文化功労者の政治的断言は、実証社会科学ではない——山口一男氏の「戦後最悪」発言について

All eyes on…

山口一男氏がXで、高市政権について「戦後最悪の政権であると思います」「嘘と情報操作のみで成り立ち、かつ『自由で民主的な日本』にとって有害となる政策ばかり推進しようとしていると断言します」と述べていた。

山口氏は、本人が言う通り、文化功労者である。日本を代表する社会学者の一人であるという自己評価も、肩書としては成立する。そこは疑わない。

だからこそ問題である。

「戦後最悪」と言うなら、比較対象となる政権はどれなのか。評価軸は何なのか。経済なのか、財政なのか、外交安全保障なのか、行政手続なのか、報道自由度なのか、腐敗なのか、法の支配なのか。それらを総合評価するなら、どの指標にどの重みを置くのか。

少なくとも当該ポストでは、それらは示されていない。ただ「理由は余りにも多岐にわたりますが」と言い、「断言します」と結ぶだけである。

これは政治的意見としては自由である。しかし、文化功労者であり、統計・計量分析・EBPMに関わってきた社会学者の発言として読むなら、かなり問題がある。実証研究者が、自分の政治的嫌悪についてだけは評価指標も比較基準も反証可能性も示さずに「断言」する。それは実証ではない。権威をまとった政治的感想である。

ここで注意したいのは、山口氏の研究そのものを雑に否定するつもりはない、ということだ。

たとえば山口氏の企業生産性と女性活躍に関する議論は、「女性比率が高い企業ほど生産性が高い」という単純な主張ではない。WLB、女性社員の能力発揮、管理職女性割合、女性正社員の大卒度などを扱った、より限定された分析である。したがって、これを単純に「女を増やせば生産性が上がると言っている」と要約するのは不正確である。

しかし、そこにもなお問題は残る。

山口氏の議論は、しばしば「構造的障壁」を中心に組まれる。女性が活躍できないのは、日本企業の長時間労働、男性中心的な昇進構造、夫の家事育児参加不足、WLBの欠如が原因である。女性が結婚・出産しにくいのも、仕事と家庭を両立しにくい制度や慣行があるからである。

これは一部正しい。長時間労働が家庭形成を難しくしていること、出産後のキャリア毀損があること、家事育児負担が女性に偏っていることは、現実に存在する問題である。

だが、それだけではない。

高学歴化・高収入化した女性は、結婚市場において、同等以上の学歴、収入、文化資本、生活水準、コミュニケーション能力を男性側に求めるようになる。その結果、本人に結婚意思があっても、マッチング可能な相手は狭まる。これは単なる抽象的可能性ではない。現代日本には、勝倉千尋氏のような婚活インフルエンサー/婚活事業者が成立するだけの市場がある。高学歴・高収入・キャリア女性が、自分の年齢、市場価値、相手男性への条件、妥協可能性、成婚可能性を再計算する必要に迫られている。その需要があるから、そうした婚活ビジネスが成立している。

つまり、少子化や晩婚化は、「女性が産みたいのに制度に阻まれている」という物語だけでは説明できない。女性が結婚・出産よりも高い条件を満たす生活を選好している可能性。配偶者選択基準の上昇により結婚市場のミスマッチが増えている可能性。男性側の所得停滞や雇用不安定化によって、女性が結婚相手として許容できる男性プールが縮小している可能性。結婚・子育てそのものの主観的価値が低下している可能性。これらも、現象の説明として成立する。

もちろん、それが唯一の答えだと言うつもりはない。職場構造、WLB、夫の家事育児参加、出産後のキャリア毀損は重要である。しかし、山口氏の語りは、政策的に望ましい結論へ寄りすぎているように見える。

「女性の社会進出は悪くない。制度が整っていない日本が悪い」

この説明は美しい。政治的にも使いやすい。だが、美しい説明が正しいとは限らない。

女性の社会進出は、女性の選好、要求水準、市場交渉力、期待値を変える。その結果、結婚市場の均衡も変わる。これは反フェミニズムでもなければ、女性差別でもない。むしろ女性を主体として扱うなら、当然見るべき市場現象である。

女性を常に「制度に阻まれた被害者」としてだけ扱う方が、かえって女性を主体として扱っていない。

ここに、山口氏の議論の危うさがある。

統計分析そのものが捏造だと言っているのではない。研究がすべて間違っていると言っているのでもない。問題は、問いの設定である。何を変数として入れ、何をモデルの外に置くのか。どの現象を「構造的障壁」と読み、どの現象を「選好と市場の相互作用」と読むのか。そこで、結論の方向はかなり決まる。

そして、そのような限定つきの実証研究から、政治的・文化的断言へ飛躍するとき、問題は一気に大きくなる。

韓国コンテンツ評価にも同じ構造が見える。韓国ドラマや韓国サブカルに優れた作品があることは否定しない。私自身、韓国製ゲームである『ブルーアーカイブ』のファンである。しかし、ジェンダー表象や多様性表象を主たる評価軸にして韓国コンテンツを称揚し、そこから日本のサブカル全体の劣位を導くなら、それは文化比較として粗すぎる。

アニメ、漫画、ゲーム、キャラクター造形、世界観設計、テキスト密度、メディアミックス、二次創作圏の厚み。サブカルを比較するなら、見るべき軸はいくらでもある。ある特定の政治的・倫理的評価軸に適合する作品だけを拾い、それをもって文化的優劣を語るのは、比較ではない。自分の価値観に合うサンプルを並べているだけである。

山口氏の問題は、統計が読めないことではない。むしろ統計が読める人物が、政治や文化の話になると、自分の価値判断に合う評価軸だけを前面化し、その評価軸が世界全体を代表しているかのように語ってしまうことにある。

それは、実証社会科学の態度ではない。

少なくとも、文化功労者を名乗り、日本を代表する社会学者の一人であると自ら言う人物が、「戦後最悪」「嘘と情報操作のみ」と断言するなら、相応の比較基準と根拠を示すべきである。

示さないなら、それは学問ではない。

ただの政治的罵倒である。

追記:他にも問題のあるXポストばかりだ。

高市氏の米国議会経歴について疑義を呈すること自体は可能である。公式プロフィール上の “Congressional Fellow” と、日本語で使われた「米国連邦議会立法調査官」という肩書の間にズレがあるのではないか、という問いは成立する。しかし、そこから「英語もろくにできず博士号もないから米国では有り得ない」と断じるのは別である。これは肩書批判ではなく、語学力と学位によるcredentialismに近い。実証社会学者が言うべき批判ではない。


また、「スパイ法」についても、曖昧な秘密保護法制が思想統制や報道萎縮につながる懸念はある。しかし、アメリカにもEspionage ActやFARAがあり、イギリスにもNational Security Act 2023がある。民主主義国にスパイ・外国干渉・国家機密保護法制が存在すること自体は珍しくない。問題は、法の有無ではなく、構成要件の明確性、対象情報の限定、公益通報・報道・研究活動の保護、司法審査、議会監視、独立監督の制度設計である。そこを比較せず、「スパイ法=民主主義後退」と断じるのは、比較法として粗い。

結局、これでは学問ではなく、肩書き付きの政談だ。
Word up

追記

その後、山口氏は『肩書を誇示』『権威主義』との批判に対し、米国大学教授としてではなく、日本の社会政策に関わり、日本の現在にウチから危機意識を持つ者として肩書を入れた、と説明した。しかし、この説明は論点をずらしている。批判されているのは、肩書を出したことそれ自体ではない。肩書を出したうえで、強い政治的断言に必要な比較基準・一次資料・制度比較を示していないことである。『危機意識』は根拠ではない。むしろ危機意識を掲げるなら、通常以上に、具体的制度、比較対象、因果関係、評価基準を明示しなければならない。

山口氏が日本の社会政策に関わってきたことは事実である。少子化、WLB、男女共同参画、労働市場における男女不平等について、RIETI等で研究・政策提言を行ってきた。しかし、それは安全保障法制、緊急事態条項、スパイ防止法制、あるいは内閣の歴史的評価についての包括的権威ではない。専門領域での実績を、専門外の政治的断言へ拡張するなら、それこそ『権威主義』と呼ばれても仕方がない。

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