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人文学と人文主義の歴史

また「令和人文主義」の話題か、もう十分だろうという声が聞こえてきそうですが、前回の話には決定的に欠けていた視点があり、これは一応中世研究者の自分としてはどうしても気になるので、追加的にまとめておきます。中心となるのは、この「人文学(Studia humanitatis)」と「人文主義(Humanitas)」という二つの言葉の間に横たわる緊張関係の歴史です。

「魂」を耕すということ

まず、時計の針を二千年戻して、古代ローマのキケロの時代に向かいます。彼にとって、人文学と人文主義の関係は、現代人が考えるような「知識」と「人格」といった分離したものではなく、もっと切実な「耕作」と「実り」の関係として構成されていました。

キケロは『トゥスクルム荘対談集』の中で「哲学は魂の耕作(cultura animi)である」と言っています。「魂のカルチャー(文化)」でもありますね。この言葉の背景には、当時のローマが共和政末期の政治的激動期にあり、暴力と陰謀が渦巻く「力の論理」が支配する世界だったという事実があります(実際、カエサルもキケロも暗殺されました)。つまり、人間は放っておけば容易に「獣」に堕ちる。その野蛮への重力に抗うための唯一の防波堤が「cultura animi」でした。生まれついたままの人間という荒れ地を、人文学という「農具」で徹底的に耕し、言葉の精度を極限まで高めることによってのみ、「人間(Humanitas)」という果実が得られる。これが人文主義になります。人文学は、ここでは政治的・社会的な生存戦略として統合されていたのです。日本語の漢語では、「涵養」ともいいますね。

ペトラルカの孤独と、十字軍という「皮肉」

さて、西ローマが滅び、いえゆる中世に入ると、この人間中心の回路は一度切断されたかに見えます。人文学の技術は修道院で保存されましたが(あるいは保存されたものだけが今日扱われているのですが)、その目的は「神への奉仕」へと書き換えられ、キケロ的な「人間であることの誇り」は教会の重厚な教義の下に埋没したかに見えました。

この状況を破ったのが、14世紀のフランチェスコ・ペトラルカです。彼が重要だったのは、修道院の埃まみれの書庫からキケロの書簡を発見し(伝承ですが)、「我々は古代の巨人たちとは違う、矮小な時代に生きている」という「歴史的距離」を自覚した点にあります。だからこそ彼は、俗世を離れて書物を通じて古代の死者たちと対話することを選びました。この「死者との対話」という孤独な営みが、近代へと続く人文主義の原点となります。いわゆるルネサンスにおける「人文主義」です。

ただ、私としては、歴史の巨大な皮肉についても触れなければなりません。いわゆるルネサンスの人文主義を支えたのは、プラトンをはじめとする「ギリシア語文献」の復活ですが、なぜ西欧から失われていたギリシアの知が、この時期に急激に流入したのか。

そのきっかけは、皮肉にも十字軍、特に1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープル略奪と、その後のオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落なのです。キリスト教世界が引き起こした暴力と、イスラム勢力の拡大という政治的激動が、結果として東ローマ帝国の学者たちをイタリアへ亡命させ、西欧に「ギリシアの知」という種を撒き散らしたわけです。エラスムスが後に掲げる「聖書の原点回帰」もまた、この血塗られた歴史のアイロニーの上に咲いた花であることを、私たちは直視すべきでしょう。というか、私の研究家としての課題はここにあります。

自由意志をめぐるエラスムス vs ルターの対立

そうして登場するのが、人文主義の王者デジデリウス・エラスムスです。従来のエラスムス像は「平和を愛する穏健な学者」といったものでしたが、思想史的な文脈で見れば、彼の立ち位置はもっとスリリングで、命がけの綱渡りでした。彼は「Ad fontes(源泉へ)」を掲げ、ギリシア語原典(ビザンチン・テキスト)による新約聖書の校訂(ラテン語)を行いましたが、今日的な視点からは、決定的なドラマは宗教改革者マルティン・ルターとの対決にあります。あえていえば、ルター的なものとの対決が「人文主義」なのです。

当初、二人は教会の腐敗をただすという点で共鳴していましたが、最終的に「自由意志」をめぐる論争で決定的に決裂します。エラスムスは、人間は教育、つまり人文主義である「耕作」によって変われると信じました。神の恩寵は必要だが、それを受け入れる人間の「自由意志(Libero Arbitrio)」は残されていると考えたのです。対してルターは、人間は罪によって完全に腐敗しており、自力で善をなすことなど不可能だとする「奴隷意志(Servo Arbitrio)」を主張しました。

この関連でルターはのちに、実際のところ近代ドイツ語の規範となる通称ルター聖書を作り上げるのです。が、私の研究者としての考えでは、このルター聖書は、エラスムスの業績のパクリなのです。ここには非常に大きな問題が潜んでいて、研究中です、ちなみに。

さて、エラスムスが守ろうとしたのは、キケロ以来の「耕作すれば、実る」という人間への信頼、すなわち本来の意味での「ヒューマニズム」の根幹と言えます。彼は狂信的とも言えるルター派と頑迷なカトリック派の双方から板挟みになりながら、「人間はいかに愚かであるか」という自覚こそが逆説的に人間を正気に保つという「寛容」の砦を、孤独に守り抜こうとしたのです。これには現代的な意義があります。

「ドイツ史観」の幻影と、近代の制度化

さて、歴史を顧みるとき、ここでまた注意が必要です。私たちが今語ったような「中世の闇」から「ルネサンスの光」へという劇的な物語――これは、実は19世紀の歴史家ヤコブ・ブルクハルトらドイツのアカデミズムが、近代精神の起源を求めて事後的に構成した一種の「幻影」なのです。こうした批判知識も「人文学」の面白いところです。

彼ら、つまり、近代ドイツ史家は、中世にも存在した人間性の探求(12世紀ルネサンスなど)を過小評価し、ルネサンスを「個人の解放」として理想化しすぎました。そして皮肉なことに、このドイツ的な「知の制度化」への情熱こそが、後の大学改革において人文学を「人文・科学」に変質させる元凶ともなります。

19世紀以降、人文学は「事実」を解明する専門技術となり、「人格形成」とのリンクは切断されました(この分離が「教養(Bildung)」かもしれません)。かくして、「人文学はあるが、人文主義者はいない」という現代の寒々しい風景は、皮肉にも「ルネサンス」を神話化した近代ドイツの大学制度が生み出した産物なのです。そして、この系譜の上に、近代日本の教養主義やアカデミズムの人文学も載っかっています。

日本の「誤読」と、狂気に抗する系譜

この日本という土壌においては、さらに奇妙なねじれが生じます。戦後の日本において本来の人文主義である「ヒューマニズム(Humanism)」は、「ヒューマニタリアニズム(Humanitarianism:人道主義・博愛主義)」と決定的に混同されて受容されました。

本来のヒューマニズム(人文主義)は、キケロやエラスムスが示したように、古典という農具で自己を厳しく耕す垂直的な「精神の涵養」です。しかし近代日本、とくに戦後日本では、それが「人間愛」や「優しさ」といった情緒的倫理へとすり替えられ、その思想的な牙が抜かれてしまったのです。そもそも日本には西洋的な文献学がなかったせいもあるでしょう。とはいえ、日本には日本独自の文献学があり、また、近代西洋の文献学にも大きな欠陥はあります。

とはいえ、日本にも、ある意味「本物」の人文主義の系譜は存在しました。エラスムスの「狂気に抗する知性」を、戦時下の日本で受け継いだ仏文学者、渡辺一夫です。彼は日本中が軍国主義という集団的狂気に酔いしれていた時、あえてラブレーやエラスムスの研究に没頭しました。それは現実逃避ではなく、「世の中全体が狂ってしまった時、人間が正気を保つためのシェルター」としての人文主義の実践でした。

そしてその弟子である大江健三郎は、ノーベル賞講演『あいまいな日本の私』において「私は渡辺一夫のユマニスムの弟子として」と宣言し、現代の「あいまい」な現実の中で、言葉によって魂の回復を試みる意志を表明しました。ユマニスムはフランス語読みで、英語ではヒューマニズム、つまり、人文主義です。

さて、歴史が教えてくれるのは、人文主義は決して優雅で高尚は教養主義などではなく、また優しい人間愛でもないという冷厳な事実です。それは、十字軍という暴力の歴史から皮肉にも生まれ落ち、ルターという宗教的熱狂との対決の中で鍛え上げられ、渡辺一夫たちによって密かに受け継がれてきた、「神がかった狂気に対する人間理性のバリケード」なのです。

現代の「令和人文主義」がこうした重苦しさを嫌うのは無理もありません、というかそれ以前にこうした歴史背景は知られていないでしょう。が、もし私たちが「人間」であり続けようとするなら、エラスムスがルターの前で踏みとどまったように、私たちもまた、この荒れ地で、本来の人文主義のあり方から、孤独にクワを振るい続けるほかないのは、あきらかです。神のような正義を語る者に、人文主義者は滑稽にも立ち向かうのです。

もちろん、それは「あなた」の課題ではないかもしれないという点は、安心材料かもしれません。あなたは、神の側、正義の側に居たいのかもしれません。


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