性ではない。存在しない身体を発生させる技術である。

ここで、宮崎駿の俳優起用の問題が見える。

宮崎駿は、アニメによって現実の身体から自由になった人である。線で身体を作り、運動で身体を作り、少女や少年や老婆や豚や魔女や神の身体を作った人である。にもかかわらず、声の段階で、本人性を持ち込む。俳優本人、著名人本人、スター本人、創作者本人の身体を、声として画面の外から入れてしまう。

これは、アニメの自由を狭める。

アニメには、本物の身体がない。だからこそ自由である。声優は、その自由な線的身体に、自分の身体を消しながら声で内側を与える。だが、俳優や著名人の本人性が強すぎると、声はキャラクターの身体を発生させるのではなく、本人の身体を連れてくる。

ぼくにとって、それは鑑賞上のノイズである。

糸井重里、石田ゆり子、木村拓哉、庵野秀明。これらは、それぞれ違う仕方で本人性を持ち込む。糸井重里は文化人本人として聞こえる。石田ゆり子は女優本人として聞こえる。木村拓哉はスター本人として聞こえる。庵野秀明は創作者本人として聞こえる。いずれも、キャラクターの存在しない身体を声で発生させるというより、声の背後にある本人の身体を観客に意識させる。

これに対して、島本須美、田中真弓、高山みなみは違う。

彼女たちは、声によってキャラクターの身体を作っていた。クラリス、ナウシカ、パズー、キキ、ウルスラ。それぞれの身体は、声優本人の身体ではない。しかし、声優本人の身体から出た声によって、線の身体が内側を持った。ここに、声優の仕事がある。

声優は、本人性を持ち込む人ではない。

声優は、本人性を消しながら、存在しない身体を身体化する人である。

だから、宮崎駿の俳優起用は、この論考にとって重要である。それは、声優と俳優の優劣の話ではない。アニメにおける身体の作り方の話である。アニメには本物の身体がない。その不在を、声優は技術によって埋める。だが、俳優や著名人の本人性は、その不在を埋めるのではなく、外部の本物の身体を持ち込んでしまう。

本人性は、アニメにおいて、しばしばノイズになる。

そして、その逆側に、本当に強い声優がいる。

本人の身体を消し、キャラクターの身体を発生させる声優である。声豚は、最低の市場を作る。処女性や清純性や恋愛や身体提示にぶひぶひ言う。ぼくも言う。だが、その最低さの中にも、声優技術への嗅覚はある。声豚は、声優本人の身体を見に行く。同時に、声によって別の身体が発生する瞬間にも反応する。

その意味で、次に見るべきは、種崎敦美と石上静香である。

10 ぼくたち声豚の「本物の声優」――種崎敦美と石上静香

ここまで、本物性を疑ってきた。

実写映画は、どうしても俳優本人の身体へ戻ってしまう。『ブラック・スワン』では、ナタリー・ポートマンの身体が本当に踊ったのか、ダンスダブルのサラ・レーンの身体がどこまで代替したのかが問題になった。宮崎駿の俳優起用では、俳優や著名人本人の身体が、声を通じてキャラクターへ入り込み、ノイズになる。平野綾問題では、声優本人の身体と欲望が、声豚の本物性審査の対象になった。

では、ぼくたち声豚にとって「本物の声優」とは何なのか。

それは、本人の身体を露出する人ではない。

むしろ逆である。本人の身体を消し、複数の存在しない身体を、声で立ち上げる人である。キャラクターごとに、年齢を変え、距離を変え、呼吸を変え、感情の発生点を変え、身体の重さを変える人である。声を聞いたとき、本人の顔が浮かぶのではなく、キャラクターの身体が立ち上がる。しかも、あとで同じ声優だと知って驚く。

これが、声優技能の快楽である。

ここで、種崎敦美である。

種崎敦美は、現代アニメを代表する声優の一人である。まず一般的に言えば、『葬送のフリーレン』のフリーレンがある。現代アニメの中心に置かれる作品で主演を担い、長命種の身体、千年単位の時間感覚、人間との距離のずれ、感情の立ち上がりの遅さを声で成立させた。フリーレンは若い少女のように見える。だが、声は少女の時間だけで動いていない。薄く、静かで、遠い。だが、空虚ではない。声の奥に、長い時間がある。

もう少し広い世代向けの活劇としては、『SPY×FAMILY』のアーニャがある。

アーニャは幼児身体である。舌足らずで、近く、反応が速く、思考が顔に出る。だが、ただの子ども声ではない。アーニャには読心能力がある。周囲の大人の思考が流れ込んでくる。だから、子どもの身体でありながら、世界を過剰に知ってしまう身体でもある。種崎敦美は、アーニャの可愛さだけではなく、認知の過剰さと幼児性の混線を声で成立させている。

フリーレンとアーニャだけで、種崎敦美が何をしているのかは十分に分かる。

だが、ぼくにとって、種崎敦美は何よりも百合園セイアである。

もちろん、これはぼくの観測範囲の問題である。ぼくのブルアカ愛については、これまでも何度も書いてきた。だから、ここでもブルアカを取り上げる。現代アニメの代表としてはフリーレンでよい。より広い活劇キャラクターとしてはアーニャでよい。だが、ぼくにとって、種崎敦美の決定的な位置は、やはりセイアである。

百合園セイアは、『ブルーアーカイブ』において長く声を持たないキャラクターだった。

ビジュアルがあり、設定があり、物語上の位置があり、ファンの期待があり、それでも声がなかった。トリニティ総合学園のティーパーティーの一角であり、ミカやナギサと並ぶ重要人物でありながら、長い間、声だけが空白だった。その空白によって、期待は膨らんだ。誰がセイアを演じるのか。どんな声で来るのか。どのように、長く声のなかった身体へ声が入るのか。

そこでブルアカ運営が引っ張ってきたのが、種崎敦美だった。

これは、狙い過ぎである。だが、その狙い過ぎがよい。長く声を持たないことで期待を膨らませたキャラクターに、現代アニメの代表格である種崎敦美を置く。しかもセイアは、単に声が付いたキャラクターでは終わらない。「Romantic Seaside」まで歌わせる。声の空白を引っ張り、その空白に種崎敦美を置き、さらにキャラクターソングへ接続する。この流れは、声優がキャラクターの現実側身体になる構造を、かなり露骨に見せている。


フリーレン、アーニャ、セイア。

この三つを並べると、声優が何をしているのかが分かる。声優は、本人の身体を見せているのではない。存在しない複数の身体を、声で別々に発生させている。しかも、その身体の差は、単に声色の差ではない。時間感覚、知性、距離、呼吸、感情の発生点の差である。

だから種崎敦美は、ぼくたち声豚にとって「本物の声優」である。

ここで言う本物とは、当事者性のことではない。本人が長命種だからフリーレンを演じられるわけではない。本人が幼児だからアーニャを演じられるわけではない。本人が百合園セイアのような神秘的少女だからセイアを演じられるわけでもない。そんなわけがない。ここにあるのは、本人性ではなく、技術である。本人の身体を消し、存在しない身体を声で作る技術である。

そして、この技術は、きれいな場所だけで育つわけではない。

種崎敦美については、成人向けゲームや別名義時代をめぐる話も、声優ファンの間では語られる。ただし、ここで名義や同一性を断定するつもりはない。重要なのは、誰がどの名義で何をしたかを暴くことではない。重要なのは、美少女ゲームや成人向けゲームの声優仕事が、声だけで身体性、親密さ、性を立ち上げる訓練場として機能してきたことである。

これは、女性声優市場のきれいではない地下水脈である。

声豚は清純な声を欲しがる。処女性を欲しがる。キャラクターを壊さない声を欲しがる。だが、声だけで身体性を立ち上げる技術は、しばしばもっとグレーで、もっと生々しい市場でも鍛えられてきた。美少女ゲーム、成人向けゲーム、耳元の距離、親密な呼吸、性的な台詞、身体のないキャラクターに身体を発生させる声。そこには、表のアニメ市場から見えにくい、しかし無視できない職能がある。

だから、種崎敦美をフリーレンとアーニャだけで見ると、この地下水脈が見えなくなる。

もちろん、だからといって、過去の名義を暴くことが批評なのではない。そんなものはただの下品な詮索である。ここで見るべきなのは、声優という仕事が、どれだけ声だけで身体を作る市場に支えられてきたかである。清純なキャラクターの声も、親密な距離の声も、性的な身体を立ち上げる声も、同じ「存在しない身体を声で身体化する」職能の上にある。

次に、石上静香である。

石上静香もまた、『葬送のフリーレン』と『ブルーアーカイブ』をつなぐ声優である。『葬送のフリーレン』ではラオフェンを演じ、『ブルーアーカイブ』では錠前サオリを演じている。ラオフェンとサオリは、まったく違う身体である。

ラオフェンは、軽い。素早い。身体能力がある。まだ若く、どこか素直で、戦闘能力は高いが、硬すぎない。声にも軽さがある。動ける身体の声である。強いが、重くない。若さと速度と反応の身体である。

サオリは違う。

錠前サオリは、『ブルーアーカイブ』の物語上、かなり重要なキャラクターである。アリウススクワッドを背負い、暴力と教育と支配と贖罪の線上に立つ。彼女は、ただの敵役ではない。ミカやアリウスやトリニティの物語に深く食い込み、キヴォトスにおける罪、共同体、救済、再出発の問題を背負っている。サオリは、壊れているが、壊れたまま立っているキャラクターである。

石上静香のサオリには、その重さがある。

声の位置が低い。傷がある。過去がある。責任がある。殺してきた身体、背負ってきた身体、逃げられなかった身体がある。そこには、単なるクールキャラの低い声ではない、背負ったものの重さがある。ラオフェンの軽さと、サオリの重さ。この二つを同じ声優が成立させることに、声優技能の気持ちよさがある。

しかも、ブルアカ運営はサオリを声だけで終わらせていない。

イベント「Sheside Outside」では、サオリに「Paint It Now」を歌わせている。これはかなり大きい。サオリという、物語上は重く、傷を背負い、贖罪の線上にいるキャラクターに、イベント曲を任せる。石上静香のサオリを、物語の中核に置くだけでなく、歌唱の側にも出す。これは、キャラクターの現実側身体としての声優を、かなりはっきり使っているということである。
ブルアカ運営は、このあたりが本当にうまい。


広橋涼、夏吉ゆう子、石上静香、加隈亜衣、堀江由衣、小澤亜李、種崎敦美。イベント楽曲やキャラクター歌唱の置き方を見ると、狙い過ぎだろ、と思う。だが、狙い過ぎでよい。キャラクターの物語上の重さ、声優の技術、ファン共同体の期待、楽曲展開、イベント体験を接続している。キャラクターに声を付けるだけではない。声を、歌へ、イベントへ、現実側の体験へ拡張する。これが、アニメゲーム系IPにおける声優市場の高度な運用である。
サオリに石上静香を置き、セイアに種崎敦美を置く。

この時点で、ブルアカ運営のキャスティングはかなり信用できる。もちろん、ぼくがブルアカを好きだからそう見えている面はある。観測範囲の偏りもある。だが、それを差し引いても、サオリとセイアの扱いは強い。サオリは物語上の傷と贖罪を背負い、石上静香の声で身体を持ち、さらに「Paint It Now」でイベント楽曲へ出る。セイアは長く声のなかった空白を抱え、種崎敦美の声で身体を持ち、「Romantic Seaside」で歌へ出る。

これは、声優がキャラクターの現実側身体になる構造そのものである。

ぼくたち声豚は、ここに反応する。

もちろん、声豚は最低である。顔を見る。イベントを見る。写真を見る。結婚を見る。年齢を見る。髪を見る。SNSを見る。清純性を見る。あたしこを見る。ぶひぶひ言う。ぼくも言う。新人も追っていく。最低である。

だが、それだけではない。

声豚は、声優技能にも反応している。誰が本当に声で身体を作れるのか。誰が本人の身体を消せるのか。誰が複数のキャラクターに別々の内側を与えられるのか。誰が、線の身体に呼吸と体温と距離を与えられるのか。そこへの嗅覚も、確かにある。

だから、ぼくたち声豚の「本物の声優」は、当事者性の本物ではない。

本人がキャラクターと同じ経験をしているから本物なのではない。本人の身体がキャラクターと一致しているから本物なのでもない。本人の人生がキャラクターの人生に似ているから本物なのでもない。そんな本物性は、むしろ邪魔である。本人性が強すぎれば、宮崎駿の俳優起用のようにノイズになる。

本物の声優とは、本人性を消して、存在しない身体を声で発生させる人である。

種崎敦美は、フリーレン、アーニャ、セイアを別々の身体として成立させる。石上静香は、ラオフェンとサオリを別々の身体として成立させる。そこには、本人の身体を見せる快楽とは別の快楽がある。本人が消える快楽である。声だけが残り、キャラクターの身体が立ち上がる快楽である。

そして、この快楽は、声豚市場の気持ち悪さと切り離せない。

なぜなら、声豚は、声を通じて身体を聴いているからである。下劣な方向へ行けば、処女性や恋愛や清純性を聴こうとする。まともな方向へ行けば、キャラクターの身体の立ち上がりを聴く。どちらも、声を身体の問題として聴いている点では同じである。違うのは、その聴き方の倫理と精度である。

声優は、存在しない身体のボディダブルである。

そのことを最もはっきり見せるのは、本人性を前に出す俳優起用ではない。むしろ、本人性を消し、まったく違う身体を声で立ち上げる強い声優である。種崎敦美と石上静香は、その意味で、この論考の核心にいる。

声豚は最低である。

だが、その最低さの底に、アニメの身体論の入口がある。

11 アイマス、ウマ娘、バンドリ、学マス――市場があるから人が集まる

ここまで、声優がアニメにおけるボディダブルであることを見てきた。

アニメには本物の身体がない。マンガから受け継いだ線的身体があり、そこに運動と声が入る。声優は、存在しない身体に声で身体を与える。だが、その声は現実の身体から出ている。だから、キャラクターの身体を支えるはずの声優本人の身体が、作品の外側で見られ、聴かれ、市場化される。

この構造が、最も露骨に制度化された場所がある。

アイマス、ウマ娘、バンドリ、学マスである。

ここでやっていることは、単なるキャラクター商売ではない。キャラクターを歌わせる。踊らせる。ライブに出す。ゲーム内で育成させる。CDを出す。イベントを行う。配信番組をやる。声優本人をステージに立たせる。キャラクターと声優本人の距離を、遠すぎず、近すぎず、しかし確実に接続する。
つまり、声優をキャラクターの現実側身体として運用する市場である。
アイドルマスターは、この構造をかなり早い段階で制度化した。

より具体的に言えば、2005年にアーケードゲームとして始まり、2006年前後からCD、ラジオ、ライブ、イベントを通じて、キャラクターと声優本人を現実側で接続していった。さらに2011年のTVアニメ版によって、ゲーム発のアイドルたちがアニメキャラクターとしても広く受け取られるようになる。だからアイマスは、単に「キャラクターに声が付いた」作品ではない。キャラクター、楽曲、ライブ、声優本人、ファン共同体を早い段階から一体の市場として組み上げたプロジェクトだった。

アイマスにおいて、キャラクターはゲーム内のアイドルである。だが、そのキャラクターは歌う。CDを出す。ライブをする。声優本人がステージに立ち、キャラクターの歌を歌う。ファンは、キャラクターを応援している。だが、同時に声優本人も応援している。ゲーム内のアイドルと、現実の声優ライブが重なる。

このとき、声優は単なる中の人ではない。

キャラクターの現実側身体である。

もちろん、声優本人がそのままキャラクターになるわけではない。島村卯月は大橋彩香本人ではない。伊吹翼はMachico本人ではない。最上静香は田所あずさ本人ではない。だが、ライブの場では、キャラクターの声を出す本人の身体がステージに立つ。画面の中では存在しない身体だったアイドルが、声優本人の身体を通じて、現実側へ出てくる。

この構造は、きわめて強い。

声優は、キャラクターの身体を声で発生させる。さらに、ライブでは、その声を出す本人の身体がキャラクターの現実側アバターになる。キャラクターは二次元に閉じない。声優本人の身体を通じて、ステージに立ち、歌い、踊り、観客の前に現れる。

これは、アニメにおけるボディダブルの市場化である。

ウマ娘は、この構造をさらに大規模に展開した。

ウマ娘は、2016年にプロジェクトとして始まった。だが、決定的だったのは、2021年のゲームサービス開始とテレビアニメ第2期の重なりである。単に「2016年に始まって2021年に当たった」という話ではない。プロジェクトは長く助走し、2018年から2021年にかけてはゴールドシップ、つまり上田瞳の「ぱかチューブっ!」が妙な形で接続を支えた。その上で、ゲームとアニメ第2期がほぼ同時に爆発した。

ここで重要なのは、ウマ娘が最初から、声優市場の蓄積をかなり強く使っていたことである。

大橋彩香は、アイマスでは島村卯月であり、ウマ娘ではウオッカである。Machicoは、アイマスでは伊吹翼であり、ウマ娘ではトウカイテイオーである。田所あずさは、アイマスでは最上静香であり、ウマ娘ではシンボリルドルフである。すでにアイマスで、キャラクターと声優本人をライブ市場へ接続する経験を持っていた声優たちが、ウマ娘にも配置されている。

これは偶然ではない。

市場があるから、人が集まる。人が集まるから、選抜基準が上がる。アイマスが、キャラクターと声優本人を接続する市場を作った。ウマ娘は、その蓄積を受け取り、さらに競馬、ゲーム、アニメ、ライブ、キャラクターソング、配信番組、現実の競走馬の記憶まで巻き込んで、より巨大なIPへ拡張した。

ここで、声優はただの声ではない。

大橋彩香は、島村卯月であり、ウオッカであり、山吹沙綾でもある。もちろん、キャラクターは別々である。島村卯月、ウオッカ、山吹沙綾は、同じ身体ではない。同じ物語を生きていない。同じ声の使い方でもない。だが、声優本人の身体は、それらのキャラクターを横断して市場に現れる。ファンはキャラクターを追う。だが、声優も追う。作品を横断して、声優の身体が移動する。

ぼくの場合、それが大橋彩香だった。

『ウマ娘』でウオッカを引いた。そこから大橋彩香の声を追った。島村卯月へ行き、山吹沙綾へ行き、アイマスへ行き、バンドリへ行き、女性声優市場へ行った。これは、かなり声豚的な経路である。だが、個人の趣味に見えるこの経路は、市場構造そのものでもある。IPをまたいで声優を追う。キャラクターを通じて声優へ行く。声優を通じて別のキャラクターへ行く。これが、現代の女性声優市場である。

バンドリは、この構造をさらに別の方向へ押し出した。

バンドリでは、声優が楽器を演奏する。キャラクターがバンドをやっているだけではない。声優本人が、現実のステージで演奏する。これは、アイマスやウマ娘とはまた違う身体性である。歌って踊るだけではない。楽器を持つ。練習する。演奏する。バンドとして立つ。声優本人の身体が、キャラクターの身体を現実側で担う負荷がさらに増える。

ここで、声優の仕事は総合競技になる。

声が必要である。演技が必要である。歌が必要である。ライブが必要である。場合によってはダンスが必要である。バンドリでは楽器演奏も必要である。イベントで喋る必要がある。配信番組で場を回す必要がある。SNSで適切に振る舞う必要がある。写真で見られる必要がある。衣装を着る必要がある。キャラクターを壊さず、しかし本人としても魅力を持つ必要がある。

声優とは何か。

もはや、アフレコブースで声を入れるだけの仕事ではない。存在しない身体に声で身体を与えるだけでもない。その身体を、歌へ、ライブへ、イベントへ、配信へ、SNSへ、グッズへ、写真へ、現実側の身体提示へ接続する仕事になっている。

学マスは、この構造をさらに新しい形で見せている。

『学園アイドルマスター』は、アイマスの蓄積を持ちながら、より現代的なキャラクター運用、楽曲運用、動画、SNS、ゲーム設計を使っている。キャラクターは、ゲーム内で育成されるアイドルであり、同時に楽曲とMVとライブ展開の中心でもある。声優は、そのキャラクターの声であり、歌であり、場合によっては本人としても市場に出てくる。

ここでぼくが見ているのは、七瀬つむぎである。

もちろん、新人声優を追っていくこと自体が、かなりきもい。新人も追っていく。自分で書いていて、かなりきもい。だが、このきもさを隠しても仕方がない。女性声優市場は、こうした追跡によって動いている。キャラクターを見て、声を聴き、本人を見に行く。新人を見つけ、伸び方を観測し、運営の売り出し方を見る。声豚は最低だが、市場の観測者でもある。

市場があるから人が集まる。

人が集まるから選抜基準が上がる。

アイマス、ウマ娘、バンドリ、学マスは、このことをはっきり示している。声優市場は、単に声優が増えた市場ではない。多機能化した市場である。声、演技、歌、ライブ、ダンス、演奏、イベント、ラジオ、配信、SNS、写真、キャラクター理解、ファン共同体との距離感。これらが、ひとつの職能群として要求される。

だから、現代の女性声優は強い。

もちろん、歪んでいる。処女性や清純性を求められる。恋愛を見られる。年齢を見られる。身体を見られる。あたしこを求められる。若い時期には清純性を要求され、年齢が上がると成熟した身体提示を市場化される。気持ち悪い。だが、その歪んだ市場の中で、声優本人の技術水準も上がっている。
これは、単純な搾取論だけでは片づかない。

市場がある。金がある。仕事がある。見られる場所がある。競争がある。すると、人が集まる。歌える人が来る。踊れる人が来る。演奏できる人が来る。作詞作曲できる人も来る。演技ができる人が来る。イベントで喋れる人が来る。声優は、ただ声を当てる人から、複数の身体性を運用する職能者へ変わっていく。

青木陽菜のような存在は、別途きちんと書くべきだろう。

本人が作詞作曲もする。しかも、それを商業音源にできるレベルでやる。一方で、作家性を押し出し過ぎず、外部作家も使う。自分で作れるが、自分だけで閉じない。バンドリ的な演奏身体、声優としてのキャラクター身体、アーティストとしての作家性、その全部をどう配分するか。これは、現代女性声優市場のかなり面白い問題である。ただし、ここで詳しくやると拡散する。だから、ここでは名前だけにとどめる。

いま必要なのは、構造の確認である。

マンガは、線的身体の母体である。アニメは、その線的身体に運動と声を与える。声優は、存在しない身体に声で身体を与える。アイマス、ウマ娘、バンドリ、学マスのようなプロジェクトは、その声優をキャラクターの現実側身体として市場化する。

これが、現代アニメ系IPの強さである。

そして、その強さは、気持ち悪さと切り離せない。

声優本人の身体は、キャラクターの身体を支える。声優本人の声は、キャラクターの声になる。声優本人のライブ身体は、キャラクターの現実側身体になる。声優本人のSNSや写真やイベントでの振る舞いは、キャラクターの外側に広がる市場になる。だからファンは、キャラクターを見る。声優を見る。キャラクターを通じて声優へ行き、声優を通じて別のキャラクターへ行く。

声豚は、その回路の中にいる。

ぼくも、その回路の中にいる。

だから、この論考は、アニメ表現論でありながら、声豚論でもある。実写映画の身体から始め、マンガの線的身体、アニメの非身体性、声優のボディダブル性、女性声優史、水樹奈々と平野綾、宮崎駿、種崎敦美と石上静香を経て、最後にアイマス、ウマ娘、バンドリ、学マスへ戻ってくる。

そこにあるのは、単純なキャラクター消費ではない。

身体のないキャラクターに、声で身体を与える仕事。

その声を出している本人の身体を、市場が見に行く構造。

そして、その気持ち悪さの中で成立している巨大な複合産業である。

12 結論――アニメは身体を消した。しかし声優市場が身体を呼び戻す

最初に戻ろう。

実写映画には、俳優本人の身体がある。『ブラック・スワン』の問題は、そこから出発していた。ナタリー・ポートマンの身体が本当に踊ったのか。サラ・レーンの身体がどこまで代替したのか。実写映画では、どうしても俳優本人の身体へ戻ってしまう。演技、訓練、ダンス、スタント、セックス、暴力、顔、肌、年齢、スターイメージ。どれほど虚構を作っても、そこにはカメラの前に立つ身体がある。

デ・パルマの『ボディ・ダブル』も、同じ問題の周辺にいた。覗き、欲望、代替身体、見せかけの女、映画を見る欲望。実写映画のボディダブルは、すでに存在する身体の代替である。ある身体を、別の身体が演じる。だが、身体は最初からある。

アニメは違う。

アニメには、そもそも本物の身体がない。

あるのは線である。色である。コマである。作画である。演出である。音響である。編集である。マンガから受け継いだ線的身体が、アニメでは運動を与えられ、画面の中で動く。だが、その身体は実在の俳優の身体ではない。誰かがその顔で生きていたわけではない。誰かがその喉で喋っていたわけではない。キャラクターは、最初から身体を持っているのではない。

だから、アニメは自由である。

現実の俳優の身体に縛られない。年齢に縛られない。骨格に縛られない。肌に縛られない。重力に縛られない。現実の顔に縛られない。十年後も同じ年齢でいられる。現実にはありえない髪色でいられる。少女にも、少年にも、神にも、ロボットにも、魔女にも、妖精にも、怪物にもなれる。アニメは、実在の身体から離れることで、身体の可能性を広げた。

だが、身体を消しただけでは、人は生まれない。

線の身体には、運動が必要である。間が必要である。音が必要である。声が必要である。キャラクターは、動き、振り返り、黙り、息を吸い、言い淀み、泣き、怒り、笑わなければならない。そこで声優が出てくる。

声優は、存在しない身体に声で身体を与える。

これが、この論考の中心である。

声優は、アニメにおけるボディダブルである。ただし、実写映画のボディダブルとは逆である。実写映画のボディダブルは、すでに存在する俳優本人の身体を代替する。アニメの声優は、まだ身体ではないものに、声で身体を発生させる。キャラクターの画面に声優本人の顔は映らない。手も、肌も、姿勢も、歩き方も映らない。だが、声だけが入る。その声によって、線の身体には内側が発生する。喉があるように、肺があるように、胸があるように、腹があるように、呼吸があるように感じられる。

声優は、自分の身体を消す職能である。

だが、その声は現実の身体から出ている。

ここに、アニメにおける身体の矛盾がある。

アニメは身体を消した。しかし、声を通じて身体を呼び戻す。キャラクターには本物の身体がない。だが、その声の背後には、声優本人の身体がある。だから、市場はそこへ行く。顔を見る。年齢を見る。恋愛を見る。結婚を見る。清純性を見る。処女性を見る。髪を見る。写真を見る。ライブを見る。SNSを見る。イベントを見る。声優本人の身体を、キャラクターの現実側身体として見に行く。

これが、女性声優市場の気持ち悪さである。

水樹奈々は、声優本人が外へ出る道を、職能の身体として成立させた。歌い、鍛え、ライブを成立させ、紅白へ行った。共同体はそれを誇れた。平野綾は、同じ外部化の中で、本人の身体と欲望を持つ女性として見えてしまった。声豚はそれを裏切りとして受け取り、“ビッチ”として烙印した。ここには、2000年代女性声優市場の到達点がある。声優本人が外へ出ることは避けられなかった。問題は、その身体が何として見られるかだった。

宮崎駿の俳優起用は、別の角度から同じ問題を見せる。

アニメに必要なのは、本人の本物性ではない。存在しない身体を発生させる技術である。島本須美、田中真弓、高山みなみは、キャラクターの身体を声で作った。だが、糸井重里、石田ゆり子、木村拓哉、庵野秀明のように本人性が強く入り込むと、声はキャラクターの身体を作るのではなく、本人の身体を連れてきてしまう。ぼくにとって、それはノイズである。

本物の声優とは、本人性を前に出す人ではない。

本人性を消し、存在しない身体を声で発生させる人である。

種崎敦美は、フリーレン、アーニャ、セイアを別々の身体として成立させる。石上静香は、ラオフェンとサオリを別々の身体として成立させる。そこには、当事者性の本物はない。本人が長命種だからフリーレンを演じられるわけではない。本人が幼児だからアーニャを演じられるわけではない。本人が傷を背負った兵士だからサオリを演じられるわけでもない。そこにあるのは技術である。本人の身体を消し、声で別の身体を作る技術である。

だが、その技術もまた、市場から自由ではない。

美少女ゲームや成人向けゲームのような地下水脈もある。声だけで身体性、親密さ、性を立ち上げる訓練場がある。清純な声を欲しがる声豚市場の背後に、もっとグレーで、生々しい声の仕事がある。声豚は清純な声を欲しがる。だが、その声がどこで鍛えられ、どのような市場を通ってきたのかを、見ようとしない。

そして、アイマス、ウマ娘、バンドリ、学マスがある。

そこでは、声優はキャラクターの現実側身体として制度化されている。キャラクターが歌う。声優が歌う。キャラクターがライブをする。声優がステージに立つ。キャラクターがバンドをやる。声優が楽器を演奏する。キャラクターがゲーム内で育成される。声優本人が番組やイベントやSNSで市場へ出る。声優は、存在しない身体に声を与えるだけではない。その身体を、現実側へ連れてくる。

だから、アニメ産業は複合産業になる。

マンガは、線的身体の母体である。線だけで身体を作る表現として、マンガはアニメより自由ですらある。だが、アニメはその線的身体に運動と声を与える。声優は、その声によって、存在しない身体を身体化する。そして声優本人の身体が、アニメを作品の外側へ押し広げる。キャラクターソング、ライブ、イベント、ラジオ、配信番組、ゲーム、SNS、グッズ、IP展開。声優は、アニメを複合産業へ押し広げる回路の一つである。

これは、きれいな話ではない。

声豚は気持ち悪い。声優本人の顔を見る。年齢を見る。恋愛を見る。清純性を見る。あたしこを見る。結婚を見る。新人を追う。ぼくもその中にいる。かなりきもい。だが、そのきもさを消すと、現代アニメ市場の重要な部分も見えなくなる。

声豚市場は、下劣である。

だが、そこには声優技術への嗅覚もある。

誰が本当にキャラクターの身体を作れるのか。誰が本人性を消せるのか。誰が複数の身体を声で立ち上げられるのか。誰が、線の身体に呼吸と体温と距離を与えられるのか。声豚は、最低の方向へ行けば処女性や清純性を聴こうとする。だが、まともな方向へ行けば、声によって身体が立ち上がる瞬間を聴く。

この二つは、完全には切り離せない。

なぜなら、どちらも声を身体として聴いているからである。

アニメは身体を消した。

しかし、声優市場が身体を呼び戻す。

この呼び戻しは、表現としては豊かである。声優は、存在しない身体を声で身体化する。キャラクターに内側を与える。複数の身体を作る。実写では不可能な身体の自由を支える。

同時に、この呼び戻しは、市場としては気持ち悪い。声の背後にいる本人の身体を見に行く。清純性を審査する。恋愛を監視する。年齢を見て、身体を見て、あたしこを求め、裏切りを責める。声優本人の身体は、キャラクターの現実側身体として消費される。

この両方を見る必要がある。

声優は、アニメにおけるボディダブルである。

存在しない身体の、ボディダブルである。

そして、ぼくたち声豚は、その身体のない場所に発生した身体へ、ぶひぶひ言っている。

Word up.

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