人文学を守るなら、まず「人文学」に丸めるな――finalvent「人文学と人文主義の歴史」への修正注釈
All eyes on words...
なんか宣伝してた。

なので、finalvent の「人文学と人文主義の歴史」を読んだ。
読書量はある。
キケロ、ペトラルカ、エラスムス、ルター、ブルクハルト、渡辺一夫、大江健三郎まで出てくる。古代ローマからルネサンス、宗教改革、近代ドイツ大学、戦後日本のヒューマニズム受容まで、一気に走る。
だから、単に「ものを知らない」とは言いにくい。
むしろ逆である。
いろいろ読んでいる。素材も持っている。文章も書ける。人文学を擁護したいという意図も分かる。
だが、それでもおかしい。
いや、だからこそおかしい。
読書量があるのに、最後の接続が雑なのである。
人文学を擁護する文章であるはずなのに、その「人文学」という語の扱いが粗い。humanitas、studia humanitatis、humanism、humanitarianism、Bildung、Wissenschaft、Geisteswissenschaften、humanities、日本語の「人文学」が、かなり太い線でつながれていく。
太い線でつなぐこと自体が悪いわけではない。
歴史を書くとは、ある程度、線を引くことである。
だが、線を引くなら、どこで語が変わり、どこで制度が変わり、どこで翻訳が入り、どこで意味がずれたのかを見なければならない。
人文学を守るなら、まず「人文学」という言葉を疑わなければならない。
それをやらない人文学擁護は、危ない。
人文学を守る顔で、人文学の解像度を下げるからである。
1. 人文学は必要である。だからこそ雑に擁護するな
先に言っておく。
ぼくは人文学を否定していない。
むしろ、人文学は必要だと思っている。
以前、「天然芝の人文学――専門性は誰のために養生されるのか」という文章を書いた。そこで言いたかったのは、人文学は不要だという話ではなかった。原書を読む。古典語を読む。古文書を読む。思想史を読む。宗教、歴史、文学、制度、他国語、他文化を読む。そうした専門性は必要である。
ただし、公共に扶養される専門性なら、公共に対して稼働しなければならない。
カルチャースクール的に薄めろという話ではない。
専門性を捨てろという話でもない。
専門性を、他者が検証し、継承し、再利用できる知識基盤に変換せよ、という話である。
また、山口一男氏の「戦後最悪」発言についても書いた。
そこでも、数字や実証社会科学そのものを否定したわけではない。むしろ、数字は必要である。政策評価にも、社会調査にも、制度比較にも、統計は必要である。
問題は、数字そのものではない。
数字がどの問いに答えているのかである。
何を母集団としたのか。何を分類したのか。何を比較し、何を比較しなかったのか。どの制度前提を置いたのか。どの価値判断を、数字の権威で飾ったのか。
数字を読むには、数字の外側を読む必要がある。
問い、分類、制度、言葉、歴史、権威、責任を読む必要がある。
その意味で、人文学は必要である。
だが、ここで話は終わらない。
数字の外側を読むために人文学が必要だとして、その人文学自体が、言葉の違い、制度の違い、翻訳の違い、学問編成の違いを雑に丸めていたら、使い物にならない。
数字だけではだめである。
だが、ふわっとした人文学でもだめである。
だから今回の問題は、finalvent が人文学を擁護しているかどうかではない。
人文学を擁護するなら、まず人文学という語をどれだけ疑えているのか。
そこが問題である。
2. 冒頭から危うい
finalvent の文章は、冒頭でこう置く。
「人文学(Studia humanitatis)」と「人文主義(Humanitas)」の緊張関係の歴史。
ここがまず危うい。
いや、ここでかなり決まってしまっている。
Studia humanitatis を「人文学」と置き、Humanitas を「人文主義」と置く。
一見、それらしい。
だが、この対応は粗い。
studia humanitatis は、現代大学制度における「人文学」そのものではない。
humanitas は、近代以降の意味での「人文主義」そのものではない。
ここをいきなり対応させた時点で、語の階層がずれている。
もちろん、studia humanitatis と現代の humanities / 人文学には関係がある。humanitas と humanism / 人文主義にも関係がある。無関係ではない。
だが、関係があることと、同一視してよいことは違う。
むしろ人文学とは、この違いを読むためのものではないのか。
古代ローマの humanitas、ルネサンス期の studia humanitatis、近代語としての humanism、ドイツ語圏の Bildung と Wissenschaft、英語圏大学制度の humanities、日本語の「人文学」。
これらは重なっている。
だが、同じではない。
その違いを読まずに、大きな「人文学と人文主義の歴史」へ畳むなら、それは人文学の擁護ではない。
人文学の解像度を下げる行為である。
3. Studia humanitatis は現代の「人文学」ではない
studia humanitatis は、ルネサンス人文主義の文脈で重要な語である。
文法、修辞学、詩、歴史、道徳哲学など、人間形成に関わる古典的学芸のまとまりとして理解される。
だが、それは現代大学における「人文学部」や「人文学」そのものではない。
ここで重要なのは、studia humanitatis が単なる研究対象分類ではなかったことだ。
それは、教育課程であり、人格形成の技術であり、古典語と修辞と歴史と倫理を通じて、人間を形成する学芸だった。
だから、それを現代の「人文学」と重ねるなら、途中にいくつもの変換が必要になる。
ルネサンス人文主義。
宗教改革。
近代国家。
近代大学。
文献学の専門化。
歴史学の専門化。
ドイツ語圏の Wissenschaft。
英語圏大学制度の humanities。
日本語への翻訳と制度化。
この迂回を抜きにして、studia humanitatis を「人文学」と置くと、読者は分かった気になる。
だが、実際には、分かったのではない。
違いが消えただけである。
studia humanitatis は、現代の「人文学」ではない。
それは、現代の人文学に流れ込んだ一つの源流である。
源流と現在の制度語を同じものとして扱うな。
まずそこからである。
4. Humanitas は「人文主義」ではない
同じことは humanitas にも言える。
humanitas は、単に「人文主義」ではない。
人間性、教養ある人間性、文明性、洗練、徳、ローマ的な人格形成。そうした語感を持つ。
キケロの cultura animi、つまり魂の耕作と結びつけるのは分かる。
そこまではいい。
人間は生まれたままでは荒れ地であり、言葉、哲学、修辞、徳の訓練によって耕される。これは美しい比喩である。
だが、finalvent の文章では、その比喩がそのまま「人文学という農具」によって「人間(Humanitas)という果実」が得られ、「これが人文主義になります」と接続される。
ここが粗い。
humanitas は humanism ではない。
humanitas から humanism へは、歴史的な距離がある。
しかも humanism は、近代以降、かなり多義的になる。
ルネサンス人文主義。
古典研究。
反スコラ的文献学。
人間中心主義。
世俗的人間主義。
宗教的ヒューマニズム。
実存主義的ヒューマニズム。
反ヒューマニズム。
人道主義との混同。
この複数の層を持つ humanism を、humanitas から直線的に取り出すことはできない。
もちろん、finalvent は後半で humanism と humanitarianism の混同を問題にしている。
そこは分かる。
戦後日本において、ヒューマニズムが人間愛、人道主義、優しさ、博愛のように処理されたという批判には、一理ある。
humanism と humanitarianism は区別した方がよい。
だが、他人の混同を批判するなら、自分の丸めにも敏感であるべきである。
humanism と humanitarianism を区別せよと言うなら、humanitas と humanism も区別しなければならない。
studia humanitatis と humanities も区別しなければならない。
Bildung と教養も区別しなければならない。
Wissenschaft と science も区別しなければならない。
そうでなければ、他人の誤読を笑いながら、自分も別の場所で丸めているだけになる。
5. 読書量ではなく、接続精度の問題である
finalvent の文章には、固有名が多い。
キケロ。
ペトラルカ。
エラスムス。
ルター。
ブルクハルト。
渡辺一夫。
大江健三郎。
それぞれの名前を出すこと自体が悪いわけではない。
むしろ、その並びは分かる。
キケロから魂の耕作を出す。
ペトラルカから古代との歴史的距離を出す。
エラスムスから ad fontes と寛容を出す。
ルターとの対立から自由意志を出す。
ブルクハルトからルネサンスの神話化を出す。
近代ドイツ大学から制度化を出す。
戦後日本では、ヒューマニズムが人道主義や人間愛へ薄まったことを問題にする。
渡辺一夫、大江健三郎を通じて、日本におけるユマニスムの系譜を見る。
素材としては分かる。
だが、問題は素材ではない。
接続である。
読書量と概念接続の精度は別である。
いろいろ読んでいる人間が、いろいろ知っている人間が、最後に大きな物語へ吸われることはある。
むしろ、読んでいるからこそ危ない。
素材が多いと、線が引けてしまう。
線が引けると、物語ができてしまう。
物語ができると、語の段差が見えなくなる。
finalvent の文章は、まさにその危うさを持っている。
読書量はある。
だが、humanitas、studia humanitatis、humanism、Bildung、Wissenschaft、humanities、人文学を接続する精度が低い。
だから、読んでいる量に対して、結論が雑に見える。
「神がかった狂気に対する人間理性のバリケード」。
美しい。
たしかに、美しい。
だが、美しい結論は、しばしば危ない。
それが途中の概念差を吸収してしまうからである。
6. Bildung を「切断」の語にするな
finalvent の文章で、とくに気になった箇所がある。
「19世紀以降、人文学は『事実』を解明する専門技術となり、『人格形成』とのリンクは切断されました(この分離が『教養(Bildung)』かもしれません)」
ここは、かなり危うい。
いや、かなり逆向きに見える。
Bildung は、むしろ人格形成、自己形成、教養形成の中核語である。
もちろん、Bildung も一枚岩ではない。時代によって、文脈によって、制度によって変わる。ドイツ近代大学の理念、フンボルト的大学像、古典語教育、市民層の自己形成、教養主義、国民形成、専門知との関係。さまざまな層がある。
だが、少なくとも、人格形成とのリンクが切断された「分離」を Bildung と呼ぶのは変である。
むしろ Bildung は、専門知と人格形成、自己形成、教養形成をどう結ぶかという問題の中心にあった語である。
ここを外すと、近代ドイツ大学への批判も粗くなる。
たしかに、19世紀以降、学問は専門分化する。
文献学、歴史学、法学、国家学、経済学、自然科学が専門化し、大学制度の中で研究と教育が結びつく。事実の解明、史料批判、文献批判、方法論、専門職化も進む。
だが、それは単純に「人格形成とのリンクが切断された」という話ではない。
むしろ、近代ドイツ大学は、研究と教育、Wissenschaft と Bildung をどう結ぶかという理念を持っていた。
だから、ここで必要なのは、「人文学が専門技術になって人格形成から切断された」という大ざっぱな嘆きではない。
Bildung、Wissenschaft、Geisteswissenschaften、Naturwissenschaften、humanities、日本語の教養主義が、それぞれどう違うのかを見ることである。
それをやらずに、「人文学はあるが、人文主義者はいない」という寒々しい風景へ持っていくと、分かりやすいが、粗い。
7. Wissenschaft は science ではない
ここで Wissenschaft の話が必要になる。
Wissenschaft は、英語の science より広い。
もちろん、語源や歴史をたどれば、science もかつては知識一般に近い広い語感を持っていた。moral science や political science という言い方もある。
だが、現代英語で science と言うと、かなり自然科学、実験科学、数学化された実証科学へ寄る。
一方、ドイツ語の Wissenschaft は、自然科学だけではない。
体系的に研究され、教えられ、批判され、継承される知の営みを広く指す。
哲学、歴史学、文献学、法学、社会科学、自然科学を含みうる。
だから、Geisteswissenschaften を「精神科学」と訳すときにも注意が必要である。
ここでの「科学」は、science ではない。
Wissenschaft である。
本当は、「精神諸学」「人間・歴史・文化・社会の学問」と説明した方が安全である。
Geisteswissenschaften は、英語圏の humanities と対象領域が重なる。古典、歴史、哲学、文学、言語、宗教、芸術などは重なる。
だが、Geisteswissenschaften と humanities は同じものではない。
Geisteswissenschaften は、ドイツ近代大学、Wissenschaft 概念、歴史主義、文献学、解釈学、Naturwissenschaften との方法論的対比を背負う語である。
humanities は、英語圏の大学制度・カリキュラム上の分類語としての性格が強い。
日本語の「人文学」は、それらをさらに翻訳し、制度化し、日本の大学制度、文系/理系区分、教養主義、戦後教育の中で受け取った語である。
だから、Geisteswissenschaften と humanities と人文学を、同じものとして扱ってはいけない。
重なる。
だが、同じではない。
ここを丁寧にやることこそ、人文学の仕事ではないのか。
8. 「ドイツ史観」の批判も、雑にやると自分に返る
finalvent は、「中世の闇」から「ルネサンスの光」へという劇的な物語は、19世紀のブルクハルトらドイツのアカデミズムが構成した幻影だと書く。
そこは分かる。
ルネサンスを「個人の解放」として神話化する見方には、たしかに問題がある。中世にも人間性の探求はあった。12世紀ルネサンスもあった。ルネサンスを近代精神の誕生として単純化するのは危うい。
だが、それを言うなら、finalvent 自身の文章もまた、別の大きな物語を作っている。
キケロの魂の耕作。
ペトラルカの孤独。
エラスムスの寛容。
ルターの狂信。
ドイツ大学による制度化。
戦後日本の誤読。
渡辺一夫の正気。
大江健三郎のユマニスム。
最後に「神がかった狂気に対する人間理性のバリケード」。
これはこれで、かなり大きな物語である。
ブルクハルト的な「中世の闇からルネサンスの光へ」を批判しながら、自分は「狂気に抗する人文主義」という別の光の物語を作っている。
もちろん、物語を作るなとは言わない。
歴史叙述には物語が入る。
だが、人文学を名乗るなら、自分がどの物語を作っているのかには自覚的であるべきである。
他人の神話化を批判するとき、自分の神話化も疑わなければならない。
9. 本来ならヴィーコの方が筋がよかった
ここで名前を出すなら、むしろヴィーコだったのではないか。
ヴィーコを出せば偉いという話ではない。
ヴィーコを知らないからだめだ、という話でもない。
そうではなく、finalvent が本来やりたかったはずの議論は、ヴィーコを経由した方が筋がよかったのではないか、という話である。
キケロ的な cultura animi から、人文学、人文主義、狂気に抗する理性へ飛ぶ。
そこには、たしかに一つの線がある。
だが、太すぎる。
人文学を、単に「人間性を耕すもの」「狂気に抗するもの」として描くと、道徳物語になる。
人文学が本当に読むべきものは、もっと具体的である。
言葉。
法。
制度。
神話。
歴史。
共同体。
人間が作った世界である。
ヴィーコの筋は、ここで効く。
人間が作ったものは、人間が作ったものとして理解できる。
自然を神が作ったものと見るなら、人間は自然を完全には知りえない。だが、歴史、法、制度、言語、神話、詩、共同体は、人間が作ったものだから、人間はそれを内側から理解できる。
この発想は、人文学を考えるうえでかなり強い。
数字の外側を読む、という話にも接続する。
数字の外側にあるのは、人間が作った問いである。分類である。制度である。言葉である。評価軸である。歴史である。
それを読むことが、人文学の仕事である。
そう考えるなら、finalvent の「神がかった狂気に対する人間理性のバリケード」より、ヴィーコ的な線の方がずっと筋がいい。
人文学は、狂気に抗するための美しい砦である以前に、人間が作った世界を、人間が作ったものとして読む技術である。
ここを抜かすと、人文学はすぐに道徳化する。
「正気を保つためのシェルター」。
「狂気に抗する知性」。
「神がかった正義への抵抗」。
そういう言い方は美しい。
だが、美しすぎる。
美しすぎる言葉は、また別の狂気を作る。
10. ニーチェなら語のズレを読む
ついでに言えば、ニーチェならこのズレを読む。
Die fröhliche Wissenschaft。
英語では The Gay Science とされる。
だが、ここでの Wissenschaft は、単純な science ではない。
しかも副題には la gaya scienza がある。
これはプロヴァンス語系の gai saber、トルバドゥール的な詩作技芸、歌う知、陽気な知への参照を含む。
近代の Wissenschaft / science が、重く、禁欲的で、制度化され、大学化され、専門職化されていく時代に、ニーチェはそこへ歌う知、笑う知、軽い知、危険な知をぶつけた。
つまり、ニーチェは語のズレを使っている。
Wissenschaft。
science。
scienza。
gai saber。
これらは同じではない。
同じではないから効く。
だから、ニーチェを読むなら、語の分岐に鈍感であってはいけない。
humanitas と humanism。
studia humanitatis と humanities。
Bildung と教養。
Wissenschaft と science。
Geisteswissenschaften と humanities。
humanism と humanitarianism。
ユマニスムとヒューマニズム。
人文主義と人道主義。
人文学と教養。
これらを雑に丸めるな。
人文学を守りたいなら、まずそこを分けろ。
そこを分けることこそ、人文学の最低限の仕事である。
11. 人文学擁護派という危うい味方
ここで、finalvent の文章の危うさがはっきりする。
人文学を攻撃しているわけではない。
むしろ擁護している。
令和人文主義の軽さに対して、古代ローマ、ルネサンス、宗教改革、近代ドイツ、戦後日本を通じた重い人文主義の歴史を置こうとしている。
そこまでは分かる。
だが、擁護の仕方が危うい。
人文学を守るために、humanitas、studia humanitatis、humanism、Bildung、Wissenschaft、humanities、人文学をつなぐ。
しかし、つなぎ方が太すぎる。
語の段差を潰している。
制度の違いを潰している。
翻訳の違いを潰している。
人文学を守るはずの文章が、人文学に必要な解像度を落としている。
これは、反人文学ではない。
だが、だからこそ危ない。
人文学を潰すのは、人文学不要論だけではない。
人文学をふわっと擁護する文章も、人文学を使えなくする。
専門性を守る顔で、概念を薄める。
教養を語る顔で、語の違いを丸める。
歴史を語る顔で、大きな道徳物語へ吸い込む。
それは、人文学の擁護ではない。
人文学の無能な味方である。
12. 修正パンチではなく、修正注釈
以前、finalvent について別の文章を書いた。
そこでは、finalvent は「読めるが退く」書き手として扱った。
今回は違う。
今回は、立つか退くかの話ではない。
語を分けられるかどうかの話である。
だから、今回は修正パンチではない。
修正注釈である。
humanitas は humanism ではない。
studia humanitatis は humanities ではない。
humanism は humanitarianism ではない。
Bildung は人格形成との切断ではない。
Wissenschaft は science ではない。
Geisteswissenschaften は humanities ではない。
人文学は、それら全部の同義語ではない。
注釈とは、細かい作業である。
派手ではない。
殴るより地味である。
だが、人文学においては、この地味な注釈が決定的である。
語がどこから来たのか。
どの時代にどう使われたのか。
どの制度の中で意味を持ったのか。
どの翻訳で何が落ちたのか。
どの語が、どの語と似ていて、どの語とは違うのか。
そこを見ることが、人文学の足腰である。
その足腰を飛ばして、「人文主義とは狂気に抗する人間理性のバリケードである」と言うことはできる。
言える。
美しく言える。
だが、それは人文学の文章としては弱い。
人文学は、きれいな結論を出すためにあるのではない。
語の汚れ、制度のねじれ、翻訳のずれ、歴史の段差を読むためにある。
そこを飛ばした人文学擁護は、結局、雰囲気になる。
13. 人文学を守るなら、まず「人文学」に丸めるな
ぼくは、人文学を切れと言っているのではない。
人文学は必要である。
数字に騙されないためにも必要である。
制度を読むためにも必要である。
政治を読むためにも必要である。
他国を読むためにも必要である。
古典を読むためにも必要である。
言葉を読むためにも必要である。
だが、だからこそ、人文学をふわっと擁護してはいけない。
人文学を守るなら、まず「人文学」という語を疑え。
humanitas を humanism に丸めるな。
studia humanitatis を humanities に丸めるな。
Bildung を雑な教養に丸めるな。
Wissenschaft を science に丸めるな。
Geisteswissenschaften を humanities に丸めるな。
humanism と humanitarianism を区別するなら、その前後の語も区別しろ。
日本語の「人文学」は、古代ローマからそのまま続く透明な器ではない。
翻訳語である。
制度語である。
大学語である。
日本語公共圏の中で、文系/理系、教養主義、アカデミズム、戦後教育、出版文化、カルチャー消費と絡みながら作られた語である。
だから、そこには段差がある。
その段差を読むことが、人文学である。
人文学を守るなら、まず人文学に丸めるな。
Word up.
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