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鷺娘とは——映画『国宝』のラストがもっと刺さる演目入門

※この記事は、映画『国宝』のラストシーンと、歌舞伎演目「鷺娘」の結末に触れています。

映画『国宝』のラスト、あの雪の中の「鷺娘」で泣いた人に、お伝えしたいことがあります。

あの涙には、ちゃんと答え合わせがあります。

「鷺娘」がどういう演目なのかを知ると、あのラストシーンの意味が、もう一段深いところで刺さってくるんです。実は私、映画館で初めて観たあとに鷺娘のあらすじを調べてから、2回目を観に行きました。結果、あのシーンへの没入はまるで別物でした(感想記事で「一番泣いたのは2回目」と書いた理由の半分は、たぶんこれです)。今日はその答え合わせを、一緒にやらせてください。


鷺娘とは——260年以上前から、雪の中で舞い続けている

「鷺娘」は、長唄に乗せて舞う歌舞伎舞踊です。初演はなんと宝暦12年(1762年)、踊ったのは当時の人気女形・二代目瀬川菊之丞。その後、明治の劇聖・九代目市川團十郎が復活させて人気演目になり、現代では坂東玉三郎さんの当たり役として知られています。

つまり江戸時代からずっと、雪の中で恋に苦しみ続けている娘がいるわけです。江戸の観客も、私たちと同じ沼に落ちていたと思うと、ちょっと愉快ですよね。

物語はシンプルです。雪の降る水辺に、白鷺の精が娘の姿になって現れる。人に恋をしてしまった鷺は、その想いの行き場のなさに苦しみ、やがて——という話。「恋に苦しむ娘の心を、白鷺の姿に重ねた」演目だと言われています。


物語は「白」から始まる

幕が開くと、舞台は一面の雪景色。娘は白無垢の振袖に黒い帯、頭には綿帽子、手には傘。

全身ほぼ白。つまり登場した瞬間の鷺娘は、雪と見分けがつかないような、この世のものではない存在として立っているんです。映画『国宝』のラストで、私たちが最初に目にするのもこの姿です。


白が赤に変わる——「引き抜き」が意味するもの

そして来るのが、あの瞬間です。

前回の感想記事で「白い着物が鮮やかな赤に変わった一瞬で胸が震えた」と書きました。あの衣装替えは「引き抜き」と呼ばれる歌舞伎の早替えの技法で、仕掛け糸を抜くと一瞬で衣装が変わります。

ただ、ここで大事なのは技法より意味のほうです。

白は、雪であり、鷺であり、人ではないものの無垢。赤やそのあとに続く華やかな衣装は、恋する娘の情念。つまりあの一瞬は、人ならざるものが、恋によって「人間」になる瞬間なんです。

色が変わっただけで泣けたのは、観ているこちらが理屈より先に、その変身を受け取っていたからだと思います。

この記事が面白くなってきた方は、ここでスキを押しておいてもらえると、続きを書く私の燃料になります。


ラストは地獄——それでも、美しい

ここからが「鷺娘」の本当にすごいところです。

恋の喜びを舞った娘は、やがて鳥の本性に引き戻されていきます。終盤に描かれるのは、畜生の身でありながら人に恋した罪ゆえの責め苦——と解釈されています。雪の中、娘は苦しみにのたうちながら、それでも舞い続け、息絶えるように幕となります。

恋をしただけで地獄行き。江戸時代、発想のスケールが違います。

でも、この演目が今日まで残った理由はそこです。苦しみの極みと、美の極みが、同じ身体の上に同時に存在する。「鷺娘」は、美しさと引き換えに何かを差し出す物語なんです。


なぜ、ただの恋で地獄に落ちるのか——仏教の視点

ここ、引っかかりませんか。恋をしただけで、なぜ地獄なのか。背景には仏教の世界観があります。

仏教には「六道」という考え方があります。生き物は死後、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の6つの世界のどこかに生まれ変わるというもの。ポイントは、鳥である鷺は「畜生」、つまり生まれた時点で人間より下の、苦しい場所にいる存在だということです。

そのうえで、鷺が責め苦を受ける理由には、大きく2つの見方があります。

  • 殺生の罪: 鷺は魚を獲って生きる鳥です。生きているだけで毎日、命を奪っている。その報いが責め苦になるという見方。本人——いや本鳥——に悪気は一切ないのに、生きるだけで罪が積もっていく切なさがあります

  • 恋という執着: 仏教では、強い想い=煩悩こそが苦しみの源とされます。人の姿になって恋を知った鷺は、その喜びも切なさも、まるごと「執着」として抱えてしまった。そう、あの白から赤への引き抜きは、燃え上がる煩悩の象徴とも読めるんです

どちらを強く取るかは、研究者や演じる人によって違うそうです。ただ、根っこに流れているものは共通しています。清らかで美しいものほど、生きることの罪や苦しみから逃れられない——という無常観です。真っ白な鷺が恋を知り、罪を背負い、雪の中で力尽きる。この「美しさ」と「救われなさ」の同居が、今日まで観る人の胸を打ち続けてきたわけです。


なぜ『国宝』のラストは「鷺娘」だったのか

ここまで来ると、もう言葉にしなくても伝わる気がしますが、あえて書きます。

喜久雄は、芸のために人の世の幸せをほとんど差し出してきた男です。その男が最後に舞うのが、人に恋した罪で責め苦を受け、それでも美しく舞い続ける鷺。つまりあのラストは、喜久雄の人生そのものを、260年前の演目に重ねた二重写しになっているんです。

仏教の言葉を借りるなら、恋も芸も「執着」です。執着に人生のすべてを捧げた男が、執着ゆえに堕ちていく鷺を舞う。喜久雄に鷺娘を舞わせる——この映画は、つまりそういうことです。

雪の中で白が赤に変わるあの瞬間に、3時間分の物語が全部流れ込んでくる。私たちが泣いたのは、鷺娘と喜久雄、ふたつの人生を同時に観ていたからなんだと思います。


本物の「鷺娘」に会いに行く

映画でこの演目に出会ってしまった人へ。鷺娘は、今も生きている演目です。

私はこの映画をきっかけに、坂東玉三郎さんのシネマ歌舞伎『鷺娘/日高川入相花王』を観ました。最初から最後まで、ただただ美しくて、ここでもまた言葉にならない感動を味わうことになりました。映画から歌舞伎に入った人間でも、ちゃんと受け止めてもらえます。

  • まずは配信で『国宝』のラストをもう一度。演目の意味を知ってから観ると、本当に別物です

  • 次の一歩には、坂東玉三郎さんのシネマ歌舞伎『鷺娘/日高川入相花王』がおすすめです。当代の代名詞と言われる鷺娘を、映像で最初から最後まで観られます

  • 演目の詳細は文化デジタルライブラリーの解説が信頼できます

私の次の目標は、生の「鷺娘」を観ることです。260年前の沼、一緒に落ちましょう。


あなたは『国宝』のラスト、演目の意味を知る前と後で、見え方が変わりましたか? ぜひコメントで教えてください。

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『国宝』については、映画館で3回観た感想と、配信で観直して気づいた「演技の映画」としての顔、字幕で観るお勧めも書いています。

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