記号論者が記号を潰すとき――石田英敬の「万世一系」発言と「男系男子」発言について
石田英敬氏が、Xで皇統をめぐって二つの発言をしていた。
一つは、「『万世一系』はフィクションだということはまともな現代人には常識だと思っていた」というもの。
「万世一系」はフィクションだということはまともな現代人には常識だと思っていたが、そのリテラシーももはや広く共有されていなくなっていたのか? https://t.co/iJVeszHHnj
— 石田英敬 (@nulptyx) July 1, 2026

もう一つは、皇室典範改訂法案について、「『男系男子』とかしたり顔でいう輩の『我がもの顔』を野放しにしてはいけない」とし、それを「男尊女卑イデオロギー」「人間の尊厳の蹂躙」と結びつけるもの。
「皇室典範」改訂法案は、「男尊女卑イデオロギー」をいま日本全体にまき散らしている。
— 石田英敬 (@nulptyx) July 2, 2026
「人間」の尊厳を蹂躙している。
報道する側も、良心と倫理があるならば、この点によくよく注意する必要がある。
このネガティブな効果に対する「対策」と「ケア」が必要なはず。…

この二つの発言は、単に反天皇制的だから問題なのではない。そういう政治的立場は、別にあってよい。
問題は、石田氏が記号論・メディア論の研究者でありながら、そこで扱われている記号、制度、物語、メディア的反復、政治的フィクションを、ほとんど分解せず、粗雑な政治的スローガンへ圧縮していることである。
「万世一系」は、近代実証史学上、神武天皇以来の全系譜をそのまま証明できる生物学的命題ではない。そこまではよい。だが、それを「フィクションだ」と言って終わらせるなら、国民も、主権も、憲法も、共和制も、人権も、国家も、すべてフィクションである。
どれも自然物ではない。どれも、人間が言葉、儀礼、制度、教育、記録、表象、承認を通じて構成してきたものである。
だから問題は、「フィクションかどうか」ではない。
そのフィクションが、どのような制度的現実を作ってきたのか。どのような共同体の自己理解を支えてきたのか。どのような権威と権力の配置を可能にしてきたのか。これを問うのが、本来の記号論的・メディア論的な仕事ではないのか。
「万世一系」は、ただのDNA命題ではない。神話、系譜、儀礼、宮中祭祀、歴史叙述、教育、報道、国家儀礼、皇位継承実務を通じて、日本国家の時間的連続性を表象してきた記号装置である。そこには当然フィクション性がある。だが、フィクション性があることは、虚偽であることと同じではない。
政治共同体は、制度化されたフィクションによって成立する。
それを「フィクションだから終わり」という調子で処理するなら、それは記号論ではない。単なる俗流啓蒙である。
もう一つの「男系男子」発言も同じである。
「男系男子」を聞いた瞬間に、「男尊女卑イデオロギー」「人間の尊厳の蹂躙」と処理している。しかし、ここでもまず分けるべきものを分けていない。
歴史上、女性天皇はいる。だから「男子限定」については、歴史上の女性天皇の存在を踏まえて論じる余地がある。
しかし、その女性天皇はいずれも男系女子であって、女系天皇ではない。つまり、女性が即位した先例はあるが、女系継承の先例があるわけではない。
ここで区別すべきなのは、「男子」と「男系」である。
「男子限定」は、明治以降に制度として成文化された要素であり、女性天皇の先例との関係で議論可能である。
だが「男系」は、皇統を父系でたどる王朝原理であり、歴史上確認できる皇位継承の基本線である。これを単に「男尊女卑」と呼ぶなら、皇統の継承原理を、一般市民社会の男女平等論へ無媒介に置き換えているだけである。
皇位継承は、一般企業の採用でも、大学入試でも、普通選挙でもない。世襲王朝の継承制度である。そもそも世襲制そのものが、近代的な個人の自由競争や平等原理とは別の原理で動いている。
そこに「人間の尊厳」をそのままぶつけるなら、男系男子以前に、皇族制度そのもの、世襲そのもの、君主制そのものを否定しなければ筋が通らない。
ところが石田氏の発言では、そこが整理されていない。
「男系」と「男子」を潰す。
「女性天皇」と「女系天皇」を潰す。
「王朝原理」と「一般市民社会の男女平等」を潰す。
「制度的フィクション」と「虚偽」を潰す。
その結果、残るのは「まともな現代人」「男尊女卑」「人間の尊厳」といった、道徳的に強いが、制度分析としては粗い言葉だけである。
これは、記号論・メディア論の研究者がやるべきこととは逆である。
記号論・メディア論の仕事は、記号を雑に道徳語へ圧縮することではない。むしろ、ある語がどの文脈で、どの制度に接続され、どのメディアを通じて反復され、どのような現実を構成しているのかを分節化することである。
「万世一系」「皇統」「男系」「男子」「女性天皇」「女系天皇」「皇室典範」「尊厳」「男尊女卑」。
これらは、同じ平面の言葉ではない。それぞれ、歴史的レイヤー、制度的レイヤー、王朝原理のレイヤー、近代法制のレイヤー、一般道徳のレイヤーに属している。
それを分けずに、「フィクション」「男尊女卑」へ圧縮する。
それは専門知の行使ではない。政治的合図である。
もちろん、皇室制度を批判すること自体は可能である。天皇制を廃止すべきだという立場も、女性天皇を認めるべきだという立場も、女系天皇を認めるべきだという立場も、それぞれ論じればよい。
だが、その場合でも、最低限の分解は必要である。
万世一系は実証史学的命題なのか、政治神話なのか、制度的フィクションなのか。
男系継承は血統差別なのか、王朝原理なのか。
男子限定は歴史上一貫した原理なのか、近代法制上の成文化なのか。
女性天皇の先例は、女系天皇の先例なのか、それとも男系女子の即位例なのか。
ここを分けずに、「まともな現代人なら常識」「男尊女卑イデオロギー」「人間の尊厳の蹂躙」と言うだけなら、それは論ではない。
記号論者が、記号を読まずに潰している。
メディア論者が、メディア上の政治的合図そのものになっている。
この二つの発言の問題は、そこにある。
石田氏は「万世一系」をフィクションとして虚偽化し、「男系男子」を男尊女卑として道徳化している。だが、どちらも本来は、制度化されたフィクション、王朝原理、皇統の継承形式、国家の自己表象として分析されるべき対象である。
そこを分析せず、スローガンに圧縮するなら、記号論・メディア論の看板は何のためにあるのか。
少なくとも、この二つの発言を見る限り、皇統に関する石田氏の認識は、学問的にも制度論的にも雑である。
そしてより深刻なのは、その雑さが、まさに記号論・メディア論の専門家として一番やってはいけない種類の雑さだということである。
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