映画『国宝』は、配信で観直すと「演技の映画」になる
※この記事には映画『国宝』のネタバレが含まれます。未鑑賞の方はご注意ください。
劇場で観た映画『国宝』は、私にとって「物語の映画」だった。
吉沢亮さん演じる喜久雄の壮大な人生に圧倒され、ラストの鷺娘で言葉を失った。観終わったあとも、しばらく席を立てなかったのを覚えている。
でも、Amazonプライムで配信が始まって、家で何度も巻き戻しながら観直したとき、まったく別の顔が見えてきた。
『国宝』は、「物語の映画」であると同時に、「演技の映画」でもあったのだ。
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劇場では、流れていってしまうもの
映画館で観ているときは、どうしても物語の流れや映像の迫力に意識が引っ張られる。次々と展開していく喜久雄の人生を追いかけるだけで、頭がいっぱいになる。
でも配信なら、一時停止できる。巻き戻せる。同じ場面を、何度でも観られる。そうやって観直して初めて、私は気づいた。
この映画には、セリフではなく「間」や「目線」だけで感情を語る瞬間が、いくつも埋め込まれていたのだ。
たとえば、稽古の場での師匠からの叱責を受ける場面。劇場では「怒られているシーン」として流れていくのに、配信で一時停止すると、喜久雄の目の中にある「屈辱と覚悟」が見えてくる。
吉沢亮——「うまく踊る」を、超えていく
喜久雄を演じる吉沢亮さんは、野心も嫉妬も孤独も、大げさには見せない。
あとで知ったことだけれど、吉沢さんは1年半かけて「いかにうまく、きれいに踊るか」を稽古したそうだ。それなのに監督から求められたのは、うまく踊ることではなく、喜久雄として踊ることだったという。
この話を知ってから観直すと、ハッとする場面がある。曽根崎心中の稽古で、喜久雄が自ら頬を打つ場面だ。セリフはない。ただその一打で、次の瞬間には「お初」になっている。打った頬の痛みごと、お初の哀しみに変えてしまうような目。劇場では一瞬で流れていったその表情を、配信で巻き戻して、何度も確かめてしまった。
これはもう「うまい踊り」ではない。喜久雄という男が、そこで生きている。
地方のビルの屋上で、一人きりで舞う場面も忘れられない。落ちぶれてボロボロのはずなのに、その姿は目を離せないほど美しかった。感情を抑え込んだその底から、芸への執念だけが静かに立ちのぼってくる。抑えるほど雄弁になる芝居というものを、初めて観た気がした。
横浜流星——抑えても、こぼれてしまう芝居
俊介を演じる横浜流星さんの芝居は、また質が違う。
喜久雄が感情を「抑え込む」芝居なら、俊介は抑えても「こぼれてしまう」芝居だ。隠しきれない喜久雄への複雑な思いが、姿勢や視線の端々に表れている。
特に印象に残ったのは、喜久雄と二人で舞う「二人道成寺」。同じ振りを、同じ舞台で踊っているはずなのに、二人が纏う空気はまるで違う。配信で一時停止しながら見比べて、その違いこそが「この二人の関係」なのだと気づいたとき、鳥肌が立った。
御曹司なのに、いちばん「血」にとらわれ、もがき続けるのが俊介だ。色気をまとう喜久雄の隣で、俊介はどこまでも華やかに、可憐に舞う。けれど舞台を降りた俊介の目は、いつもどこか満たされていない。その落差を、横浜さんは台詞ではなく、表情と佇まいだけで見せていた。
そしてその二人の傍らに、いつも渡辺謙さん演じる半二郎がいる。若い二人の芝居が張りつめるほど、半二郎の存在感は静かに、重くなっていく。
渡辺謙——若い二人を、静かに支える芝居
喜久雄と俊介、二人の「父」であり「師」でもあるのが、渡辺謙さん演じる花井半二郎だ。
上方歌舞伎の名門・花井家の当主。任侠の世界から来た喜久雄の才能を見抜き、わが子のように引き取って芸を仕込む。実の息子・俊介がいながら、舞台の大役の代役に喜久雄を選ぶ——あの場面の、何かを飲み込むような表情が忘れられない。
配信で観直してまず思ったのは、この人がいるから画面が崩れない、ということだ。若い二人の張りつめた芝居の隣で、半二郎だけが、どっしりと構えている。声を張り上げるわけでも、大きく動くわけでもない。ただそこにいるだけで、場面に芯が通る。
渡辺謙さんは、劇中で「連獅子」と「鶴亀」を踊るために、4か月ほど稽古を積んだという。吉沢さん・横浜さんの1年半に対して、わずか4か月。それでもベテランがその期間で見せる所作の説得力には、また別の凄みがあった。
病床で、喜久雄にお初の稽古をつける場面。教える側なのに、その目の奥にも、芸への執念と、息子への複雑な思いが滲んでいる。主役ではないのに、ここでも「演技の映画」だった。
歌舞伎の所作が演技になる——『国宝』最大の見どころ
そして何より驚かされたのは、歌舞伎の所作そのものが演技になっていることだ。
吉沢亮さんと横浜流星さんは、四代目中村鴈治郎さんの指導のもと、1年半をかけて歌舞伎の稽古を積んだという。歩き方、お辞儀、たたずまいといった基本動作から始め、女形の所作まで。同じ演目を同じ先生に習っても、演じる人によって魅せ方は変わるという。色気をにじませて舞う喜久雄と、可憐で華やかに舞う俊介。そのふたりの違いが、画面の所作そのものに表れているように感じた。
手の動きひとつ、首の傾きひとつに、積み重ねた時間の重さがある。とりわけ女形で指先をゆっくりと返す瞬間、「これは踊りではなく、感情だ」と気づいたとき、思わず息をのんだ。
舞っているのに、芝居をしている。芝居をしているのに、舞っている。
その境目がなくなる瞬間が、配信で巻き戻すたびに見つかる。
同じ映画を、二度味わう
映画館で初めて観たときは、「壮大な人生の物語だった」という印象だった。
それが配信で観直すと、「才能と執念を抱えた人間たちの、感情の物語だった」に変わっていた。
劇場では、物語に身をゆだねて「体験」する。配信では、巻き戻しながら演技を「観察」する。同じ映画なのに、まるで二本の作品を観たような気持ちになる。
『国宝』をもう観たという人も、ぜひ一度、配信で観直してみてほしい。一時停止して、役者さんの目や手や背中を、じっくり眺めてみてほしい。
きっと、初めて気づく「もう一つの『国宝』」が、そこにあるはず。
映画館での体験と、鷺娘のラストシーンについては、前回の記事にまとめています。あわせて読むと、この映画の全体像が、もっと立体的に見えてくるはずです。
あなたが『国宝』の演技で印象に残った場面があれば、ぜひコメントで教えてください。どのカットで巻き戻したか、気になります。
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