『π』は反転した「人の心の光」である――『ブラックスワン』、今敏、押井守からアロノフスキーを読み直す


1. 『ブラックスワン』からではアロノフスキーを測り損ねる

前に、「うすほそ」について書いた。

そこでぼくは、ダーレン・アロノフスキーの『ブラックスワン』を、西洋的作劇の限界を象徴する作品として扱った。

バレエという題材は、うすほそ的身体にかなり近い。長い四肢、薄い胴体、質量を削ぎ落とした身体。ナタリー・ポートマンが役作りで極限まで削った身体は、視覚的にはかなり「軽い」。だが、『ブラックスワン』はその軽さを、最終的に「白鳥から黒鳥へ」という成熟の物語へ回収してしまう。

白鳥から黒鳥へ。純粋から性的解放へ。母に管理された少女から、自己を破壊してでも芸術的完成へ到達する女へ。

これは分かりやすい。よくできてもいる。だが、ぼくには遅れて見える。

なぜか。

日本のフィクション、とくにアニメーションがすでに扱っていた問題に比べると、『ブラックスワン』はあまりにも単線的だからだ。主体が壊れる。抑圧が反転する。成熟が狂気として現れる。そして最後に、破局が芸術的完成として閉じる。

「I was perfect.」

美しい。強い。だが、逃げている。

『ブラックスワン』にも闇はある。母の管理、身体の抑圧、性的恐怖、分身、傷、変身、芸術的完全性への強迫。その闇はたしかに濃い。だが、その闇は最後に「完璧な演技」という美的完成へ逃がされる。観客は、ニナの崩壊を「芸術の完成」という物語として受け取ることができてしまう。

そこが弱い。

ただし、ここでアロノフスキーを切り捨てるのは早い。

『ブラックスワン』からアロノフスキーを見ると、彼は今敏『パーフェクトブルー』に接近しながら、それを西洋的な成熟悲劇へ戻してしまった作家に見える。だが、アロノフスキーには『π』がある。

むしろ、アロノフスキーの本質的な闇は『ブラックスワン』ではなく、『π』にあるのではないか。

今回は、その話をしたい。

2. 『パーフェクトブルー』は成熟失敗の物語ではない

『ブラックスワン』を語るとき、今敏『パーフェクトブルー』との関係は避けられない。

アロノフスキーが今敏に強く引き寄せられていたことはよく知られている。『パーフェクトブルー』の影響、あるいは少なくとも近接性は、映像レベルでもテーマレベルでも指摘されてきた。

だが、ここで大事なのは、単なる影響関係ではない。

問題は、『パーフェクトブルー』をどう読むかだ。

『パーフェクトブルー』を、アイドルから女優へ移行する女性が、成熟に失敗して壊れる話として読むことはできる。アイドルとしての純粋性を失い、女優として性的な役割を演じることを強いられ、ファンからの視線に追い詰められ、自分を保てなくなる。そういう話として読むことは、表面的には可能だ。

しかし、それでは足りない。

『パーフェクトブルー』は、単線的な成熟失敗の物語ではない。

少女から大人へ。純粋から汚れへ。アイドルから女優へ。白から黒へ。

そういう線で読んだ瞬間、『パーフェクトブルー』は『ブラックスワン』の前段階のように見えてしまう。だが、実際には逆だ。『ブラックスワン』の方が、『パーフェクトブルー』の問いを単線化してしまっている。

『パーフェクトブルー』で壊れているのは、未麻個人の心理だけではない。

アイドル未麻。女優未麻。ファンが信じる未麻。ウェブ上に書かれる未麻。ルミが演じる未麻。メディアに商品化される未麻。性的に消費される未麻。そして、観客が見ている未麻。

これらがずれていく。

誰が本物なのか。どの未麻が本物なのか。そもそも「本物の未麻」は、どこにあるのか。

ここでは、主体の本物性そのものが壊れている。

だから、ラストの「私は本物だよ」は、単純な自己回復の宣言ではない。

むしろ逆だ。

「私は本物だよ」と言わなければならない時点で、本物性はすでに壊れている。しかも、その言葉を発している未麻自身も、もはや完全には信用できない。『アクロイド殺し』の語り手がそうであるように、観客はその発話をそのまま受け取ることができない。

本物だと言っている。だが、その「私」は本当に信用できるのか。

本人が「私は本物だ」と言えば、本物性は回復されるのか。

あるいは、本物であることは、もはや本人の自己申告では保証できないのではないか。

『パーフェクトブルー』の重さはここにある。

『ブラックスワン』は、最後に「私は完璧だった」と言う。そこでは崩壊が美的完成へ回収される。『パーフェクトブルー』は、最後に「私は本物だよ」と言う。だが、その言葉は本物性を回復しない。むしろ、本物性が壊れた世界でしか発せられない、なお疑わしい自己証明として残る。

この差は大きい。

『ブラックスワン』は、闇を完成へ逃がす。

『パーフェクトブルー』は、問いを閉じない。

3. 『パーフェクトブルー』は突然生まれたわけではない――『ビューティフル・ドリーマー』という前史

ただし、『パーフェクトブルー』も突然生まれたわけではない。

日本のアニメーションには、それ以前から、モラトリアム、反復、夢、虚構、作品世界の自己言及を扱う強い流れがあった。その代表として、押井守『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を置くことができる。

『ビューティフル・ドリーマー』は、学園祭前日が永遠に繰り返される映画だ。

世界は夢化する。時間は進まない。日常は反復する。登場人物たちは成長しない。関係性も根本的には変わらない。そこにあるのは、いわゆるサザエさん時空の映画的自己意識化である。

だが、ここで重要なのは、『ビューティフル・ドリーマー』において、世界が夢化しても『うる星やつら』は本物であり続ける、という点だ。

ラムはラムである。あたるはあたるである。面堂は面堂である。しのぶはしのぶである。

世界は夢かもしれない。時間は止まっているかもしれない。学園祭前日は永遠に続くかもしれない。だが、見えているものは『うる星やつら』の本物である。作品世界の記号的同一性は壊れない。

むしろ、その壊れなさこそが『ビューティフル・ドリーマー』の強度である。

終わらない学園祭。終わらない日常。成長しないキャラクター。変化しない関係性。だが、それは単なる停滞ではない。日本の長期連載マンガやテレビアニメが持っていた、完成した状態を永続させる力が、そこでは映画の主題になっている。

『パーフェクトブルー』は、その先にある。

『ビューティフル・ドリーマー』では、夢の中でもキャラクターの本物性は保たれていた。だが『パーフェクトブルー』では、その足場が壊れる。

未麻は未麻であり続けるのか。

アイドル未麻、女優未麻、ファンの中の未麻、ウェブ上の未麻、ルミが演じる未麻、観客が見ている未麻。これらのどれが本物なのか。あるいは、どれも本物ではなく、どれも本物なのか。

『ビューティフル・ドリーマー』は、作品世界を夢化しても、キャラクターの記号的同一性を保った。

『パーフェクトブルー』は、その記号的同一性そのものを破壊した。

だから『パーフェクトブルー』は、『ビューティフル・ドリーマー』の単純な発展ではない。むしろ、サザエさん時空の強靭さを踏まえたうえで、その最後の足場を壊した作品として読める。

夢の中でもラムはラムだった。

しかし、メディアの中で未麻は未麻でいられるのか。

この問いが、『パーフェクトブルー』にはある。

4. 筒井康隆という文学的地盤

ここで、筒井康隆の名前も置いておきたい。

今敏は後に、筒井康隆『パプリカ』を映画化している。だから今敏を、単に「現実と妄想が混ざる映像作家」とだけ見るのは足りない。夢、虚構、現実、人格、メディア、欲望が相互侵入する筒井的な問題圏を、映像として処理できる作家だったと見た方がよい。

もちろん、『パーフェクトブルー』を筒井作品の直系として読む必要はない。ここで筒井を主役にするつもりもない。

ただ、補助線としてはかなり効く。

筒井康隆の文学には、現実と虚構が混ざるだけではなく、混ざったあとに人格や制度や欲望が勝手に増殖していく感覚がある。夢と現実の境界が曖昧になる、というだけなら珍しくない。だが筒井の場合、その曖昧さはしばしば、メディア、社会制度、俗悪さ、身体、暴力、言語遊戯を巻き込んでいく。

『パーフェクトブルー』の「私は本物だよ」も、その文脈に置くと、単なる自己確認ではなくなる。

本物とは何か。

本人がそう言えば本物なのか。

メディアに流通している像は偽物なのか。

ファンが信じている像は偽物なのか。

女優として演じた自分は偽物なのか。

他人が演じる自分は偽物なのか。

そもそも、人格はどこまで本人の所有物なのか。

これは、心理スリラーの問いではある。しかし同時に、虚構現実攪乱の問いでもある。自分というものが、メディアや他者の欲望や演技によって外部化され、複製され、奪われていく。そのとき「本物の私」は、どこに残るのか。

『ブラックスワン』にも自己分裂はある。

だが、『ブラックスワン』の分裂は、最終的にはニナの内部へ戻る。母、抑圧、性的恐怖、芸術的完全性、身体変容。それらは強烈だが、最後にはニナという一人の芸術家の破局へ収束する。

『パーフェクトブルー』は、そこまで親切ではない。

未麻の問題は、未麻の内部だけには戻らない。アイドル産業、メディア、ファン、ウェブ、演技、性的消費、他者の妄想。自己は、それらの外部装置に侵食されていく。

だから、『パーフェクトブルー』の問いは『ブラックスワン』より重い。

『ブラックスワン』は、闇を美的完成へ閉じる。

『パーフェクトブルー』は、本物性が壊れた世界を開いたままにする。

そして、この地点からアロノフスキーをもう一度見るなら、見るべき作品は『ブラックスワン』ではない。

『π』である。

5. 『π』は、語り得ぬものが数として出てしまう悪夢である

『π』は、アロノフスキーの長編デビュー作だ。

主人公はマックス・コーエン。数学者であり、数に取り憑かれた男である。彼は、世界の背後にある数的秩序を見ようとする。株式市場。自然。脳。宗教。神の名。宇宙の秩序。ばらばらに見えるものが、ある一つの数列へ収束するかもしれないという偏執に、彼は飲み込まれていく。

この映画は、単なる「数学に取り憑かれた男の狂気」を描いた作品ではない。

『π』が面白いのは、世界の奥にある形式を見たいという欲望を、フィクションの中で一度、本当に成立させてしまうところにある。

世界には隠されたパターンがあるのではないか。

市場の運動にも、自然の構造にも、宗教的神秘にも、身体の発作にも、同じ数的秩序が潜んでいるのではないか。

普通なら、これは妄想で終わる。世界の全体を一つの数式で掴もうとすることは、偏執であり、錯覚であり、誤ったパターン認識である。見たいものを見ているだけだ。人間の脳が、ノイズの中に秩序を幻視しているだけだ。

そう片づけることはできる。

だが、『π』はそこから一歩踏み込む。

もし、それが本当に見つかってしまったらどうなるのか。

この仮定が強い。

ここで、後期ソシュールのことを思い出してもいい。

ソシュールは近代言語学の創始者として知られている。記号、差異、体系。通常われわれが知っているソシュールは、言語を個々の語の集まりではなく、差異の体系として捉えた人である。

だが、晩年のソシュールには、アナグラム研究がある。詩の中に、隠された名前や音の反復が潜んでいるのではないか。表面上のテキストの下に、別の記号的秩序があるのではないか。そういう徴候読解である。

これは危うい。

なぜなら、記号の反復は見つけようと思えば見つかるからだ。音は似る。文字は反復する。語は響き合う。偶然の一致と構造的な必然を、どこで区別するのか。テキストの奥にある秩序を発見しているのか、それとも、発見したい秩序をテキストへ読み込んでいるだけなのか。

この危うさは、『π』にもある。

マックスは、世界を読む。株式市場を読む。自然を読む。宗教を読む。脳の発作を読む。数列を読む。世界のあちこちに現れる断片を、ひとつの秩序へつなげようとする。

それは、後期ソシュール的な徴候読解の極限でもある。

ただし、『π』は単に「読みすぎる男」の話ではない。ここが重要だ。

『π』は、読みすぎた男が、何も見つけられずに壊れる映画ではない。

むしろ逆だ。

見つけてしまう。

少なくとも、映画はそういう世界線を置く。

世界の奥にあるはずのない形式が、数として出てしまう。語り得ぬはずのものが、計算可能なものとして現れてしまう。沈黙すべきものが、出力されてしまう。

ここで、ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』が接続する。

ヴィトゲンシュタインは、『論考』で世界と言語の限界を極限まで切り詰めた。世界は事実の総体である。命題は事実の像である。語れるものは明晰に語れる。だが、倫理、美、神秘、世界の意味のようなものは、命題として語られるものではない。

そして最後に、あの有名な言葉が来る。

語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。

これは、単なる「分からないことは黙れ」ではない。語れるものを徹底的に語り、言語の限界を引いた者だけが到達する沈黙である。語れないものをポエムとして温存するのではない。語れるものの条件を極限まで詰めたうえで、語れないものを語ったふりをしないための沈黙である。

ヴィトゲンシュタインは、そこで一度閉じた。

だが、マックス・コーエンは閉じない。

沈黙しない。

語り得ぬものに、なお迫ろうとする。語れないもの、あるいは数式化し得ないはずのものを、数として掴もうとする。世界の奥にある形式を、見ようとしてしまう。

そして『π』が恐ろしいのは、彼が単に失敗するのではないところだ。

世界の究極形式など存在しない。すべてはマックスの妄想だった。そういう映画なら、話は簡単だった。

だが『π』は、そうはしない。

見つかってしまったらどうなるのか。

語り得ぬものが数として現れてしまったらどうなるのか。

それを人間が見てしまったらどうなるのか。

この問いを置く。

その先にあるのは、救済ではない。狂気である。

ここでの数式は、合理性の道具ではない。科学的理解の手段でもない。数学は、世界を明晰にするためのものではなく、見てはいけないものを可視化してしまう呪物になる。

数は、神秘を解体しない。

むしろ、神秘そのものとして現れる。

この点で、『π』は『ブラックスワン』よりもはるかに怖い。

『ブラックスワン』の闇は、最終的に主人公の心理と身体に戻る。ニナの抑圧、欲望、恐怖、芸術的強迫、母との関係、自己像の分裂。すべては強烈だが、最後には「完璧な演技」という美的完成へ閉じていく。

『π』は閉じない。

マックスが見ようとしているのは、自分の心理ではない。芸術的完成でもない。世界そのものの裏側である。

世界の側に、見てはいけない形式がある。

それを人間が見てしまう。

そのとき、人間の心は耐えられない。

『π』の狂気は、内面の崩壊ではない。世界の形式そのものに触れてしまった者の崩壊である。

だから、アロノフスキーを『ブラックスワン』だけで測ると、取り逃がす。

『ブラックスワン』は、アロノフスキーが今敏的な領域へ接近しながら、西洋的成熟悲劇へ戻ってしまった作品に見える。

だが『π』には、もっと根源的な闇がある。

世界を読むこと。

記号の奥に構造を見ようとすること。

語り得ぬものへ迫ること。

そして、それが本当に見えてしまうこと。

『π』は、その危険を描いた映画である。

6. 反転した「人の心の光」としての『π』

ここまで来ると、『π』は反転した「人の心の光」だと言える。

「人の心の光」とは、フィクションの臨界で出現するものだ。

通常の因果では届かない。政治でも、軍事でも、制度でも、身体能力でも、合理的計算でも届かない。そういう地点で、人間の意志や祈りや共同性が、一瞬だけ世界を押し返す。

アクシズショックは、その典型である。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』において、アクシズは地球へ落下しつつある。政治も軍事も技術も、決定的には間に合わない。そこで、人の意志が集まり、光が生じる。人の心の光が、落下する巨大な物体を押し返す。

もちろん、それは現実の物理ではない。

フィクションの臨界である。

だが、その臨界だからこそ、意味がある。人間が世界に対して、なお抵抗しうるという一瞬の仮構。人の心が、世界の重さを一瞬だけ押し返すという奇跡。

ただし、富野由悠季は、それで世界が救われたとは描かない。

アクシズショックがあっても、人類は変わりきらない。戦争は終わらない。誤解は続く。制度は壊れ、また作られ、また壊れる。人は愚かであり続ける。奇跡はあった。だが、奇跡は日常を恒久的に変えない。

宮崎駿も似ている。

飛翔があり、浄化があり、祈りがあり、自然との和解のような瞬間がある。だが、それで世界が完全に救われるわけではない。人はまた暮らし、働き、争い、食べ、作り、壊す。奇跡のあとに、日常が戻ってくる。

それでも生き続けること。

人の心の光は、そこまで含めて成立している。

それは救済の完成ではない。フィクションの臨界で一瞬だけ現れる、世界への抵抗である。そして、そのあとに救われきらない日常が戻ることまで含めて、人は生きる。

『π』は、その反転にある。

マックスが見るものは、人の心が世界を押し返す光ではない。

世界の側にある形式が、人間の心へ侵入してくる闇である。

人間が世界を照らすのではない。世界の奥にある数的秩序が、人間を焼く。そこには共同性もない。祈りもない。救済もない。人の意志が世界を押し返すのではなく、世界の形式が人の心を押し潰す。

アクシズショックでは、人の心の光が世界の重さに抗う。

『π』では、世界の奥にある黒い光が、人の心を焼く。

だから、これは反転した「人の心の光」である。

『ブラックスワン』にも闇はある。だが、その闇は最後に「完璧な演技」という美的完成へ逃がされる。『パーフェクトブルー』の問いは、もっと重い。そこでは、主体はメディアと視線と虚構の中で分裂し、「本物」という言葉すら信用できないものになる。

そして『π』では、その闇はさらに別の方向へ向かう。

個人心理ではない。

成熟の失敗でもない。

メディア化された自己の崩壊でもない。

世界の形式そのものが、人間にとって耐えがたいものとして現れる。

そこに、アロノフスキーの本質的な強度がある。

『ブラックスワン』は、今敏『パーフェクトブルー』に接近しながら、その問いを白鳥から黒鳥への成熟悲劇へ回収してしまった。だから、日本のフィクションを参照軸に置くと、遅れて見える。

だが、『π』は違う。

『π』は、語り得ぬものが数として出てしまう悪夢である。ヴィトゲンシュタインが沈黙へ送ったものに、マックス・コーエンは沈黙できずに迫る。そしてフィクションは、その先にある世界線を描く。

見つからないから狂うのではない。

見つかってしまうから狂う。

世界の奥にある形式が存在しないから壊れるのではない。

存在してしまった場合、人間はそれに耐えられない。

そこに『π』の恐ろしさがある。

そして、その恐ろしさは、『ブラックスワン』の美的完成より深い。

アロノフスキーを『ブラックスワン』から読むと、彼は日本アニメの問いを受け止めきれなかった作家に見える。

だが、『π』から読むと、彼は別の場所にいる。

世界の裏側を見てしまうこと。

語り得ぬものが、数として出てしまうこと。

神秘が合理性によって解体されるのではなく、合理性の極限で神秘として再出現すること。

そのとき、人の心は救われない。

焼かれる。

『π』は、反転した「人の心の光」である。

それは、人間が世界を押し返す光ではない。

世界の奥にある形式が、人間を焼く闇である。

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