すべては塩から始まった 大鹿村の天然「塩ステーション」から、南朝秘密回廊・松平・尾張・徳川・幕末までつないでしまった巨大ネタ帳
最初に言っておく。
これは歴史学の論文ではない。
現地を歩き、村史を読み、土地の人から話を聞き、昔から自分が抱えていた妄想と史実と伝承を混ぜながら、「これ、もしかしてこういうことだったんじゃないの?」と遊ぶための、舞野ファーストの巨大ネタ帳である。
史実も出てくる。
地域伝承も出てくる。
系譜伝承も出てくる。
現地で地形を見て思いついた仮説も出てくる。
最後には俺の小説設定まで出てくる。
それらを全部同じ「史実です」という顔で並べるつもりはない。
むしろ逆だ。
「それ伝承だぞ」
「その系図は後世のものだぞ」
「中央構造線を中世人が意識して歩いていた証拠なんてないぞ」
知っている。
だから面白がっているのである。
かなり長い。
飽きたら遠慮なくバック推奨。
今回の記事は、未来の俺が小説を書くとき、「あのとき大鹿村で何を考えていたんだっけ」と掘り返すために残しておく地層みたいなものだ。
そして今回、その地層の中心から出てきたものは、北条時行でもなければ、宗良親王でもなければ、松平城でもない。
塩である。
山の中に塩がある。
たったそれだけの話から考え始めたら、なぜか最後には江戸幕府まで滅亡した。
自分でも意味が分からない。
1 3年ぶりの大鹿村は、史跡が急にこちらへ歩いてきていた
久しぶりに大鹿村へ行った。
以前に来たときは、香坂高宗の墓を探すだけでも大変だった。山へ入っていって、「本当にこっちで合っているのか」「熊が出てきたらどうするんだ」という感じだった記憶がある。
ところが今回は案内がずいぶん整備されている。
『逃げ上手の若君』の影響もあって北条時行関係の展示が増え、道の駅には松井優征先生の足跡まである。


信濃宮。
大河原城。
香坂高宗。
宗良親王。
松平城。
中央構造線。
看板を見るたびに名所が出てくる。
京都の観光地ならまだ分かる。
ここ長野県の山奥だぞ。



しかも宗良親王について、大鹿村は、興国4年(1343)に香坂高宗に迎えられて大河原城に入り、その後30余年をこの地の拠点として過ごしたと伝えている。大鹿村観光協会も、大河原を拠点に親王が諸国へ何度も往来したとしている。(大鹿村公式サイト)
30年以上。
これがずっと引っかかる。
「追われた皇子が山奥へ逃げ込みました」なら分かる。
でも30年以上となると話が変わる。
そこは避難場所ではない。
生活拠点であり、政治拠点であり、軍事拠点であり、ネットワークの結節点だったのではないか。
では、なぜ大河原だったのか。
その答えを考えていたところで、今回とんでもなく存在感を増したのが鹿塩だった。
2 今回の主人公、鹿塩
大鹿村には鹿塩温泉がある。
中央構造線博物館の解説によれば、鹿塩では山中にもかかわらず海水に近いほど濃い塩水が湧き、その塩水を利用して明治期には製塩まで行われていた。現在の研究では、単純に「昔の海水がそのまま地下に閉じ込められていた」という話ではなく、沈み込むフィリピン海プレート由来の水が地下深部から上昇し、岩石との反応を経ながら中央構造線などの割れ目を通ってきたものと考えられている。(MTL Muse)
要するに、
山の中から塩水が出る。
これがすごい。
細かい地球化学はもちろん大事なのだが、今回は中世人目線で考えたい。
山に長期間籠もって生活するとする。
米は作れる。
雑穀もある。
山菜もある。
獣もいる。
川魚もいる。
水はある。
しかし塩は別だ。
人間は塩なしでは暮らせない。
しかも塩は味付けだけではなく、漬物や保存食、味噌や醤油などの食文化にも関わる。
普通なら、山岳拠点を維持するほど外部から塩を運び込む必要が出てくる。
ところが大鹿には、
そのへんから塩水が出る。
いや強い。
俺の脳内では完全に、
鹿塩サービスエリア・塩分補給所
である。
もちろん中世の鹿塩利用がどの程度だったかは今後さらに詰めたい。
だが「この山域には天然の塩水資源が存在する」という地理的条件そのものは巨大だ。
しかも必ずしも、毎回きれいな結晶塩まで加工しなければならないわけではない。
塩水として汁物や調理に使えるなら、
雑に塩分が取れる。
これが大事なのだ。
大河原を長期拠点として考えたとき、いきなり見え方が変わった。
ここはただの山奥ではない。
籠城生活に必要な塩が、自前で出てくる山奥なのである。
3 しかし本当にすごかったのは「塩」だけではなかった
現代の地図で大鹿村を見ると、松川町側から小渋川沿いに入っていく道が目につく。
俺自身も車で走っていると、どうしても「こちら側が大鹿の入口」という感覚になる。
だが村史を読んでいて、ここで頭の中の地図がひっくり返った。
現在はトンネルがあり、ダムがあり、治山や砂防が行われ、道路が通っている。
しかし当然、中世にはそんなものはない。
昔の小渋川筋は、現在の車道から想像するような「谷沿いの便利な進入路」ではなかった。
深く険しい峡谷。
俺の理解では、軍勢がまとまって西側から「はい大河原へ攻め込みます」と進めるような道ではない。
現代の道路を見て昔の交通を考えると、ここを完全に誤読する。
松川方面は入口ではない。壁だったのではないか。
この発想がものすごく重要だ。
4 敵には道がない。こちらには道がある
そして今回もう一つ面白かったのが、逆方向だ。
西側から敵軍が小渋川を強引に登ってくるのは難しい。
しかし大河原側の人間は、土地を知っている。
秘密の尾根筋や山道を使えば、高所へ出て松川方面、伊那谷方面を探ることができたのではないか。

実際、現在でも大鹿村境付近の尾根から伊那谷を大きく見渡せる地点があり、伊那市も分杭峠南方の尾根から伊那谷や中央アルプス方面を一望できることを紹介している。もちろん現在の登山道と中世の警戒路を同一視するものではないが、「尾根へ上がれば西側を見張れる」という地形的可能性自体はよく分かる。(イナシティ)
これを防御側から見る。
敵はこちらへ入る道を知らない。
でもこちらは敵を見に行く道を知っている。
敵には道がない。
こちらには道がある。
敵からはこちらが見えない。
こちらは高いところから敵を探れる。
無茶苦茶いやらしい。
大軍同士が平地で殴り合う必要がないのだ。
敵がまだ遠くにいる段階で発見する。
「来たぞ」
それだけ分かればいい。
なぜなら大河原側には、その次の防御手段があるからだ。
5 松平城は「城」というよりセンサーだったのではないか
今回あらためて松平城周辺を見て思った。
松平城は、大河原の奥へ入っていく谷の玄関口を監視する場所として考えると非常に面白い。

俺の仮説では、松平城は敵をそこで全部撃破する巨大決戦要塞ではない。
早期警戒拠点。
人が来る。
軍勢が動く。
煙が上がる。
異常が起きる。
それを奥へ知らせる。
そこから大河原城、御所へ情報が走る。
もっと外側の尾根にも警戒網があったのなら、
尾根の監視
→ 松平城
→ 大河原
→ 御所
と何段にも情報が伝わる。
そして地元の人から聞いた話が、ここで最後の一枚を埋めた。
6 大河原御所は普段住み。御所平はシェルター
最初、俺は大河原御所と御所平を一緒くたに考えかけていた。
違う。
俺が現地で聞いた話では、大河原御所は普段暮らす場所。


そして足利方などの攻撃が迫ったときには、そこからさらに山奥の御所平へ退避したという。
大鹿村公式にも「御所平寓居跡」が宗良親王ゆかりの場所として紹介されている。公式説明では親王が御所平に長く住んだという伝承を採っているので、「平時の御所/非常時の御所平」という厳密な使い分けについては、俺が現地で聞いた話との関係を今後さらに確認したい。(大鹿村公式サイト)
ただし今回の現地仮説としては、この役割分担が猛烈に面白い。
大河原御所が官邸なら、
御所平はシェルター。
敵が接近したら御所に籠城して死守するのではない。
捨てる。
人間をもっと山奥へ移す。
そして敵軍が苦労して到着したころには、
もぬけの殻。
これだ。
7 大河原の必勝法。「敵を倒さない」
ここで大河原の防御思想が一気に見えた気がした。
敵を倒す必要がない。
敵が来たら消える。
足利方の軍勢が山を越えて大河原までやってくる。
食料を背負っている。
武器もある。
兵もいる。
苦労して御所へ到着する。
ところが誰もいない。
「宗良親王はどこだ?」
知らん。
もっと山奥。
では捜索する。
しかし、地元の人間しか知らない谷、尾根、沢、山腹を軍勢が探すのは大変だ。
一日探す。
二日探す。
三日探す。
見つからない。
そして攻め手だけには、確実に減っていくものがある。
兵糧。
守る側には地元の水がある。
山の食料がある。
そして鹿塩には塩まである。
一方で遠征軍は、補給線の先にいる。
つまり大河原側は敵軍を撃破しなくてもいい。
山に食わせればいいのである。
敵兵の腹を山が削っていく。
宗良親王を発見できなければ、やがて撤退しなければならない。
「帰るぞ」
バイバイ。
そして敵が帰ったころ、大河原側は御所平から下りてくる。
また生活する。
もし本当にこういう運用だったなら、攻める側からすれば腹が立つなんてもんじゃない。
城を落としたのに、戦争に勝っていない。
この思想こそ、宗良親王が30年以上この山域を拠点にできた理由の一つだったのではないか。
8 ここで思った。「これ、ミニ吉野じゃないか?」
俺はまだ吉野へ行ったことがない。
だから現地比較はこれからの宿題である。
しかし大河原の構造を考えていて、ふと頭に浮かんだ。
これ、吉野と同じ防御思想なんじゃないか?
南朝の本拠吉野も、平地に巨大な城壁都市を築いて敵を迎え撃つタイプの場所ではない。
山中へ政治拠点を置き、山岳地形そのものを防御に利用する。
そして宗良親王は、その吉野側の皇子である。
ならば、
吉野で知っていた山岳政権の思想を、信濃に持ち込んだのではないか。
大河原を単なる隠れ家ではなく、
信濃版のミニ吉野
として作ったのではないか。
もちろん証拠ではない。
虚構推理である。
でも構造はよく似て見える。
普段住む政治拠点がある。
その周囲を山で守る。
敵の接近を監視する。
危険になればさらに奥へ退避する。
しかも大河原には塩水まである。
吉野本店に対して、
信濃支店、設備が妙にいい。
9 しかも大河原は「袋小路」ではない
ここがさらに重要だ。
大河原がどれだけ守りやすくても、完全な袋小路なら軍事拠点としての価値は限られる。
しかし北側には高遠方面へ抜ける道がある。
分杭峠は大鹿村と伊那市長谷の境にあり、現在も「秋葉街道」として利用されてきた峠だと伊那市が説明している。(イナシティ)
つまり、
高遠 → 分杭峠 → 大鹿

という南北方向の山岳交通がある。
そしてそのまま南へ意識を伸ばせば、秋葉街道方面から遠州へつながっていく。
西側の小渋川からは大軍が入りづらい。
でも北と南には、土地を知る者が利用できる山岳交通がある。
これ、とんでもなく都合がいい。
敵には入りにくい。
味方は出入りできる。
防御拠点として理想的じゃないか。
10 だから200年後、武田が来る
ここで時代を200年ほど飛ばす。
俺は以前、大河原周辺に山本勘助や武田関係の話が出てくるのを見て、
「なんで甲斐の武田軍がわざわざこんな山奥に?」
と思っていた。


でも今日の地理で考えると、逆だった。
来る理由しかない。
高遠を押さえる。
そこから分杭峠を越える。
大河原へ入る。
さらに南へ進めば秋葉街道方面から遠州、三河へ向かえる。
武田が遠州・三河方面を意識するなら、この山岳回廊を把握し、押さえることには意味が出てくる。
つまり大河原は、
「山奥なのに武田が来た」
のではない。
山奥だからこそ、山の交通網を支配する武田が来た。
という読み方ができる。
そしてまた鹿塩へ戻る。
山岳部隊がここを通る。
塩水がある。
俺の妄想が再び始まる。
味噌汁でもいい。
汁物でもいい。
水で適当に薄めて塩分補給でもいい。
戦国スポドリ。
これは完全に妄想である。
しかし、山岳交通上に塩資源があるという事実の面白さは変わらない。
南朝にも使える。
武田にも使える。
時代が違っても、大河原の地理的価値は残る。
だから山本勘助の存在を、
「200年後の軍事専門家が、大河原の交通価値を再証明しに来た」
くらいの役割で記事に置くと猛烈においしい。
11 北には諏訪。では南へ行ったらどこへ出る?
宗良親王は大河原に30年ただ座っていたわけではない。
大鹿村側の説明でも、ここを拠点に諸国を往来したとされている。(大鹿村観光)
北へ行けば諏訪方面。
北条時行との関係を考えても、南朝側にとって東国の重要な接続先になる。
では南は?
ここから今日の第二の巨大妄想が始まった。

大河原から南へ。
ただし伊那谷の主要部を堂々と通る必要はない。
飯田方面を避けながら山岳部を進む。
浪合。
稲武。
そこから三河街道方面へ。
足助。
長久手。
そして尾張へ出る。
その先にあるのが、
熱田。
12 熱田はただの港ではない。三種の神器がある
ここで急に話が濃くなる。
熱田神宮の御神体は、三種の神器の一つである草薙神剣。
熱田神宮自身が、主祭神である熱田大神を、草薙神剣を御霊代とする天照大神として説明している。天照大神は皇室の御祖神とされ、草薙神剣は皇位継承にかかわる三種の神器の一つである。(熱田神宮)
つまり南朝勢力にとって熱田は、
「港があって便利ですね」
だけでは済まない。
皇統の象徴が鎮座する超重要地点。
俺の南朝回廊説では、大河原から南下してきた一行が尾張へ出たところで、いきなり皇室との縁が極めて深い巨大宗教拠点にぶつかる。
出来すぎている。
でも出来すぎているからこそ面白い。
13 しかも実際に南朝方が「熱田→海→伊勢→吉野」を使った形跡がある
ここは妄想だけではない。
新田義貞の弟、脇屋義助について、美濃方面から尾張へ移り、熱田大宮司の助けを受けて知多半島の羽豆崎へ進み、そこから海路で伊勢へ渡って吉野へ入ったという伝承・記録系統がある。羽豆崎は南朝方の東西交通の中継地点として語られている。(南越書屋 - 「越」の拡がりと繋がり)
俺が地図を見ながら、
「尾張へ出て、熱田から海へ出て、伊勢を経由したら吉野へ帰れるじゃん」
と考えていたら、
新田一族がほぼ似たことをやっている。
これは大きい。
細部の道筋まで俺の想定と同じだったと主張するつもりはない。
でも少なくとも、
尾張が南朝側の東国勢力と吉野を結ぶ中継地域として機能し得た
という考えは、完全な空想ではなくなる。
しかも羽豆崎には、宗良親王本人が滞在し、伊勢を経て吉野へ向かったという伝承まである。(高山の殿様)
これを見た瞬間、
「いや待て待て待て」
となった。
俺が考えていた回廊、本当にそれっぽい場所を通っている。
14 大河原から吉野へ。南朝秘密回廊
ここまでを俺の虚構推理として一本につなぐ。
大河原。
浪合。
稲武。
足助。
長久手周辺。
熱田。
知多あるいは尾張の港湾部。
伊勢湾を船で渡る。
伊勢。
そして吉野。
もちろん宗良親王が毎回この一本道をGPSのナビどおり進んだ、などと言うつもりはない。
でもこの方向には、
山岳街道があり、
三河と尾張があり、
皇室と縁の深い熱田があり、
南朝側が利用したとされる海上中継点があり、
海の向こうには伊勢がある。
そして伊勢には南朝の北畠がいる。
さらに紀伊山地へ入れば吉野。
大河原から吉野への移動を考えるとき、
これはかなり魅力的な回廊に見える。
15 ここでも中央構造線が出てくる
大鹿村を歩いていると、中央構造線の存在感がものすごい。
村を南北に貫いている巨大断層。
鹿塩の塩水とも関わる。
分杭峠から北を見ると、中央構造線に沿った谷が直線的に見えることも伊那市が紹介している。(イナシティ)
そして地図をもっと南へ見ていく。
三河。
伊勢。
紀伊。
吉野。
中央構造線という巨大な地質構造そのものが、西南日本を横切っていく。
もちろん、
「宗良親王は中央構造線をナビにして歩いた!」
なんて言ったらさすがに俺も歴史警察に同行して事情聴取する。
中世人が「この下には巨大断層があるぞ」と知っていたわけではない。
ただし現代の俺が地図を見ると、
大河原と吉野が、日本列島の巨大な一本線の世界でつながって見える。
これは史実ではない。
地形ロマンである。
でも小説を書く人間には、このロマンが効く。
16 もし大河原が「第二吉野」なら
ここでミニ吉野説が南朝回廊説と合流する。
宗良親王は吉野から信濃へ来た。
そして信濃の大河原に長期間の拠点を作った。
敵が入りにくい。
しかし味方は北にも南にも動ける。
敵は西から進入しにくい。
こちらは尾根から敵を監視できる。
玄関には松平城のような警戒拠点がある。
普段の生活拠点がある。
危険時にはさらに山奥へ避難できる。
そして塩がある。
これ、
吉野の山岳防御思想を信濃仕様にローカライズしたもの
だったのではないか。
吉野が南朝本店。
大河原は東国方面の秘密支店。
ただしこの支店、
天然要塞、避難シェルター、南北街道、塩ステーション完備。
設備が良すぎる。
17 しかし、長距離移動には「道」だけでは足りない
ここで俺が一番重要だと思っている仮説へ入る。
宗良親王が大河原から吉野まで一回だけ命からがら逃げるなら、何とかなるかもしれない。
しかし何度も往来するとなると話が違う。
皇族を含む一行である。
馬も必要かもしれない。
食料も必要。
宿泊も必要。
道案内も必要。
敵情も知りたい。
港へ着けば船も必要。
そのたびに、
「こんばんは。南朝の皇子です。一泊できますか」
なんて知らない民家を訪ねるわけにいかない。
一回なら奇跡。
何度もやったらネットワークだ。
だから俺は思う。
街道沿いに南朝の連絡員がいたのではないか。
18 南朝は道を持っていたのではない。人を持っていた
俺の中でこの説は「南朝エージェント説」になった。
別に忍者の秘密組織を想定しているわけではない。
もっと普通の人たちだ。
地域の武士。
有力農民。
神職。
寺院関係者。
商人。
船を持つ者。
馬を手配できる者。
山道を知る者。
普段は普通にその土地で暮らしている。
ただ、南朝方の人間が来たときだけ、
泊める。
飯を出す。
馬を替える。
情報を渡す。
次の協力者を紹介する。
それで十分だ。
しかも全員が「吉野までの全ルート」を知る必要はない。
大河原の人間は次の安全地点まで。
次の人間は、その次まで。
駅伝のようにつないでいく。
リレー式秘密回廊。
これならネットワーク全体が漏れる危険も減る。
そして何十年も現地に駐在すれば、当然そこで結婚する。
子供もできる。
南朝という政治運動が消えたあとも、
人間だけは土地に残る。
名字が残る。
系譜が残る。
家紋が残る。
神社との関係が残る。
「うちは昔、新田の一族だった」
という話だけが数百年後まで漂っていく。
19 浪合は「全滅地点」ではなく「離散地点」だったのではないか
ここで尹良親王伝承を見る。
尹良親王の実在性そのものを含め、史料批判が必要な人物である。
だから以下は完全に「伝承を材料にした虚構推理」として読む。
『浪合記』系統には、尹良親王が西上の途上、浪合で戦死し、その後、良王を奉じた者たちが津島へ退いたという伝承がある。研究上も、『浪合記』がそうした物語を伝えていること自体は確認されている。(J-STAGE)
俺が面白いと思うのは、
なぜ浪合なのか。
大河原から南下して三河・尾張方面へ抜ける回廊を想定すれば、浪合はそこにある。
尹良親王が大河原から吉野方面への退却を試みていたのだとすれば、
知らない山へ適当に逃げ込んだのではなく、
父の宗良親王が使っていた既知の帰還路へ入ろうとしていた
とも考えられる。
そして浪合で部隊が崩壊する。
全員死亡ではない。
軍事組織として壊れる。
すると生存者は散る。
三河へ。
尾張へ。
美濃へ。
吉野へ。
この「散った」という発想が、後の各地の南朝・新田伝承と相性がいい。
20 そして津島が異様に濃い
尾張側を見ていて、俺が一番「何だここ」となったのが津島だった。
津島市公式が紹介する尾張津島天王祭の由来の一説には、南北朝期、後醍醐天皇の曾孫とされる良王親王が津島へ逃れ、津島の「四家七苗字」の武士たちが良王を守ったという伝承が残っている。
四家は大橋・岡本・恒川・山川。
七苗字は堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村。(対馬市公式ウェブサイト)
もちろん祭礼由来の伝承であって、それをそのまま14世紀の実況中継として読むことはできない。
でも俺が気になるのは、
なぜ津島に、こんな南朝皇族保護伝承が形成されたのか
である。
何もない土地には、何もない。
伝承は史実そのものではない。
でも地域が何を自分たちの過去として語り続けたかは、それ自体が面白い。
しかも『浪合記』では、浪合後の一行が津島へ退く。
俺が地図で想定した南朝回廊の尾張側に、
本当に「南朝皇族を匿った」という巨大伝承が待っている。
困る。
妄想が育つ。
21 なぜ逃げた王子が神主になれるのか
さらに尹良親王の子孫について、津島神社の神職系統へつながったという伝承まである。
ここで俺が引っかかる。
本当に何の縁もない土地へ、敗残の皇族一行が突然逃げ込んだとする。
そこから一族が有力神社の神職系統へ入っていく。
もちろん歴史上、偶然や後世の系譜構築はいくらでもある。
でも小説を書く人間なら絶対に考える。
「逃げ先だったのではなく、もともと知っていた場所だったんじゃないの?」
つまり津島は、浪合敗戦後に初めて発見された避難先ではない。
その前から、
宗良親王など南朝側が吉野と東国を往復する際に利用できる、
尾張側の人脈拠点
だった可能性はないか。
平時は連絡員。
戦時は通行支援。
敗戦後は避難先。
この三役を同じネットワークが担っていたら、非常に合理的である。
22 熱田、津島、港町。山のエージェントは海へつながる
山岳ルートの連絡員だけでは吉野まで帰れない。
どこかで海へ出る。
すると今度は、
船を持つ人。
港を知る人。
風や潮を知る人。
海上交通に顔が利く人。
が必要になる。
つまり南朝秘密回廊には、
山岳エージェントだけでなく水運エージェントが必要になる。
そして尾張には熱田がある。
津島がある。
知多がある。
伊勢湾がある。
羽豆崎には、実際に南朝方の中継地点だったとする伝承が残る。(高山の殿様)
だから俺の頭の中では、
大河原の山岳ネットワーク。
三河街道の街道ネットワーク。
熱田・津島の宗教ネットワーク。
知多の港湾ネットワーク。
伊勢の北畠ネットワーク。
それらが吉野へ一本につながり始めた。
23 平手氏も、その「残滓」だったら?
ここで平手政秀。
平手氏には新田氏流世良田氏を称する系譜伝承があり、引両系統の紋も伝えられる。
ただし、家紋一つで血統など証明できない。
引両紋は新田系だけの専売特許でもない。
そこは分かった上で遊ぶ。
熱田に近い尾張の土地に、新田系を称する家が後世まで残っている。
これを、
「平手氏は新田の秘密エージェントだった!」
と断言したら雑すぎる。
でも、
「こういう家々の祖先のどこかに、南朝期の街道ネットワークへ関わった人々が混じっていても不思議ではないのでは」
という問いなら立てられる。
俺が知りたいのは血統書の100%証明ではない。
なぜ三河や尾張に、
新田。
世良田。
南朝皇族。
熱田。
津島。
といった話が、妙にまとまって現れるのか。
個々の伝承が後世に盛られていたとしても、
伝承が発生しやすい土壌そのもの
があったのではないか。
そこを考えたい。
24 そして三河へ戻る。松平郷だ
ここで俺の昔からのテーマ、「松平符号説」に戻る。
松平郷。
今でさえ小さな山里だ。
それなのに松平氏はここから周辺へ勢力を広げ、やがて三河全体へ伸び、最終的には徳川家康へつながっていく。
普通に考えると不思議なのだ。
なぜこんな小さな山里から、急に周囲を飲み込めるのか。
そこで南朝・新田系の敗残兵を入れてみる。
仮に浪合などで南朝側の軍事組織が崩壊し、
50人。
100人。
あるいはもっと少なくてもいい。
戦争経験のある武士が三河山中へ流れ込んだとする。
彼らが持っているのは人数だけではない。
戦闘経験。
馬。
指揮。
築城。
偵察。
交渉。
情報。
人脈。
これが小村に入ったらどうなるか。
人口は少なくても、
軍事技術密度だけが異常に高い村
になる。
一村を押さえる。
そこから人員と米が増える。
次の村を吸収する。
さらに増える。
小さな核が雪だるまになる。
そう考えると、「小さな松平郷から周辺へ勢力拡大」という現象が、俺の小説の中ではかなり説明しやすくなる。
25 なぜ松平郷だったのか
しかも松平郷は街道の真正面ではない。
足助方面の交通網から近い。
しかし少し山へ入っている。
この「ちょっと奥」が重要だと思う。
街道沿いど真ん中なら、敵にも見つかる。
奥地すぎたら連絡できない。
松平郷は、
人目から外れられるのに、街道から切断されていない。
秘密の避難拠点として理想的じゃないか。
足助側の連絡員が、
「ここから先は松平という谷へ行け」
と案内する。
そこには在原氏がいる。
そしてここで、俺の小説設定が始まる。
26 在原家の婿なのに、なぜ「在原」を名乗らない?
松平氏祖の物語には、旅人が在原系の家へ婿入りしたという系譜伝承が絡んでくる。
俺が昔から引っかかっていたのは、
もし婿に入った男が本当にそれなりの家柄の人間だったなら、
なぜ新しい「松平」という名字を名乗る必要があったのか
である。
在原という名字は由緒が強い。
皇統につながる文化的ブランドもある。
そこへ素性不明の男が突然入り、
「今日から俺も在原です」
となれば、
逆に目立つのではないか。
「誰だお前?」
「どういう家の人間だ?」
「なぜそんな家へ婿入りできた?」
となる。
もし男が新田・南朝系の敗残者だったら、それは困る。
そこで、
あえて格下に見える新しい名字を与える。
「大した男じゃありませんよ」
「在原家へ婿には取りましたが、別姓です」
という顔をする。
外向きには身分を隠す。
しかし内輪では意味が分かる名前を使う。
そこで俺は、
松平という名字自体が符号だったのではないか
という小説を書いた。
27 大鹿の「松平城」と三河の「松平」
大河原の入口に、松平城という城がある。
俺にとって、この地名はずっと異様だった。
あまりにも小さな山中の城なのに、
松平。
三河松平氏と同じ文字。
偶然で片付ければ一秒で終わる。
だから俺は片付けなかった。
南朝の秘密ネットワーク内部では、大河原の「松平」という地名が知られていた。
そして三河へ逃れた南朝・新田系の人間が、新しい名字を必要とした。
ならば、
仲間にだけ分かる符号として「松平」を使ったのではないか。
もちろん俺の創作である。
証拠はない。
だからこそ小説になった。
28 「松平」は宗良親王が付けた名前だったら
さらに俺の小説では、宗良親王を歌人として使った。
実際、宗良親王は南朝を代表する歌人として知られ、『新葉和歌集』にも深く関わった人物である。大鹿村観光協会も「南北朝第一の歌人」として紹介している。(大鹿村観光)
だから物語では、
「松平」という美しい二文字を親王が名付けたことにした。
意味は、
末代平和。
末の世まで平らかであれ。
戦乱の中を生きる皇子が、いつか戦争のない時代が来ることを願って付けた名前。
そして数百年後。
その松平を名乗る家から徳川家康が出る。
天下統一。
江戸時代。
長い平和。
宗良親王が願った「末代平和」が、まったく別の形で実現する。
こんなの史実だったら出来すぎだ。
だから小説なのである。
でも俺はこういう出来すぎが好きだ。
29 そして尾張の「新田っぽさ」が気になってくる
三河だけなら、
「松平氏が新田・世良田を称したから、それに合わせて家臣も系譜を寄せただけでは?」
で終わる。
実際、その可能性は大いにある。
ところが尾張を見ると、津島の良王伝承がある。
熱田の南朝方支援伝承がある。
知多の南朝中継地伝承がある。
脇屋義助が尾張から伊勢を経て吉野へ向かったという話まである。(対馬市公式ウェブサイト)
そうなると、
南朝と新田の人々が尾張を実際に通過し、滞在し、支援を受けた
という大きな背景が見えてくる。
だから後世の「新田系」伝承を全部血統事実として信じる必要はない。
逆に、
なぜこの地域では新田・南朝を祖先に持つ物語がこんなに育ったのか
を考えた方が面白い。
30 では足利側から見た尾張は、どんな土地だったのか
ここで視点をひっくり返す。
俺はいままで南朝側ばかり見ていた。
では足利幕府側から見る。
尾張。
東海道の重要地域。
三河と美濃の間。
海がある。
伊勢湾に出られる。
熱田という巨大宗教拠点がある。
南朝武将を保護したとされる勢力がいる。
知多には海上中継拠点の伝承。
津島には南朝皇族保護伝承。
新田系を称する家々の系譜。
もし俺が足利幕府の担当者だったら、
嫌だな、この県。
表向き南北朝が終わったからといって、
人脈まで消えた保証はない。
31 そこで斯波氏である
尾張守護は鎌倉・南北朝期には短期間で変化したが、室町期になると斯波氏に固定され、その下で守護代織田氏が尾張支配を担うようになった。名古屋市博物館もこの流れを明確に説明している。(名古屋市博物館)
斯波氏は足利一門の大物である。
そこで俺の虚構推理。
斯波氏を尾張へ置いたのは、単なる恩賞や領国配分だけではなく、南朝・皇統系ネットワークの残響が強い地域を、足利秩序へ組み込む意味もあったのではないか。
もちろんこれを示す直接史料を俺は持っていない。
だから完全に虚構推理。
でも発想としては面白い。
軍事的に南朝を潰した。
しかし土地の中には、
寺社。
港。
武士。
血縁。
伝承。
旧南朝系の人的ネットワーク。
そういうものが残っている。
なら次にやることは、
領国化。
守護を置く。
家臣を入れる。
在地勢力を被官化する。
政治・軍事ネットワークを足利側へ塗り替える。
敵兵を殺すより、ずっと長い戦後処理である。
32 尾張は「足利直営店」にされたのではないか
もちろん厳密には幕府直轄領という意味ではない。
斯波氏自身が強大な守護大名なのだから、
「足利直営店」
と言うと歴史的には雑である。
なので虚構推理の比喩として言い換える。
足利本部肝煎りの旗艦店。
尾張には皇室・摂関家や有力寺社の荘園が多数存在していたことも知られ、単純な一枚岩の土地ではなかった。(名古屋市博物館)
そこへ足利一門の大物を置く。
南朝の政治組織はなくなっても、南朝時代に形成された人脈が残るなら、
その上から足利側の統治ネットワークをかぶせていく。
俺の物語では、斯波氏の尾張支配は、
「戦争が終わった後の南朝対策」
という第二段階に見えてくる。
33 ところが足利の旗艦店から織田が生えてくる
ここが歴史の面白いところだ。
斯波氏が尾張守護になる。
その家臣である織田氏が守護代として尾張へ入る。
そこから織田氏が力を持つ。
そして信長が出る。(名古屋市博物館)
俺の虚構推理では、
南朝の影響が残るかもしれない尾張を足利秩序へ組み込むため、斯波という重石を置く。
その斯波の下から、
織田が生えてくる。
歴史、何を植えても予定どおりには育たない。
34 しかしこの話は、まだ徳川で終わらない
ここまでなら、
南朝敗残勢力。
新田系伝承。
松平。
徳川。
で綺麗に終われる。
しかし俺の妄想は、そこで止まらなかった。
徳川家康が天下を取る。
江戸幕府ができる。
すると、それまで「負けた側」だった人々の子孫や、その伝承を持つ家々が、
徳川の臣下として生きていく。
ここで面白い逆転が起こる。
昔は南朝・新田側として足利と戦った。
負けた。
潜った。
土地に溶けた。
その何世代か後、松平・徳川体制の側に入る。
つまり俺の物語では、
南朝の敗残ネットワークが、長い時間をかけて徳川幕府という巨大システムへ吸収される。
負けたはずの人々の末裔が、
別の看板で天下を取ったことになる。
35 そして江戸時代、人は祖先を調べ始める
天下泰平になる。
戦争の時代には、
「俺の祖先は誰だったのか」
なんて調べている暇はない。
でも平和になると家系を調べる。
系図を作る。
先祖を顕彰する。
古文書を読む。
すると、
「うち、新田じゃね?」
「南朝方じゃね?」
みたいな話が復活してくる。
もちろん江戸時代の系譜は、家格を飾るために盛られることもある。
だから全部を事実として扱う必要はない。
でも重要なのは、
徳川体制の内部で、南朝の記憶が再発見される
という構図だ。
36 そして水戸が爆発する
徳川一門である水戸家。
その水戸で『大日本史』が編纂される。
歴史を調べる。
天皇の正統性を考える。
南北朝を考える。
そこから水戸学が育つ。
そして尊王思想が強くなっていく。
ここが俺には歴史最大級の皮肉に見える。
徳川幕府が天下を取った。
その徳川の一族が日本史を真面目に研究した。
真面目に研究した結果、
「いや、最終的には天皇のほうが上じゃない?」
という思想が強くなる。
徳川商品取扱代理店が、
「これ、メーカー本社のほうが偉くね?」
と気付く。
そして幕末。
天狗党。
尊王攘夷。
徳川内部から、徳川幕府そのものを揺さぶる思想が出てくる。
37 南朝残党が、最後には徳川の「逆賊」になる
ここまで来ると、俺の中では一つの巨大な円環になる。
後醍醐天皇のために戦った人々。
負ける。
東国へ散る。
山へ潜る。
街道沿いに根付く。
三河や尾張へ流れ込む。
その系譜や伝承が松平・徳川の世界へ吸収される。
徳川が天下を取る。
そして徳川家の中で歴史研究が進み、
再び天皇中心の思想が燃え上がる。
最後には、
徳川幕府から見れば「逆賊」となる。
なんという悲しいループ。
南朝のために戦った記憶が、
何百年もの地下水脈を通って、
幕末にもう一度噴き出す。
鹿塩の塩水みたいだ。
地下深くへ潜ったものは、
消えたとは限らない。
別の場所から、
別の形で、
再び地表へ出てくる。
38 そして俺は長久保本陣で「天狗党」の文字を見ていた
今回の旅では、大鹿村へ入る前に長久保本陣にも寄った。
そこには真田信繁の娘・すへが嫁いだ石合家の歴史が残っている。
俺は以前、小説の中でこの石合家の祖先を好き勝手に動かしている。
その子孫の家が現在まで残り、「石合」の表札を実際に見る。
これだけでも変な感動があった。
ところが展示には、
この宿場を訪れた人々として、
前田慶次。
十返舎一九。
そして、
水戸天狗党。
そのときは、
「天狗党まで来たのか」
くらいだった。
しかし大鹿村で塩から妄想を始め、
南朝。
新田。
松平。
徳川。
水戸学。
天狗党。
まで到達したあとで思い返すと、
朝から看板に答え書いてあったじゃねえか。
39 すべては大河原から始まった、と考えてみる
もちろん本当に「江戸幕府滅亡の原因は大鹿村です」なんて書いたら、歴史学者が山を越えて殴りに来る。
違う。
これは物語の話だ。
俺が今日見つけた一本の線の話。
大河原には、宗良親王が長期間滞在したという伝承がある。(大鹿村公式サイト)
西側から入りにくい。
高い尾根から外を見られる。
北と南へ動ける。
危険になればさらに山奥へ消えられる。
そして塩まである。
ここに「ミニ吉野」が作られた。
そこから南朝の人間が山岳街道を伝って南下する。
三河。
尾張。
熱田。
津島。
知多。
伊勢。
吉野。
その途中には、南朝・新田系の伝承が点在する。
敗れれば人は散る。
散った人々は土地に根付く。
その一部が三河・松平の世界へ入り込む。
徳川へつながる。
徳川が天下を取る。
そして徳川内部で南朝正統論が再燃する。
最後には尊王運動が幕府を揺さぶる。
40 山の中の一滴から、江戸幕府店じまいまで
今回、俺が大鹿村でいちばん衝撃を受けたもの。
それは巨大な城跡でもない。
皇子の墓でもない。
合戦場でもない。
塩水だった。
山の中から塩水が出る。
それだけで、
「ここ、長期滞在に強くない?」
と考えた。
すると地形が見えてきた。
西は壁。
北と南には道。
尾根から監視。
松平城で警戒。
大河原御所で生活。
危険になれば御所平へ消える。
敵軍は見つけられず、
兵糧が尽きて帰る。
そしてその南には、南朝が吉野へ戻れるかもしれない山岳回廊。
三河。
熱田。
津島。
伊勢。
吉野。
さらに沿線に残る南朝・新田の伝承。
その果てに松平。
徳川。
水戸。
天狗党。
気付いたら、
山奥の塩水から江戸幕府が滅亡していた。
こういう日があるから現地へ行くのはやめられない。
41 現時点での俺の仮説を一文にすると
大河原は単なる南朝皇族の避難地ではなく、
吉野の山岳防御思想を信濃へ移植した「第二吉野」であり、天然要塞・退避シェルター・塩資源・南北交通を備えた東国側の秘密拠点だったのではないか。
そしてそこから吉野へ戻るため、
大河原から三河・尾張・伊勢へ至る人的連絡網が存在し、その構成員や敗残勢力の一部が沿道へ定着したのではないか。
さらにその残響が、
三河松平、新田系系譜伝承、尾張の南朝伝承などへ形を変えて残ったのではないか。
室町幕府が尾張へ斯波氏という足利一門の重量級を置いた背景にも、そうした地域を足利秩序へ組み込む意味があったのではないか。
そして長い時間の果てに、その人々が徳川世界の一部となり、
徳川自身による歴史研究が南朝正統論を再点火し、
最後には尊王運動が幕府を揺さぶる。
全部つながったら面白い。
つながらなくても面白い。
だから調べる。
42 今後の俺へ。ここを調べろ
未来の俺がこの記事を読み返したときのため、宿題も残しておく。
まず大鹿村史。
小渋川の旧地形と松川側からの交通。
御所、大河原城、御所平の役割分担。
足利方による大河原攻撃と、親王側の具体的な退避行動。
尾根筋の警戒路。
松平城を含む周辺城砦の見通しと役割。
鹿塩の中世利用。
高遠から分杭峠、大河原、秋葉街道へ抜ける中世交通。
武田・山本勘助と大河原の具体的史料。
宗良親王の信濃と吉野の往復経路。
羽豆崎と熱田大宮司。
北畠との接続。
浪合記の成立時期と各写本。
尹良親王・良王伝承の発生過程。
津島四家七苗字。
平手氏、新田氏流を称する尾張諸家の系譜がいつ成立したのか。
松平氏の新田・世良田系譜がどの時期に形成されたのか。
斯波氏による尾張領国化と南北朝期の在地勢力再編。
そして最後に水戸。
南朝正統論が、どの経路を通って近世の武家社会へ浸透していったのか。
この記事は完成品ではない。
採掘現場だ。
新しい史料が出たら足す。
間違っていたら修正する。
仮説が死んだら、その死体も残す。
そこから次の小説が生まれるかもしれない。
43 最後に。俺はすでに「松平符号説」を小説にしている
実は今回初めて「大鹿の松平」と「三河の松平」を結び付けたわけではない。
以前から俺は、
大河原の松平城と、三河松平氏の「松平」は何か関係があるのではないか
というトンデモ仮説を小説にしている。
そこでは南朝の敗残者、新田・世良田、在原氏、松平郷、そして「末代平和」という名前の意味まで物語として組み込んだ。
当時は、それだけでも相当好き勝手に書いたつもりだった。
でも今回、3年ぶりに大鹿村へ来て、
鹿塩を見て、
小渋川を考えて、
分杭峠を考えて、
御所平を聞いて、
熱田を調べて、
津島を掘って、
尾張を見たら、
昔書いた小説の外側に、さらに巨大な世界が生えてきた。
小説を書いたから現地を見る。
現地を見たから、昔の小説がまた変わって見える。
これが楽しい。
そして次に吉野へ行ったら、
たぶんまた何かがおかしくなる。
大河原の谷を眺めながら、今回ずっと頭に残った問いがある。
宗良親王は、
なぜ、ここだったのか。
逃げるだけなら、他にも山はある。
でもここには、
敵が入りにくい地形があり、
見張れる尾根があり、
奥へ消える場所があり、
南北へ伸びる道があり、
そして塩がある。
偶然なのか。
必要だから選んだのか。
俺にはまだ分からない。
だから面白い。
そして最後にもう一度だけ言っておく。
これは論文ではない。
史実と伝承と地形と小説がごちゃ混ぜになった、俺の巨大ネタ帳だ。
だが、もしこの山奥から本当に一本の地下水脈が、
大河原から三河へ、
尾張へ、
伊勢へ、
吉野へ、
松平へ、
徳川へ、
水戸へ、
幕末へと続いていたのなら。
歴史というのは案外、
表の街道ではなく、
誰にも見えない山道を歩いているのかもしれない。
大鹿村の一滴から、江戸幕府店じまいまで。
すべては、塩から始まった。
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これは「次も見てこい」という軍配だと思って、ありがたく受け取ります。!!