㉞ 天下のお尋ね者から、娘の嫁ぎ先へ手紙が届いた 婿殿、本陣で最大の危機を迎える |ハッタリ軍師 真田信繁
冬の陣が終わった。
大坂では講和が成り、堀が埋められ、真田丸も削られていく。
戦の火は、ひとまず消えたように見えた。
だが、火の粉は城の中だけに落ちるものではない。
噂は街道を走る。
人の名は、宿場を渡る。
そして、迷惑な父親の手紙は、天下の中山道にまで届く。
中山道、長久保宿。
江戸と京を結ぶ天下の道である。
参勤交代の大名も通る。
幕府の役人も通る。
諸藩の使者も通る。
つまり、噂と面倒ごとが、草鞋を履いて歩いてくる道でもあった。
その長久保宿の本陣を務める石合家に、ひとりの女がいた。
名を、すえ。
真田左衛門佐信繁の長女である。
とはいえ、宿場の者たちが、いちいち「真田左衛門佐様の御息女」などと呼ぶわけもない。
普段は、すー。
子どもたちは、すーちゃん。
年寄りたちは、すーさん。
彼女は、もう長久保宿の人だった。
本陣の飯の水加減に口を出し、帳場の鍵の場所を誰よりも早く見つけ、泊まり客の顔を見て「あの方には先に茶を」と夫に言い、夫の言い間違いを鼻で笑う。
真田の娘というより、石合家の女。
石合家の女というより、もう本陣の空気に混ざった人。
……だったはずなのに。
その日、大坂から一通の手紙が届いた。
差出人は、真田信繁。
二十年近く父親らしいことをしてこなかった男が、天下のお尋ね者になり上がったあげく、今さら父親の顔をして、娘の嫁ぎ先へ手紙を寄越してきたのである。
石合家に現れたのは、惣右衛門だった。
信繁の使いである。
惣右衛門としては、ただ手紙を届けに来ただけだった。
大坂の様子を伝え、信繁の言葉を婿殿へ渡し、任を終える。
それだけのつもりだった。
だが彼は、まだ知らない。
大坂城の空堀より、長久保宿本陣の畳の方が怖い日もあるということを。
石合十蔵は、手紙を受け取った。
「左衛門佐殿から、わしにか」
「はい。大坂城にて、我が主が直々に」
十蔵は、封を切った。
しばらく黙って目を走らせる。
だが、途中から小さな声が漏れ始めた。
「石合十蔵殿。ならびに、すえへ」
すえの名が出たところで、十蔵の眉が動いた。
それでも読み進める。
「大坂より、久しぶりに筆を執る」
「二十年近くも何の便りも出さず、不義理を重ねてしまった。まずは、そのことを許してほしい」
十蔵は一度、すえを見た。
すえは黙っている。
十蔵は再び、手紙へ目を落とした。
「この冬、私は真田丸にて徳川の大軍と戦い、多くの兵を退けることができた」
「おかげで、真田の名だけは天下へ示すことができたと思っている」
十蔵の口元が、わずかに曲がった。
誇らしいのか。
それとも、婿の家へ送る手紙でまで戦自慢を始めた岳父に呆れたのか。
惣右衛門には分からない。
「しかし、その後の和議で大坂城の堀は埋められ、城はすっかり守りを失った」
「これでは、次に戦が始まれば、長くは持つまい」
十蔵の声が低くなった。
「だから私は、おそらくこの春か夏には、この世を去ることになるだろう」
そこで、声が止まった。
部屋が静かになった。
十蔵は、少し迷った。
それから、続きを読んだ。
「その覚悟だけは、もう決めている」
「ただ、一つだけ心残りがある」
「信州へ残してきた、お前のことだ。すえ」
すえの目が、手紙へ向いた。
「父親らしいことは何一つしてやれなかった」
「成長する姿も見られず、祝いの言葉一つ掛けられず、何もしてやれぬまま今日まで来てしまった」
「それだけが、どうしても心残りでならぬ」
十蔵の読む声が、だんだん小さくなった。
「十蔵殿」
「誠に勝手な願いではあるが、私がいなくなった後も、どうか、すえを末永く頼み申す」
そこで、十蔵はまた口を閉じた。
手紙には、まだ続きがあった。
だが、それはすえ本人へ向けた言葉だった。
夫が先に声へ出してよいものか。
十蔵は迷った。
すえは、その顔を見逃さなかった。
「私のことが書いてあるのですか」
「いや、その、すー、これは」
「父からですね」
「……まあ、そうとも言う」
「続きを読みなさい」
「これは、その」
すえは、すっと手を出した。
「いいから、見せなさい」
「いや、これはわし宛てであって」
「見せなさい」
十蔵は惣右衛門を見た。
おい。
お前の主の娘だぞ。
何とかしてくれ。
そういう目だった。
惣右衛門は、静かに目をそらした。
戦場の鉄砲や大筒の爆音には慣れている。
だが、夫婦喧嘩だけは、いくつになっても怖かった。
十蔵は負けた。
「……読むなとは言わぬが、落ち着いてくれ」
「私はいつも落ち着いております」
そう言う人ほど、一番危ない。
すえは手紙を受け取った。
夫が読み残した箇所へ、目を落とす。
そこには、短く書かれていた。
すえ。
父は、お前の幸せだけを願っている。
どうか笑って生きてほしい。
それだけで、父は十分だ。
すえは、しばらく動かなかった。
十蔵は、その顔を見た。
泣くかもしれないと思った。
だが、すえの手の中で、手紙がみしりと鳴った。
「今さら、何ですか」
惣右衛門が、一歩下がった。
十蔵も、できれば下がりたかった。
「関ヶ原の時も、そうでした」
十蔵も惣右衛門も黙った。
「あの時から、私は真田の娘でした」
父はいない。
便りもない。
顔も遠い。
けれど、真田の娘という札だけは、ずっと背に貼りついていた。
「父はいない。父から何かが届くわけでもない。それでも世間は、私を真田の娘と見ました」
それでも、すえは石合家の女として暮らしてきた。
本陣の朝を知り、宿場の人の顔を覚え、米の水加減に文句を言い、十蔵の言い間違いを鼻で笑いながら、生きてきた。
「それで、今度は大坂ですか」
すえの声が冷えた。
「今度は天下のお尋ね者ですか」
十蔵が口を開きかけた。
「すー、左衛門佐殿にも事情が」
「あなたは黙っていてください」
「はい」
十蔵は即座に沈んだ。
惣右衛門も、さらに気配を薄くした。
「そのうえ、死ぬ前になって、娘を頼む?」
すえは手紙を見下ろした。
「頼むなら、なぜ今まで頼まなかったのです」
誰も答えられなかった。
「父親をやれるなら、なぜ今までやらなかったのです」
その怒りは、泣いてすがる娘のものではなかった。
二十年近く父親の顔を見せなかった男が、死ぬ前になって急に父親の顔をする。
それができるなら、なぜ今までできなかった。
すえの怒りは、信之が信繁に抱いた怒りと同じ根を持っていた。
走れるではございませぬか。
父親をやれるではございませぬか。
今さらそれができるなら、今までの空白は何だったのか。
すえの目が、十蔵へ向いた。
「あなた」
十蔵がびくりとした。
「はい」
「この家が何であるか、お忘れですか」
「忘れてはおらん。石合家だ」
「ここは中山道の本陣です」
「知っている。わしの家だ」
「大名も泊まります」
「泊まる」
「役人も通ります」
「通る」
「噂も通ります」
「それはまあ、通る」
「そこに、真田左衛門佐の娘を置くのですか」
十蔵は黙った。
軽く答えることはできなかった。
本当に困るからである。
信繁が大坂で名を上げれば上げるほど、すえの名は危うい札になる。
その札を、石合家は家の奥に置いている。
だから困っている。
その顔を、すえは見た。
「あなたが世間体を気にするなら、私を置いておくより、離縁した方がよろしいでしょう」
十蔵が慌てた。
「待て。なぜそうなる」
「そういう話でしょう」
「違う。困ると言っただけだ」
「困る女を置いておくのですか」
「お前はなぜ毎回、いちばん鋭いところへ槍を突き立てる」
「真田ですので」
惣右衛門は、心の中で深くうなずいた。
声には出さなかった。
出したら斬られる気がした。
すえは、本当に荷をまとめ始めた。
十蔵は慌てた。
「待て待て待て。どこへ行く」
「出ていきます」
「早い。判断が早い」
「迷惑をかける前に消えるのが、筋でしょう」
「消えると言うな。お前は煙玉か」
「父が天下に煙を立てましたので、娘は静かに消えます」
「うまいことを言わんでいい」
十蔵は、本陣の主人としての顔を取り戻そうとした。
「いいか、すー。ここは本陣だ。たしかに大名も泊まる。役人も通る。噂も通る。お前の父の名だって、そのうち中山道を駆けてくるだろう」
「ならば、なおさら」
「だが、それはお前を出す理由にはならん」
すえの手が止まった。
十蔵は、少し真面目な顔になった。
「この家は人を泊める家だ」
すえは振り返らない。
「だが、お前は客ではない」
「父の手紙があるから、私を置くのですか」
「違う」
「真田の娘だから、情けをかけるのですか」
「違う」
「上田の本家に義理を立てるためですか」
「違う」
「では、何です」
十蔵は詰まった。
家のこと。
世間体。
上田の本家。
徳川の目。
頭の中には、言葉がいくつも浮かんだ。
だが、どれもすえには届かなかった。
「答えられぬなら、これまでです」
すえが荷を持った。
その瞬間、十蔵のハッタリが剥がれた。
「すー!」
普段より大きな声だった。
すえの足が止まる。
十蔵は、もう本陣の主人ではなかった。
中山道の顔でも、石合家の当主でもない。
ただ、すえと何十年も暮らしてきた夫だった。
「行かないでくれ」
すえは振り返らない。
「……今、何と」
「行かないでくれと言った」
「本陣の主人が、そのような情けないことを」
「情けなくて結構だ」
十蔵は、ほとんど吐き出すように言った。
「お前がいてくれなきゃ、俺が困るんだよ」
部屋が静まった。
惣右衛門は、完全に息を止めていた。
「この家が困るんじゃない」
十蔵は続けた。
「石合の名が困るんでもない」
すえの手が、荷の紐の上で止まる。
「中山道の本陣が困るんでもない」
十蔵の声は、もう格好よくなかった。
「俺が困るんだ」
すえは動かなかった。
「朝、誰が俺の言い間違いを鼻で笑う」
十蔵は一歩近づいた。
「誰が飯の水加減に文句をつける」
もう一歩。
「誰が帳場の鍵を、俺より先に見つける」
もう一歩。
「誰が泊まり客の顔を見て、あの方は気難しいから茶を先に出せと言う」
十蔵の声が、少しだけ落ちた。
「お前がいなくなったら、俺は明日から、この家の半分が分からん」
すえは黙っていた。
十蔵は、そこで両手を畳についた。
深く頭を下げる。
本陣の主人が、使者の前で、妻に頭を下げた。
惣右衛門は目を見開いた。
見てはいけないものを見ている気がした。
「父上の手紙など関係ない」
すえの肩が、わずかに動いた。
「上田の本家も関係ない」
惣右衛門が、内心で思った。
それは関係ありますぞ。
もちろん、口には出さなかった。
「徳川の目も、今はどうでもいい」
十蔵は額を畳に近づけたまま言った。
「俺が、お前にいてほしい」
すえは、しばらく動かなかった。
それでも、まだ終わらせない。
「では、上田の本家が、私と離縁してくれと言ってきたらどうします」
十蔵は顔を上げた。
上田の本家。
信之の家である。
その言葉は重い。
だが、今さら退けなかった。
「たとえ上田の本家がお前と離縁してくれと言っても、俺は断る」
すえは、感動しなかった。
呆れた。
「馬鹿なんですか、あなた」
十蔵が傷ついた顔をした。
「今のは、少し格好よいところではなかったか」
「格好よさで本陣は守れません」
「では何で守る」
「帳面と根回しと、相手の機嫌を損ねない言葉です」
「急に本陣の女の顔をするな」
「私は本陣の女です」
十蔵は黙った。
すえは静かに言う。
「上田の本家に背けば、真田からも疑われます」
十蔵は黙って聞いた。
「徳川からも疑われます」
惣右衛門も聞いている。
「中山道の本陣としての信用も失うかもしれません」
すえは、十蔵を見た。
「私ひとりのために、全てを失いますよ」
十蔵は答えた。
「知っている」
「知っていて言っているのですか」
「知っていて言っている」
「本当に馬鹿ですね」
「ああ」
十蔵は、畳に手をついたまま、少しだけ笑った。
「だから出ていくな」
この男は、賢い本陣の主人ではなかった。
この瞬間だけは、腹を括った馬鹿だった。
すえは、ようやく荷を下ろした。
結びかけていた荷の紐をほどく。
十蔵が、ほっと息を吐いた。
「では」
「今夜のところは、出ていきませぬ」
「今夜のところは、か」
「明日のことは、あなた次第です」
「一生、次第ではないか」
「当然です」
すえは、信繁の手紙を畳の上に置いた。
「真田の娘を、中山道の本陣に置くと決めたのです」
十蔵は、力なくうなずいた。
「覚悟なさいませ」
「毎日か」
「毎日です」
「本陣の帳面より厳しいな」
「当たり前です」
少しだけ、夫婦の日常が戻った。
惣右衛門は、ようやく息をした。
十蔵は、畳の上の手紙をそっと拾った。
すえが、それを見た。
「あなた」
「はい」
「それ、燃やしなさい」
十蔵は手紙を胸に抱えた。
「いやいやいや」
「何をしているのです」
「燃やせるか。大坂で名を上げた左衛門佐殿の直筆だぞ」
「その名を上げた父のせいで、こちらは燃えかけているのですが」
「それでも直筆だ。しかも婿宛てだ。世が落ち着けば、石合家の由緒になる」
「馬鹿なことを言っていないで、燃やしなさい」
「待て。これは後の世に残る文だ」
「後の世より、今の火を消しなさい」
十蔵は手紙を守るように後ろへ下がった。
すえが一歩近づく。
「燃やしなさい」
十蔵が一歩下がる。
「残す」
「燃やす」
「残す」
「燃やす」
「すー、頼む。これだけは」
「先ほど、私にいてくれと頼んだばかりでしょう」
「それとこれとは別だ」
「同じです」
「同じか?」
「同じです」
十蔵は、しばらく手紙を見つめた。
それから、情けない顔で言った。
「……では、燃やさず、奥にしまう」
「封じなさい」
「封じる」
「勝手に人に見せない」
「見せない」
「家宝などと言わない」
十蔵は少し黙った。
すえが見た。
「言わない」
「……言わない」
「今、迷いましたね」
「迷っていない」
「燃やしますか」
「言わない。家宝とは言わない。奥にしまう」
すえは、ようやく頷いた。
「よろしい」
十蔵は、ほっと息を吐いた。
惣右衛門が小さくつぶやいた。
「……燃えずに済んだのは、文の方か、婿殿の方か」
すえが振り向いた。
惣右衛門は即座に頭を下げた。
「何でもございませぬ」
十蔵が、ちらりと惣右衛門を見る。
「使者殿」
「はい」
「大坂へ戻ったら、左衛門佐殿に伝えてくれ」
「何と」
十蔵は、すえを見た。
すえは冷たい目で見ている。
十蔵は言葉を選んだ。
「……娘御は、たいへんお元気です、と」
惣右衛門は深くうなずいた。
「それが、いちばん嘘が少なそうにございます」
すえが言った。
「惣右衛門殿」
「はい」
「父には、余計なことを言わなくてよろしい」
「承知しました」
「ただし」
惣右衛門が固まった。
「今さら父親の顔をしても遅い、とだけ、お伝えください」
惣右衛門は、また一歩下がりたかった。
しかし、使者である。
「……承知しました」
十蔵が小声で言った。
「本当に伝えるのか」
惣右衛門も小声で返した。
「伝えぬ方が、後で怖そうにございます」
十蔵は納得した。
「それはそうだ」
信繁の手紙は、娘を守るために書かれた。
だが、その手紙は美しい親子の涙を呼ばなかった。
呼んだのは、娘の怒りだった。
夫の困惑だった。
使者の沈黙だった。
そして最後に、十蔵の情けない本音を引きずり出した。
すー、行かないでくれ。
お前がいてくれなきゃ、俺が困る。
父のハッタリは、一度、娘に叩き壊された。
だが、その破片の中から、娘の居場所はもう一度固められた。
父が大坂で真田丸を築いた頃。
娘は中山道の本陣で、荷を結び、夫を詰め、最後には荷をほどいた。
そして、燃やされるはずだった一通の手紙は、奥へしまわれた。
燃やせと言った女と、残すと言い張った男の、くだらなくも必死な夫婦喧嘩の果てに。
戦場では、父が徳川を揺らす。
家の中では、娘が本陣の主人を揺らす。
やはり、真田の血である。
原案・本文原案・構成・最終編集:舞野
制作補助:ChatGPT
※本作は、史実を下敷きにした歴史エンタメ小説です。
登場人物の会話・心理描写・一部展開には、物語としての解釈と脚色を含みます。
史実の細部については諸説ありますが、本作では『ハッタリ軍師 真田信繁』としての物語性を優先しています。
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