文系理系論争が下らない理由――原典・データを扱えない者は、どの分野でも学問の外にいる

All eyes on 文系理系

理系分野はWikipediaやAIで調べて文章で理解するのは無理。文章で科学について分かった気になっている馬鹿が多い。理系分野は本質的には数式や化学式で理解しないと無理で、文章で拾った知識では理解していない。

そういう趣旨のポストを見た。

半分は正しい。科学を、WikipediaやAIの自然言語要約だけで分かった気になるのは危ない。数式を読まない物理理解、化学式を読まない化学理解、プロトコルを読まない実験理解、統計処理を読まないデータ理解は、たしかに薄い。そこまではよい。

だが、そこで「理系分野は」と言い出すからおかしくなる。

それは文系も同じである。もっと言えば、学問、Wissenschaft、すべてに妥当する。人文学なら原文を読めなければならない。語史を読めなければならない。翻訳語のずれを読めなければならない。歴史学なら史料を読めなければならない。法学なら条文と判例の射程を読めなければならない。社会科学なら統計、分類、モデル、制度、比較対象を読めなければならない。

つまり問題は、理系か文系かではない。

その分野に固有の原典・データを扱えるかどうかである。


文系/理系は、知性の本質区分ではない

そもそも、文系/理系という日本語の区分が雑である。

もちろん、近い区別はある。ドイツ語には Naturwissenschaften と Geisteswissenschaften がある。自然科学と精神科学、あるいは人間科学である。ディルタイ以来、自然科学は自然現象を因果的に説明erklärenし、精神科学は人間の生の表現を理解verstehenする、という説明/理解の対比も語られてきた。

しかし、これをそのまま日本語の「文系/理系」に重ねると壊れる。

自然科学にも理解はある。実験系を理解する。測定条件を理解する。プロトコルを理解する。装置の癖を理解する。論文の図がどう作られたかを理解する。生命科学であれば、ある現象が本物の生物学的現象なのか、アーティファクトなのかを見分ける理解が必要になる。

逆に、社会科学には説明がある。統計モデルを使う。因果推論を使う。比較制度分析を使う。経済学なら数式も使う。政治学でも、選挙分析、世論調査、政策効果分析では数字を使う。嘘つきが使う数字を見分けるにも、数字のセンスは必要である。

だから、「自然科学=説明」「文系=理解」と単純に割ることはできない。まして日本語の「文系/理系」は、学問分類というより、旧制高校、帝大、大学入試、高校の進路指導が作った進学トラックの名残である。東大の文科一類・二類・三類、理科一類・二類・三類のような区分も、その制度的な残響として見た方がよい。東大では1962年に前期課程の4科類が6科類、つまり文科一類・二類・三類、理科一類・二類・三類に改められている。

旧制第一高等学校も、東大教養学部の直接の前身として位置づけられ、大学予備教育の中で文理の進路分けを担っていた。 第一高等学校には、法学・政治・文学方面、理学・工学・数学方面、医学・薬学・農学方面という部門分けがあったと整理されている。

つまり、文系/理系とは、知性の本質区分ではない。かなりの部分、進学と入試の制度語である。それを「自分は文系だから数学は要らない」「自分は理系だから概念は要らない」という知的免罪符にしてきたのが、日本のだめなところである。

人文学は「文系」全部ではない

さらに、人文学と文系を混ぜるな、という話がある。

人文学とは、狭く言えば、哲学、思想史、文学、歴史、宗教、言語、文献学、古典研究、芸術史のような領域である。原文、史料、写本、注釈、語史、翻訳、受容史、先行研究を扱う。ここでは、原典を読む力が中核になる。

これに対して、政治学、経済学、社会学、法学は、広い意味では「文系」に入れられる。しかし、それらは人文学そのものではない。社会科学である。社会科学には、制度を読む力も、概念を読む力も、数字を読む力も要る。経済学に数学が要るのは当然として、政治学にも統計は要る。社会学にも調査設計とデータ処理は要る。法学にも制度の構造を読む能力が要る。

だから、「文系だから数学不要」は最初からおかしい。

この点で、早稲田大学政治経済学部が一般選抜で数学を必須科目に含めていることは、正しい方向である。

現在の一般選抜でも、共通テストの必須科目として数学I・数学Aが置かれている。 大学入学共通テスト利用入試では、数学I・Aと数学II・B・Cが必須科目として置かれている。

ぼくは早稲田政経の出身である。政治学科で、政治思想のゼミにいた。その後、哲学の大学院に行き、結局はITコンサルに進んだ。EA、SOA、UML、データモデリング、制度設計、業務設計のようなものをやってきた。いま振り返ると、政経を数学で受けたことはかなり効いていた。

もちろん、ぼくが数学者になったわけではない。高度な理系数学をやったわけでもない。だが、少なくとも数字を見て逃げない。モデルというものを、概念と同じように扱える。統計を見たとき、そこに問い、分類、母集団、変数、比較対象、制度前提があることくらいは分かる。

これは政治学にも経済学にも必要である。PPE、すなわち Philosophy, Politics and Economics を束ねる人材には、概念だけでも、数字だけでも足りない。政治哲学、制度、歴史、経済、統計、政策、データを横断する基礎体力が要る。早稲田政経が数学を重視することは、「文系だから数学はいらない」という日本型の腐った文理分断への修正として読める。

文系の腐敗は、もう散々見てきた

理系側から「文系教員は阿呆だ」と言われることがある。

それ自体は、かなり当たっている。人文学や社会科学の名前で、概念の区別も、制度の差異も、翻訳語の履歴も読まず、政治的お気持ちを語る人間はいる。ぼくはそれを、國分功一郎、岡美穂子、石田英敬その他について散々批判してきた。

さらに言うと、「日本を代表する社会科学者」の数字の読み方の甘さも批判している。「数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う」。


人文学は不要ではない。むしろ必要である。原書を読む人間、古典を読む人間、思想史を読む人間、宗教や制度や文化を読む人間は必要である。しかし、その専門性は、公共に対して稼働しなければならない。ぼくは以前、「天然芝の人文学」という文章でそう書いた。専門性を養生して、踏ませず、身分証明にするだけなら、それは公共に扶養される知ではない。検証可能で、継承可能で、再利用可能な形に加工されなければならない。

だから、文系の腐敗はすでに見ている。

概念を読めない。原文を読めない。語史を読めない。制度を読めない。数字を読めない。にもかかわらず、大学教員の肩書で政治的断言をする。これは確かにある。しかもかなりある。

だが、それで「理系はまとも」とはならない。

理系も腐る。腐ったときの被害はでかい

理系が腐るときは、概念ではなくデータで腐る。政治的お気持ちではなく論文で腐る。教養商売ではなく研究費とポストで腐る。しかも、その被害は若手研究者の雇用、実験データ、研究室、人事、大学のガバナンスに直結する。

現在進行形の例が、京都大学のJIP論文問題である。

京都大学は2026年3月31日、小田裕香子氏による2021年発表論文について、Figure 2A・2Bに研究活動上の不正行為、すなわち「改ざん」があったとする調査結果概要を公表した、と大賀哲氏は整理している。大賀氏の記事は、研究不正そのものだけでなく、告発者保護、調査期間、教授昇進、利益相反、大学ガバナンスの問題としてこの事件を論じている。

小田氏の経歴も、かなり異様に見える。KAKENでは、2007年度に神戸大学医学系研究科助教、2015年度に京都大学ウイルス研究所助教、2016〜2021年度に京都大学ウイルス・再生医科学研究所助教、2021〜2023年度に京都大学iPS細胞研究所准教授、2024〜2025年度に京都大学生命科学研究科教授と出ている。 つまり、長く助教として残った後、JIP論文を軸に准教授、教授へ上がったように見える。

もちろん、これだけで不正な人事だと断定することはできない。助教として長く研究を続け、その後に成果が出て昇進すること自体はあり得る。しかし、その中核にある論文に改ざんが認定され、さらに告発者保護、調査の透明性、調査中の教授昇進が問題になっているなら、話はまったく違う。

大賀氏の記事では、2023年12月4日に通報、2024年1月9日に予備調査開始、2024年3月29日に本調査開始、2025年6月18日に本調査終了、2026年3月31日に公表という時系列が整理されている。本調査は446日、本調査終了から公表まで286日かかっている。 さらに、告発者A氏への雇い止め通知は2024年2月28日、つまり予備調査終了後・本調査開始前であり、小田氏の生命科学研究科教授昇進は2024年4月1日、本調査開始のわずか3日後だったと整理されている。

外形的には、こう見える。

本調査に入る前に、告発者の雇用を処理した。本調査開始直後に、被告発者の教授昇進を通した。

これは軽い話ではない。

SlowNewsでは、須田桃子氏が、告発者A氏本人のインタビューをもとに、JIP研究に疑念を抱いた経緯、小田氏との3時間の議論、追試失敗、マウス実験のデータ除外疑義を報じている。須田氏の記事は、JIP論文の研究不正について、通報した博士研究員が約3カ月後に雇い止めを通知され職を失った問題として位置づけている。

A氏は、研究者を志した理由を語り、実験ノートを几帳面に取る方だったと述べている。 そのA氏が、JIP論文に疑問を抱き、追試し、データ除外疑義に気づき、小田氏と議論した。その後、職を失ったと報じられている。

これが本当なら、理系の「原典・データ」を守るべき制度が、原典・データではなく、論文、人事、研究費、組織の面子を守る方向に動いたように見える。

JIP問題は、文理論争の外側にあるのではない

JIP問題は、文理論争の外側にある話ではない。

むしろ、文理論争のくだらなさを示す最もきつい事例である。

理系は数式が読めるから偉い。理系はデータを扱うから客観的である。文系は文章ばかりで、概念をこねているだけである。

そういう安い理系優越論は、JIPの前で止まる。

生命科学における原典は、実験データである。プロトコルである。生データである。測定条件である。追試可能性である。図表作成の過程である。これらを守れないなら、どれだけ「理系」であっても学問ではない。

人文学における原典は、原文である。史料である。写本である。語史である。注釈である。翻訳の履歴である。これらを読めない人文学者は駄目である。

社会科学における原典・データは、統計である。調査設計である。分類である。母集団である。制度である。比較対象である。これらを読めない社会科学者も駄目である。

だから、問題は文系か理系かではない。

その分野なりの原典・データを扱えるかどうかである。

JIP問題が酷いのは、生命科学における原典である実験データと再現性をめぐる疑義が、研究室、人事、告発者保護、大学ガバナンスにまで波及しているからである。しかも、京都大学という日本最高峰の大学で、iPS細胞研究所周辺、生命科学研究科、教授人事、卓越大学認定まで絡む。これが通るなら、腐っているのは個人ではない。研究公正を掲げる制度そのものが腐っている疑いがある。

文系の腐敗は、概念や政治的発言のレベルで表に出る。もちろん、それも害悪である。だが、理系のこの種の腐敗はもっと物理的である。データを疑われ、論文が疑われ、研究費が絡み、ポストが絡み、告発者の雇用が絡む。若手研究者の人生が巻き込まれる。

東大のソープ接待教授問題のような醜聞もある。あれはあれで大学人の倫理として醜い。だが、JIPは次元が違う。性接待や個人倫理の醜聞ではない。研究という制度の根幹を壊す疑惑である。

原典・データを守れ

文系/理系というラベルは、せいぜい進学トラックの名残である。学問を分ける本質的な線ではない。

理系は数式を読め。人文学は概念を読め。社会科学は統計を読め。

それだけではまだ足りない。

どの分野にも、その分野なりの原典・データがある。それを扱えない者は、どの分野にいても学問の外にいる。

人文学なら、原文と語史を読め。社会科学なら、統計と制度を読め。自然科学なら、実験データと再現性を守れ。AI要約やWikipediaや政治的お気持ちや肩書で分かった気になるな。文章だけで科学を分かった気になるな。数式だけで社会を分かった気になるな。概念だけで制度を分かった気になるな。

文系理系論争が下らないのは、どちらが偉いかという話ではないからである。

どちらにも、読めていない人間がいる。どちらにも、腐る人間がいる。そしてどちらでも、その分野の原典・データを守れない者は、学問の側にはいない。

Word up.

いいなと思ったら応援しよう!

kj aka ルサンチMAN よろしければチップお願いします。AI批評の各種経費に役立てます。