声優のルッキズムと、ロックの死――ゆめみた、トゲトゲ、CHAI、向井秀徳/toe

All eyes on 女性声優.

最初に断っておく。

ここから、かなり嫌な話をする。

声優のルックスの話である。顔の話であり、身体の話であり、衣装の話であり、脚を出す/出さないの話である。政治的に正しい文章ではない。だが、これは単なる品評ではない。いまの声優IP、2.5次元ライブ、ガールズバンド系アニメが、演者の身体をどのように商品設計へ組み込んでいるのか、という話である。

男性声優については知らない。

だから、ここでは女性声優の話だけをする。

きっかけは、夢限大みゅーたいぷだった。

アニメが始まり、番宣で本人たちの写真が流れてくる。そこで改めて思った。分かっていたことではある。だが、それでも思った。

やっぱり、ヴィジュアルがよすぎないか。

もちろん、これは坂道系のような専業アイドル市場と同じ基準で言っているのではない。あちらは、もっと巨大な人材プールから、もっと露骨に、見た目の偏差値が異常に高い人間を集める場所である。坂道が偏差値70以上の市場だとすれば、女性声優や2.5次元系の演者は、そこよりは少し別の分布にいる。背が低いこともある。身体の線がアイドル専業ほど均されていないこともある。

だが、それでも現在の女性声優市場は、明らかに偏差値60以上を普通に要求する場所になっている。一部は65まで行く。声優IPの側が、すでに「声だけの人」ではなく「見せられる人」を前提に選抜している。

夢限大みゅーたいぷの番宣写真を見て引っかかったのも、そこだった。

これは坂道と比べて勝っている、という話ではない。そうではなく、声優IPの側が、すでに見せる身体を商品設計に入れている、という話である。


1. ぼくは、まず脚を見る

ぼくは、まず脚を見る。

こう書くと最低である。

実際、最低なのだろう。だが、今回の話ではそこから逃げない

なぜなら、脚は女性声優が「声の人」から「見られる身体」へ移行していることが、かなり露骨に出る場所だからである。

顔は宣材写真である。メイクもある。角度もある。加工もある。だが、脚を出すかどうか、どのくらい出すか、出したときにどう見えるかは、衣装設計、体型管理、露出許容、ステージ写真、キャラクターとの接続が一気に出る。

脚を出すということは、脚を見られるということである。

そして、脚を見られることを前提にした人材選抜が、すでに声優IPの側に入っている。

夢限大みゅーたいぷの番宣写真を見て、ぼくが引っかかったのはそこだった。

顔が整っている。身体も整っている。しかも脚を出している。見せている。そして、見せられるものを出している。

これは、かなり露骨な事実である。

脚を出すこと自体が悪いという話ではない。むしろ逆で、出すなら出せる身体を持った人間を選ぶ、という設計がそこに見える。夢限大みゅーたいぷは、声、歌、配信、キャラクター運用だけではなく、リアルに出たときの顔と身体まで含めて選ばれている。そう見える。

ここで、MyGO!!!!!の羊宮妃那を思い出した。

念のために書くが、羊宮妃那を貶めたいわけではない。むしろ逆である。高松燈には羊宮妃那が必要だった。MyGO!!!!!において、彼女はまず演技のために呼ばれている。あの声、あの間、あの発語の詰まり、あの叫びがなければ、燈は成立しない。

だが、MyGO!!!!!としてステージに立つとき、羊宮妃那もまた見られる身体になる。燈の衣装を着て、脚を出す。普段の彼女は露出を控えた声優として見える。だからこそ、そのズレが見える。

演技の要請が先にあり、その後に身体の可視化が乗っている。

夢限大みゅーたいぷは、たぶん順序が違う。

最初から、見せることが前提になっている。

2. 露出を控えても逃げられない

さらに厄介なのは、露出を控えれば逃げられるわけでもないことである。

アイドル売りをしたくない人は、露出を控える。脚を出さない。髪色を派手にしない。写真の見せ方も抑える。だが、その控えめさ自体が、今度はガチ恋オタクの欲望に火をつける。

清楚。素朴。守りたい。派手にならないでほしい。俺たちの知っているままでいてほしい。

地獄である。

脚を出しても見られる。脚を出さなくても見られる。髪を染めても見られる。髪を戻しても見られる。女性声優は、声の仕事をしているだけでは済まない。すでに、見られる身体として市場に置かれている。

実際、羊宮妃那が髪色を変えたときにも、面倒なオタクが反応していたように見えた。本人がそれで戻したのかは知らない。そこは断定しない。だが、女性声優の髪色ひとつに、これだけ所有欲めいた視線が集まること自体が、すでに市場の構造を示している。

これは、声優がかわいそうという単純な話ではない。声優志望層は、かなり早い段階からその市場に入っている。声、演技、歌、ダンス、楽器、顔出し、イベント対応、ラジオ、配信、トーク、衣装、写真、SNS、ファンとの距離感。これらをまとめて引き受けるのが、現代の若手女性声優市場になっている。

だから、単純に「声優にルックスを求めるな」と言っても遅い。

もう求められている。

問題は、そのことを見ないふりをして、声や演技や音楽だけの話をしている顔をすることである。

3. ゆめみたは、最初から見せられる新人ユニットである

夢限大みゅーたいぷは、既存の有名声優を集めたバンドではない。少なくとも表の名義としては、バンドリ!プロジェクトの文脈で出てきた新人寄りのバーチャル/リアル兼用ユニットである。

だが、そこで重要なのは、「新人なのに全員ルックスがいい」という驚きではない。むしろ逆である。

新人だからこそ、最初から可視化前提で揃えられている。

夢限大みゅーたいぷは、声優キャリアのある人材を集めたというより、最初から「配信・歌・キャラ運用・リアル露出・写真映え」まで含めて選ばれた新人ユニットに見える。キャラクターを演じるだけではない。配信する。歌う。リアルライブに出る。番宣写真に出る。SNSに出る。キャラクターと本人のあいだを曖昧にして消費される。

だから、顔が一定以上である。身体も一定以上である。並べたときに極端な違和感がない。衣装を着せたときに商品写真として成立する。脚を出せる。

これは、声優のルックスが偶然よくなった、という話ではない。

選抜基準が変わっている。

女性声優は、声だけではなく、見られる身体として選ばれている。夢限大みゅーたいぷは、そのことをかなり露骨に見せるプロジェクトである。

4. MyGO!!!!!には、羊宮妃那と林鼓子が必要だった

MyGO!!!!!は、夢限大みゅーたいぷとは違う。

MyGO!!!!!は、まず高密度のアニメドラマを成立させる必要があった。だから、高松燈には羊宮妃那レベルの演技力が必要だった。

燈は「変な子」ではない。言語化不能、対人不全、詩的感受性、幼さ、切実さが同居していないと成立しない。ここを薄い芝居でやると、ただの不思議ちゃんか面倒くさい子になる。羊宮妃那の声の湿度、間、震え、発語の詰まり方があって、ようやく燈が中心人物として持つ。

つまり、羊宮妃那は、まず演技のために必要だった。

だが、MyGO!!!!!で必要だったのは羊宮妃那だけではない。

林鼓子もいる。

椎名立希は、MyGO!!!!!の中でかなり難しい役である。口が悪い。苛立っている。責任感が強い。面倒くさい。だが、ただの攻撃的な女ではない。燈への執着、CRYCHICの残骸、バンドを組み直すことへの焦り、怒りと不器用さが重なっている。ここを雑に演じると、立希はただの怖い人になる。

林鼓子は、そこを成立させている。

しかも、彼女はMyGO!!!!!のドラム担当でもある。これはかなり重要である。MyGO!!!!!は、羊宮妃那の演技だけで成立しているわけではない。林鼓子の演技とドラムも、作品とリアルバンドの接続を支えている

後述の大橋彩香ほど顔面が好きかと言われると、ぼくはそうではない。

最低である。

だが、ここでは好みの話ではない。林鼓子は、演技もドラムも本物側である。声優としてすでに結果を出し、そのうえでMyGO!!!!!のドラムを背負っている。これは、今回の文脈では絶対に触れなければならない。

MyGO!!!!!は、演技の要求が先にあり、身体の可視化が後から乗った。羊宮妃那は高松燈を成立させるために必要だった。林鼓子は椎名立希を成立させ、同時にドラムでMyGO!!!!!を支えた。

夢限大みゅーたいぷは、たぶん順序が違う。

演技や演奏の一点突破が先にあり、その後に身体の可視化が乗るのではない。最初から、身体の可視化まで含めて選ばれているように見える。

5. Ave Mujicaは、必要な本物を外部調達している

Ave Mujicaもまた、単なるルックス選抜ではない。

むしろ、Ave Mujicaは必要なところに本物を置いている。

三角初華/Dolorisには佐々木李子の歌唱力が必要だった。Ave Mujicaは、普通に上手いでは足りない。ゴシック、演劇性、重さ、過剰さ、異様な完成度がないと滑る。あのジャンルで、歌が弱ければ終わる。だから佐々木李子が必要だった。

豊川祥子/Oblivionisには高尾奏音がいる。高尾奏音は、声優としてもすでに一線級である。知らずに見ていた『放課後ていぼう日誌』の主演が彼女だったと知ったとき、ああ、そういう人を置いているのか、と思った。しかもピアノも本物である。声優として成立し、ピアノもでき、キャラクターの強度も背負える。

ドラムには米澤茜がいる。ここも、必要な専門性を入れている。

つまり、バンドリは単にルックスで揃えているわけではない。必要箇所には本物を置き、そのうえで可視化にも耐える人材を置いている。

ここが重要である。

Poppin’Partyでは大橋彩香をドラムに置いた。MyGO!!!!!では林鼓子をドラムに置いた。Ave Mujicaでは米澤茜を置いた。つまり、バンドリはドラムを甘く見ていない。

これはかなり大きい。

ドラムは逃げ場がない。

リズムが崩れれば、バンド全体が崩れる。演奏が弱ければ、ライブの説得力が崩れる。しかも、声優IPのライブでは、音だけでなく身体も見られる。叩いている姿も見られる。汗も見られる。姿勢も見られる。顔も見られる。写真にも残る。

ドラムは、鳴らす身体がもっとも露骨に出る場所である。

そこに誰を置くかで、企画の本気度が見える。

6. Poppin’Partyは、愛美が端緒で、大橋彩香が実現だった

ここで、Poppin’Partyに戻る。

Poppin’Partyは、愛美が端緒であり、大橋彩香が実現だった。

これは比喩である。だが、単なる比喩ではない。

そもそもバンドリは、愛美がアイマスのステージでギターを弾き、会場をどよめかせたという出来事から始まっている。正確には、それを見たブシロード側スタッフが木谷高明に報告し、「愛美にガールズバンドをやらせたい」と進言した。木谷はそこで、声優が楽器を弾くキャラクターコンテンツの可能性を見た。

愛美が端緒だった、というのは、かなり文字通りの話である。

だが、端緒だけではバンドにはならない。

もちろん、Poppin’Partyは五人のバンドである。西本りみ、伊藤彩沙、大塚紗英がいなければ、Poppin’Partyという形にはならない。そこを否定するつもりはない。

だが、企画の立ち上がりにおける格の話をするなら、愛美と大橋彩香は別である。

愛美のギターがなければ、バンドリという発想はここまで具体化しなかった。声優がギターを弾く。しかも、キャラクターコンテンツとして展開できる。その可能性を最初に見せたのが、愛美だった。

そして、大橋彩香である。

大橋彩香をドラムとして入れられたことが、Poppin’Partyを冗談ではなくした。

声優がバンドをやります、という企画は、それだけならいくらでも危うい。だが、そこに大橋彩香がドラムで座る。声優としてすでに強く、歌えて、見られる身体として成立し、しかもドラム歴が長い。

これは強すぎる。

愛美のギターがバンドリを始めた。大橋彩香のドラムが、Poppin’Partyを実体化した。

ドラムは逃げ場がない。

声優がバンドをやるという企画において、ドラムは後ろに座っているだけでは成立しない。リズムが崩れれば、バンド全体が崩れる。ライブでは体力も見た目も全部出る。しかも、ボーカル/ギターの愛美を中心に置く構図の中で、後ろからバンドの説得力を支える必要がある。

そこで大橋彩香である。

大橋彩香は、単に「声優がドラムを覚えました」ではない。声優キャリアよりドラム歴の方が長いタイプの人間である。しかも、あのルックスでドラムを叩く。

あのルックスでドラムを叩く。

大事なことなので二度書いた。

お前も大橋彩香ガチ恋だろう?

それはそう。

大橋彩香の強さは、声優として可視化される身体が、ドラムというバンドの下半身を引き受けていることにある。声優として見られる。キャラクターとして見られる。写真で見られる。ライブで見られる。その見られる身体が、同時にバンドのリズムを支える身体でもある。

ここで思い出すのが森高千里である。

森高千里もまた、「アイドル/ポップスターがドラムを叩いている」では片付かない。あの人は、ルックス、ポップ性、歌、言葉、リズム感が同居している。ドラマーとしての評価もかなり高いし、実際、あのリズム感はすごいと思う。

森高千里は、アイドル/ポップスターの可視性を持ったまま、ドラマーとしてのリズム感を隠し持っていた。大橋彩香は、声優/キャラクターIPの可視性を持ったまま、Poppin’Partyのドラムを引き受けた。

どちらも、見られる身体と鳴らす身体が分裂していない。

人間国宝である。

ラヴ。

7. トゲトゲは逆方向から来た

ここで、トゲナシトゲアリに入る。

トゲナシトゲアリ、つまりトゲトゲは、バンドリとは逆方向から来た。

ガルクラ/トゲナシトゲアリは、「本物のガールズバンドをアニメIPに接続する」企画だった。声優IPというより、バンド適性、演奏、歌、ロック文脈を先に取り、そこにアニメ声優、キャラクター、ライブ、メディア露出を載せた。

倫理としては強い。

本当に弾いている。本当にバンドをやっている。本当にロックをやっている。そこには、声優バンドには出しにくい生っぽさがある。ガルクラ本編のロック倫理とも接続する。井芹仁菜の叫び、桃香の挫折、バンドの衝突、未整理な怒り。そうしたものと、リアルバンドとしてのトゲトゲは、たしかに接続していた。

だが、ここで問題が出る。

ロックだけをやってきた少女にとって、声優IP/2.5次元市場の負荷は別競技だったのではないか。

これは「過大な負荷がかかった」という話ではない。そう書くと、プロジェクト側が無理をさせた、という被害者整理に寄りすぎる。問題は、負荷の大きさではなく、負荷の種類である。

バンドをやることと、キャラクターを背負うことは違う。演奏することと、アニメの声を当てることは違う。ライブで音を出すことと、イベント、配信、写真、衣装、身体、ファン接触、SNS上の消費、キャラとの比較に晒されることは違う。

ロック畑の人材にとっては、それは本業の延長ではなく、ほぼ別の職能だった。

一方、声優志望層は最初からそこを見ている。声、演技、歌、ダンス、楽器、顔出し、イベント対応、ラジオ、配信、トーク、衣装、写真、SNS、ファンとの距離感。これらをまとめて引き受けるのが、現代の若手女性声優市場である。

だから、単純に「声優はルックスも求められてかわいそう」ではない。その市場に入る人間は、最初から可視化される職業として声優を志望している。

トゲトゲは、ロック/バンドの本物性から2.5次元市場へ入った。

バンドリは、声優/アーティストの可視化市場からバンドの本物性へ近づいた。

この順序差が大きい。

8. 声優志望者の人材プールは大きい

ここで、さらに嫌な話をする。

声優志望者の人材プールは大きい。

声優になりたい人間は多い。女性声優になりたい人間は多い。そこには、声の演技ができる人間だけではなく、歌える人間、踊れる人間、楽器ができる人間、子役経験者、舞台経験者、音楽教育を受けた人間、配信適性のある人間、顔出しに耐える人間、イベント対応ができる人間、ファン対応ができる人間が集まってくる。

パイが大きい。

競争も激しい。

だから、リアルバンド畑から来た人材が「本物性」で声優IP市場に勝てるとは限らない。むしろ、総合スペックでは声優側が勝つことがある。

トゲトゲは、そこを見誤ったのではないか。

もちろん、声優の中にも色々いる。声の演技、関連する歌唱能力のみで勝負できるのではないか、と思わせる人もいる。

たとえば真野美月である。

サクラローレルの歌唱はかなり強い。

キャラソン「ユースフルアイズ」もそうだし、グループ曲「Come Back Story V」でも、肝の歌い上げのところを任されている。正直、歌がかなり強い。

※該当箇所は2:17辺りだけど、全曲聴いとくべき

では、声と歌だけで勝負できるのか。

そこも、今は怪しくなっている。

真野美月は、典型的な専業アイドル的ルックスで勝負するタイプではないと思う。背も低い。ぱっと見では、いわゆるアイドル的な圧で押してくる感じではない。だが、よく見ると普通にかわいい。そこでもう、声と歌だけの人ではなくなる。

市場が大きくなっている。ハードルが上がっている。声も必要。演技も必要。歌も必要。顔も必要。身体も必要。イベントも必要。SNSも必要。小さいなら小さいなりの見せ方が必要になる。

女性声優は、どんどん総合競技になっている。

しかも、全体に身長は低い寄りに見える。もちろん、上田瞳のような例外はいる。ゴルシの上田瞳は、ナレーターとしても強く、青二プロ所属という意味でもかなりすごいと思っている。十王星南の陽高真白のような例外もいる。ただ、全体としては、専業モデルや専業アイドルとは違う身体分布がある。

つまり、声優市場は巨大化し、可視化のハードルも上がった。だが、その身体分布は専業アイドル市場とは違う。そこに、女性声優特有の見え方が生まれる。

それでも、もう「声だけよければよい」では済まない。

9. ロックの本物性は死んだのか

ここで、ロックの話になる。

トゲトゲが厳しかったのは、ロックが死んだからなのか。

レニー・クラヴィッツは1995年に “Rock and Roll Is Dead” と歌っていた。

この年号は、かなり効いている。

1993年、Depeche Modeは『Songs of Faith and Devotion』を出した。電子音楽の側から、ロックの宗教性、肉体性、セックス、中毒、ステージ上のカリスマを奪いに行った作品である。

1994年、Nine Inch Nailsは『The Downward Spiral』を出した。インダストリアルの側から、ロックの自壊衝動、ノイズ、暴力、自己嫌悪、破滅願望を極限まで押し込んだ作品である。

そして1995年、レニー・クラヴィッツは “Rock and Roll Is Dead” と歌った。

これは、かなり出来すぎた並びである。

ロックの外部にいたはずのDepeche ModeとNine Inch Nailsが、ロックの暗い本質を先に奪ってしまった。その直後に、ロックの正統継承者のように振る舞っていたレニー・クラヴィッツが、「ロックンロールは死んだ」と歌う。

これは、正統ロック陣営の白旗だったのではないか。

もちろん、レニー・クラヴィッツを単に敗北者扱いするつもりはない。むしろ、彼は葬送の司祭だった。ジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、プリンス、ファンク、ソウル、70年代ロックの正統継承者のように振る舞っていた人間が、1995年に “Rock and Roll Is Dead” と歌うことには、かなり自己言及的な重さがある。

ただし、ここで「ロックは死んだ」と断言すると、たぶん雑になる。

死んだのは、ロックそのものではない。

死んだのは、ロックが大衆文化の中心であり、若者文化の標準言語であり、かつ本物性の審級でもあった時代である。

かつて、ロックは「本物」の言語だった。ギターを持つ。バンドをやる。ライブハウスで鳴らす。怒る。叫ぶ。反抗する。自分たちで曲を書く。そうしたことが、商業化されたアイドルや作られたポップスに対して、本物性の印として機能した。

だが、今は違う。

ロックの本物性だけでは、もう市場上の優位性にならない。

声優IP、2.5次元、VTuber、アニメタイアップ、SNS可視化市場では、「本当にバンドをやっている」は加点ではあるが、絶対的な勝利条件ではない。そこで問われるのは、顔、身体、声、演技、歌、演奏、配信、キャラ運用、写真映え、切り抜き適性の総合点である。

トゲトゲは、ロックの本物性を信じすぎた。

あるいは、ロックの本物性を、声優IP市場にそのまま持ち込めると考えすぎた

そこが、危うかった。

10. CHAIは、NEO KAWAIIという新しい神を立てた

ここで、CHAIの話をする。

CHAIは、ロックの本物性に殉じなかった。

CHAIは、「私たちは本物のロックバンドです」と正面から言い張るより、NEO KAWAIIという新しい価値体系を立てた。これはかなり重要である。

NEO KAWAIIは、新しい神である。

ロックではない。

CHAIは、ロックの認証機関に認められることで勝ったのではない。ロック、ファンク、ディスコ、ヒップホップ、J-pop、ガールズカルチャー、身体政治を全部飲み込んで、NEO KAWAIIという看板で再編した。

つまり、ロックの神に仕えなかった。

かわいいの神を作り替えた。

ここが強い。

ルックス偏差値競争に巻き込まれるのではなく、評価基準そのものを奪い返す。かわいいとは何か。美しいとは何か。誰が誰を評価するのか。そこを自分たちの側へ引き寄せる。

ただし、それだけなら思想で終わる。

CHAIが強かったのは、リズム隊が強かったことだ。

これは、Tiny Desk Concert のコメントでもかなり指摘されていた。見た目やコンセプトに目が行きがちだが、実際の音の芯はかなりタイトで、特にベースとドラムが曲の骨格を握っている。NEO KAWAIIが単なる自己肯定メッセージで終わらず、身体を動かすグルーヴになっていた。

思想が音楽になっている。

ここが大きい。

CHAIは、ロックの本物性を復権したのではない。ロックの本物性から降りて、別の神を立てた。そのうえで、リズム隊の強さによって、その神を単なるスローガンではなく、身体的な音楽体験にした。

だから、CHAIは強かった。

トゲトゲは、ロックの本物性を信じた。

CHAIは、ロックの本物性を相対化した。

この差である。

11. 向井秀徳とtoeには、まだロックの本物性が残っている

では、ロックの本物性は完全に死んだのか。

そうではないと思う。

向井秀徳には、まだロックの本物性がある。

ただし、それは「売れるロック」でも「かっこいいバンド」でもない。言葉、反復、身体、ノイズ、都市、酒、虚無、笑い、リズムの癖が一体化した、ほとんど個人芸としてのロックである。ナンバーガールからZAZEN BOYSに行くほど、ロックの大衆的記号性は削がれて、向井秀徳という身体と言語の癖に純化される。

ロックは死んだというより、向井秀徳という変な媒体に宿って局地的に生きている。

toeも同じである。

こちらはもっと演奏倫理に寄っている。歌詞やスター性やロックンロール神話ではなく、拍、ズレ、アンサンブル、音色、手癖、間合いに本物性が移っている。toeの本物性は「反抗」ではなく、演奏する身体の精度と、バンドが同時に鳴っているという事実にある。

これはロックというよりポストロック/マスロック/インスト寄りだろう。だが、ロックの本物性が「態度」から「演奏の現前性」に逃げ延びた形だと思う。

だから、ロックは死んでいない。

ただし、それはもう大衆文化の標準通貨ではない。

ロックンロールは、世界を支配する神としては死んだ。だが、局所宗教としてのロックはまだ生きている。

向井秀徳やtoeは、その修道院側である。

12. 女性声優を長くのぞくとき

女性声優を長くのぞくとき、女性声優もまたこちらをのぞいている。

ニーチェの深淵ミームである。

しかも、ちょうど夢限大みゅーたいぷのアニメ第1話にも、この深淵ミームが出てきた。出来すぎている。

もちろん、ぼくはすでに「深淵を呪文にするな」と書いた。ニーチェの一文から lange が落ち、「長く見つめる」という要素が抜け、深淵という絵面だけがネットミームとして消費されることを批判した。

だから、ここで安易に深淵ミームを使うのは危ない。

だが、今回は、長く、が大事である。

ぼくたちは、女性声優を長く見ている。

顔を見ている。身体を見ている。脚を見ている。衣装を見ている。写真写りを見ている。ライブでの見え方を見ている。キャラクターとの接続を見ている。歌を聴いている。演技を聴いている。ドラムを見ている。ギターを見ている。ロックの本物性を探している。

だが、その視線は一方通行ではない。

女性声優を見るということは、自分がどの市場に参加しているのかを見返されるということでもある。声だけを聴いているつもりの人間が、実際には身体を見ている。演技だけを評価しているつもりの人間が、実際には写真写りを見ている。ロックの本物性を語っているつもりの人間が、実際には可視化された身体の市場にいる。

深淵をのぞいていたつもりが、こちらが深淵だった。

13. 見られる身体と鳴らす身体

結論を言う。

ロックの本物性は死んでいない。

だが、それはもう世界を支配する神ではない。

声優IP/2.5次元/VTuber的可視化市場では、本物性は、顔、身体、声、演技、歌、演奏、配信、キャラ運用の総合点に組み替えられる。

夢限大みゅーたいぷは、それを最初から受け入れた。最初から、見られる身体を商品設計に組み込んだ。

Poppin’Partyは、愛美のギターを端緒に、大橋彩香のドラムで実現した。声優が本当にバンドをやるという企画は、大橋彩香のドラムで身体を持った。

MyGO!!!!!は、演技と演奏の本物性から身体の可視化へ行った。羊宮妃那は、高松燈を成立させるために必要だった。林鼓子は、椎名立希を成立させ、同時にドラムでMyGO!!!!!を支えた。

Ave Mujicaは、必要な本物を集めた。佐々木李子の歌、高尾奏音の声優力とピアノ、米澤茜のドラム。そこに可視化可能な身体を重ねた。

トゲトゲは、ロックの本物性から声優IP市場へ入った。だが、そこで別種の可視化圧にぶつかった。ロックをやる少女にとって、声優IP市場は別競技だった。声優志望層は、最初からその別競技に入っている。

CHAIは、ロックの本物性に殉じなかった。NEO KAWAIIという別の神を立てた。そして、リズム隊の強さで、その神を音楽として鳴らした。

向井秀徳とtoeは、死んだ神の修道院で、まだ本物を鳴らしている。

だから、問題は「本物か偽物か」ではない。

どの本物性が、どの市場で、どの身体に宿るのか。

それが問題である。

声優IPの時代には、見られる身体と鳴らす身体を同時に引き受ける者だけが、別の本物性を持つ。

そして、ぼくたちはそれを見ている。

最低である。

だが、見ている。

Word up.

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