💟天子ヶ岳が暴く“室町王権の正体”——後花園天皇の神風串呂④

🎀串呂哲学研究ノート 第536号
串呂は歴史の影を照らし出す!
今号は、⛰️天子ヶ岳を起点に⛩️後花園天皇陵を貫く一本の光線を照射して“室町王権の正体”を浮き彫りにする。地名が語り、山河が証し、そして“串呂”がその真相を暴き出すと、600年の眠りから覚めた地霊たちが待ってましたとばかりに立ち上がる。地文は嘘をつかない。連載第2回。
💞はじめに――貞成親王の出自を示す「源太」という地文
前号で取り上げた「後花園天皇の神風串呂」は、 南北朝以後の京都で、足利将軍家を中心とする新たな武家王権が成立し、皇統が実質的に交代していたことを、地文が明確に示していた。
皇統交代 ―― これは決して特異な出来事ではない。古今東西、武力を持つ者が王権を奪い、また奪われる。それは、まるで身体の新陳代謝のように、古い細胞が消え、新しい細胞が生まれる自然の摂理に近い。
日本の古代史でも、 神武 → 崇神 → 神功 → 応神 と王朝が交代してきたと思われる。贈り名に神が付くのは、初代王を示す暗号であろう。
しかし、記紀の編纂者たちは、自らの支配構造を永続させるため、こうした“易姓革命”の痕跡を意図的に覆い隠した。その結果、私たちは「神武以来一系」という観念を刷り込まれ、今日に至るまで国家規模のマインドコントロールが続いている。
近代に目を向けても、 明治天皇は長州が庇護した大室寅之祐、 昭和天皇は西園寺八郎の長男 ―― こうした“王統の入れ替わり”は歴史の常である。
同じ構造が、室町時代にも起きた。 足利王権は、持明院統の皇統を断絶寸前まで追い込み、自らの血流から新たな天皇を擁立した。それが後小松天皇であり、後花園天皇である。
そして、その父・貞成親王の出自こそ、長く議論されてきた問題だ。
私が「足利天皇三部作」と呼ぶ以下の3冊の著書は、 貞成親王=足利義満の長男 と明確に断じている。

🔴足利天皇三部作
長島銀蔵『皇統正史』(1966)
熊沢寛道『南朝と足利天皇血統秘史』(1962)
吉田長蔵『新天皇論』(1952)
私もこれらの著書を読み、同じ結論に達した。
🔶貞成親王は本当に義満の長男なのか?
この問題を地文で確かめるため、⛰️御正体山を起点に、貞成親王の⛩️伏見松林院陵を至点とする串呂を引いた。

すると、予想どおり、 源太(げんた/愛知県豊田市上川口町)を貫通した。 しかも、起点と至点のほぼ中央に位置している。


「源太」とは、 “源家の太郎=源氏の長男” という意味を持つ地文である。
貞成親王埋葬の地⛩️伏見松林院陵ーー「源太」ーー⛰️御正体山
実証の串呂である!
⛩️伏見松林院陵 → 140.5km → 🎯源太
🎯源太 → 153.8km → ⛰️御正体山
この串呂は、貞成親王が“源氏の長男”であることを示すと読める。

ただし、このテーマは奥行きが深いので、 詳細は別号「貞成親王の神風串呂」で改めて扱う。
今号では、後花園天皇の第四の串呂を紹介する。
🔴初めての方は、下記の記事を先にお読み頂くと理解しやすいです。
🔶後花園天皇の神風串呂――地文が示す“足利王統”の影
目 次
💞はじめに――貞成親王の出自を示す「源太」という地文
💞天子ヶ岳と後花園天皇陵の神風串呂
🔴後亀山天皇を“釣り上げた”両統迭立の約

💞天子ヶ岳と後花園天皇陵の神風串呂
🔷前号のおさらい
前号では、後花園天皇陵を三つの起点から鑑定し、以下のような地文が浮かび上がった。
⛩️内宮…二王、上弓削町、たぬき村、新堂
足利市役所…下武士、大芝高原、下弓削町、天狗 -🔴-🔴-🔴-
⛰️源氏岳…卍清源寺、本名駅、蔵王キツネ村、蔵王町
これらの地文は、 天照大御神が足利王権を好まなかった という印象を強く受ける。
下記の参考文献を読むと、足利義満をはじめ室町王権の実力者たちは、人倫に悖る卑劣な行為が見られ、 尊貴な天照大御神に嫌われるのも当然と思われる。
堂々と戦って王権を得た神武・崇神らに比べ、 室町王権は「たぬき・天狗・キツネ」といった 低劣な地文で象徴されている。
つまり、室町王権は天地神明に支持されなかった。そのため王権は長続きせず、やがて戦国時代へと突入した。
🔷参考図書
斎藤忠「一次史料が証す正長元年の皇統交替」(アマゾン、2020年)
(万世一系ではなかった!? 神武天皇の血流が絶えて、新たな皇統が興っていた!? 現皇室は15世紀第2四半期に始まった!?)
原田隆之「皇位の呪縛」(叢文社、2006年、歴史小説)
(看聞日記を基に伏見宮治仁王を殺害した毒殺現場を描いた歴史小説。毒殺犯は貞成親王)
貞成親王「看聞日記」(明治書院、2002/4/1)
井沢元彦「天皇になろうとした将軍」(小学館文庫/1998年)
三浦芳聖「徹底的に日本歴史の誤謬を糺す」(神風串呂講究所、1970年)
長島銀蔵「皇統正史」(1966年/自家出版)
熊沢寛道「南朝と足利天皇血統秘史」(1962年/三秘同心会)
吉田長蔵「新天皇論」(1952年/千代田書院)
三輪義熈「長慶天皇紀略」(1924年/博進館)
貞成親王「椿葉記」(室町時代)
🔴さて、今号は、「後花園天皇の神風串呂」の第4段として、⛰️天子ヶ岳と後花園天皇陵の神風串呂を研究した。
🔷起点と至点
起点…⛰️天子ヶ岳(てんしがたけ/静岡県富士宮市佐折)
皇統を鑑定する重要串呂起点のひとつ。
ここから後花園天皇(=室町王権)の本質を読み解く。
【参照】天子ヶ岳の神風串呂


至点
⛩️後花園天皇陵(後山国陵:のちのやまくにのみささぎ/都市右京区京北井戸町)
室町王権の象徴であり、記念碑的存在。
後花園天皇個人ではなく、 室町王権そのものの評価を示す地文である。

🔷串呂概観――誤魔化す。化かす。たぬき王権。
天子ヶ岳から後花園天皇陵へ串呂を引くと、 そこには予想どおり、 “だましの王権”を象徴する地文が並んでいた。
🔶胡麻(ごま)…誤魔化す、隠す。
🔶田貫(たぬき)町…化かす、化ける、欺く。
これらは後花園天皇個人の評価ではない。
室町王権の本質を示す地文である。
後花園天皇陵は、室町王権の象徴であり記念碑的存在なのである。
従って⛩️後花園天皇の串呂は室町王権の串呂である。
❇️胡麻(ごま/京都府南丹市日吉町)
誤魔化す。人目を欺いて不正をする。

❇️田貫町(たぬきちょう/京都市右京区京北)
騙す。誑かす。化ける。化かす。


❇️胡麻(ごま/京都府南丹市日吉町)
誤魔化す。隠蔽する。
⬇️
❇️田貫町(たぬきちょう/京都市右京区京北)
誑かす。化ける。欺罔 偽朝
⬇️
⭕後花園天皇陵(京都市右京区京北井戸町)
室町王権の象徴・記念碑
⬇️
⭕天子ヶ岳(てんしがたけ/静岡県富士宮市佐折)
皇統鑑定起点のひとつ
🔴室町王権が樹立されるに当たって、いったいどんな「だましの手口」が使われたのだろうか。
まず一番に、両統迭立の約束で南朝副統の後亀山天皇を吊り上げ、神器を出させておいて、この約束を反故にした歴史的事実を挙げる事ができる。
この件については、巻末に詳細に述べておいたので、ご興味のある方はご一読願いたい。
騙された後亀山天皇は、下記のような遺詔を残したという。
この遺詔が、本物なのか後世の作文なのかは明らかではないが、事件の核心部分を理解するための重要資料である。
🔶後亀山天皇の遺詔
朕末期の願也。足利一類之計策に繋り無念骨髄を染む。朕が髑髏晒して朽ち腐るとも魂魄此世に止つて、汝等日本男子忠臣之国賊退治を望むこと此の如し、依つて執達件の如し。
(熊沢寛道『南朝と足利天皇血統秘史』3頁、句読点や送り仮名を付した)
これは、南朝から三種の神器を取り上げて、まず北朝を盛り立て室町武家政権の基盤を固め、次には その北朝を根絶やしにして、皇統を背乗りするという戦略だったようだ。
長島銀蔵 著「皇統正史」には、そうした戦略の仕上げとして、伏見宮家の血筋ではない貞成親王が伏見宮家の後継者に化けて、王化した経緯が明記されている。

🔴これらの歴史上の事件が「日吉町胡麻と京北田貫町」のふたつの地文に凝縮されているのである。串呂がいかに的確なるものであるか、ここから知り得るのである。
🔷主要地文の考察
この串呂線上に、胡麻、田貫町という的確なる地文が配置されていたので、この串呂をさらに調査したところ、下記の主要地文が配置されていた。

🟡主要地文一覧
❇️曲り(まがり/岡山県真庭市)
皇統を捻じ曲げた。
⬇️
❇️一宮町(いちのみやちょう/兵庫県宍粟市)
一宮 三串 -🔴-🔴-🔴- 長男
⬇️
❇️多利(たり/兵庫県丹波市春日町)
唯物史観 物欲 足利王権の政治思想の象徴
⬇️
❇️上胡麻(かみごま/京都府南丹市日吉町)
胡麻二串 -🔴-🔴- 誤魔化す。北朝足利王権の系譜操作。
⬇️
❇️胡麻(ごま/京都府南丹市日吉町)
胡麻二串 -🔴-🔴- 誤魔化す。北朝足利王権の系譜操作。
⬇️
❇️田貫町(たぬきちょう/京都市右京区京北)
誑かす。化かす。化ける。欺罔 偽朝
⬇️
❇️下弓削町(しもゆげちょう/京都市右京区京北)
❇️上弓削町(かみゆげちょう/京都市右京区京北)
皇統簒奪 弓削の道鏡
⬇️
⭕後花園天皇陵(京都市右京区京北井戸町)
室町王権の象徴・記念碑
⬇️
❇️彦根市(滋賀県)
彦仁(後花園天皇の忌み名)
⬇️
❇️一宮市(愛知県)
一宮 三串 -🔴-🔴-🔴- 長男
⬇️
⭕天子ヶ岳(静岡県富士宮市佐折)
皇統の鑑定起点
⬇️
❇️一之宮(いちのみや/神奈川県高座郡寒川町)
一宮 三串 -🔴-🔴-🔴- 長男
⬇️
❇️大芝(おおしば/千葉県茂原市)
大芝居(人目を欺くはかりごと)
🟡主要地文概説ーー地文は、時に史書より雄弁である。
山河に刻まれた地名は、為政者の思惑を超えて、その時代の“真実の構造”を静かに語り継ぐ。今号の「天子ヶ岳―後花園天皇陵の神風串呂」は、 室町王権がいかなる手法で皇統を簒奪し、どのような影を残したのかを、胡麻・田貫・弓削・大芝という地文によって明確に示している。
串呂は嘘をつかない。 地文は隠された歴史を照らし出す。
🟡地文の解説
主要地文の簡単な解説を試みた。
🔶曲り(まがり/岡山県真庭市)
皇統の流れを意図的に“曲げた”ことを示す。
🔷崇神天皇陵の串呂でも確認された重要地文だ。
「曲り-大酒-JR厄神駅-⛩️崇神天皇陵-大王町(志摩市)」


🔶一宮町(いちのみやちょう/兵庫県宍粟市)
一宮 三串 -🔴-🔴-🔴- は、後花園天皇が長男であることを示す。
簡単に「三串/みつくし」といいますが、一直線上に、同文同種の地文が3つ揃う事は至難の業です。
三串 -🔴-🔴-🔴- の串呂は、超重要串呂を示す「絶対確証の神風串呂」というタイトルが与えられます。

🔶多利(たり/兵庫県丹波市春日町)
利益優先主義の唯物史観を示す。
室町王権の政治思想を象徴。

🔶上胡麻(かみごま/京都府南丹市日吉町)
🔶胡麻(ごま/京都府南丹市日吉町)
誤魔化すを示す隠語です。
皇統簒奪・系譜操作・出自隠蔽を示す。
北朝の皇統を背乗りして皇統簒奪したことを隠し、系譜を操作して貞成親王の父が誰であるかを隠蔽した。


🔶田貫町(たぬきちょう/京都市右京区京北)
狸(たぬき)の同音による同義語で“たぬき=化かす”。
武士が、北朝の皇統に化けたことを示す。

🔶下弓削町(しもゆげちょう/京都市右京区京北)
🔶上弓削町(かみゆげちょう/京都市右京区京北)
弓削道鏡の象徴。
臣下が皇位を窺う“簒奪”の地文。易姓革命です。
弓削といえば、臣下が皇位を窺った弓削の道鏡事件が有名です。弓削の道鏡は、法王に就任しており、天皇同等の待遇(法王の月料は供御に準ずる)を受け、大臣以下の拝賀を受けるなど、実質的に天皇と同格だったことが分かります。
🔴弓削の道鏡=法王=天皇と同格だった!=実質天皇


🔶彦根市(ひこねし/滋賀県)
彦仁(ひこひと/後花園天皇の忌み名)

🔶一宮市(南部/愛知県)
一宮 三串 -🔴-🔴-🔴-は、後花園天皇が長男であることを示す。

❇️一之宮(いちのみや/神奈川県高座郡寒川町)
一宮 三串 -🔴-🔴-🔴-は、後花園天皇が長男であることを示す。

❇️大芝(おおしば/千葉県茂原市)
“大芝居=政治的欺罔”。
両統迭立という“和平の芝居”を象徴。
大芝は、大芝居(人目を欺くはかりごと)を示す地文です。
足利将軍が、南朝副統の後亀山天皇を「両統迭立案」で釣り上げ、和平統一と言う政治的大芝居を演じた事を示すと読解できます。
足利将軍は、富士谷御所に南朝正統の天皇が存在していることを百も承知で⛰️富士を見るためと称して、将軍自ら率いる大軍で富士谷を急襲した事が記録されています。(「長慶天皇紀略」「宮下文書」)

総括
これらの地文はすべて、 室町王権が「誤魔化し・化かし・簒奪」を基盤として成立した王権である という一点に収斂する。
天子ヶ岳を起点とした今回の串呂は、 後花園天皇個人ではなく、 室町王権そのものの“成立構造”を暴き出したと言える。
【参照】
🔴前号でも、大芝が配置されていました。
⭕後花園天皇陵(京都市右京区京北井戸町)
至点 第102代の天皇陵
⬇️
❇️信州大芝高原(しんしゅうおおしばこうげん/長野県上伊那郡南箕輪村大芝)
大芝居(人目を欺くはかりごと)
⬇️
⭕足利市役所(栃木県足利市大橋町)
🔴後亀山天皇を“釣り上げた”両統迭立の約束
――そして義満と後小松が破った「裏切り」の実相
南北朝時代の最終局面――。 この時代を象徴するのが、「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という約束です。 これは、北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)が 交互に天皇を出す という取り決めで、 長く続いた皇統分裂を終わらせるための“唯一の妥協点”でした。
しかし、この約束は 足利義満と後小松天皇によって破られます。
その結果、後亀山天皇は深い失望の中で吉野へ潜幸し、 後南朝の抵抗運動へとつながっていきました。
この項では、この「裏切り」の構造を、 一般の読者にも理解できるように整理して解説します。
1、南北朝合一の条件は「両統迭立」だった
南北朝の対立は50年以上続き、南朝は疲弊し、北朝は義満のもとで強大化していました。 その中で、南朝側が和平に応じる条件として提示されたのが 両統迭立 です。
●後亀山天皇はこの条件を受け入れた
1392年、後亀山天皇は三種の神器を携えて京都へ向かい、 北朝の後小松天皇に譲渡しました。 これが 明徳の和約 と呼ばれる南北朝合一です。
「後亀山天皇は、将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、 三種の神器を北朝の後小松天皇に伝えて、南北朝合一を実現した」
つまり、後亀山天皇は “交代で天皇を出す”という約束を信じて神器を渡した のです。
2、しかし義満は約束を守らなかった
南北朝合一後、義満はすぐに 両統迭立を破棄する方向へ動きます。
●義満は北朝単独の皇統を確定させようとした
後亀山天皇が上皇として大覚寺に退いた後、 義満は後小松天皇の皇子・躬仁親王(後の称光天皇)を即位させる準備を進めました。
これは、南朝側の皇子を次代に立てるという 両統迭立の約束に反する行為 でした。
「幕府が講和条件の重要事項である両統迭立の約束を破って、後小松天皇皇子の躬仁親王の即位を目論んでいた」
義満は、南朝の血筋を皇位から排除し、 北朝=持明院統の単独皇統を確定させる ことを狙っていたのです。
3、後小松天皇もまた約束を反故にした
後小松天皇は神器を受け取った後、 南朝側の皇子を皇太子に立てることなく、 義満の意向に従って 自らの皇子を後継に据えようとしました。
これは、南朝側から見れば明確な裏切り行為でした。
4、後亀山天皇の怒り――吉野潜幸へ
両統迭立が破られたことを知った後亀山天皇は、 1410年、突如として嵯峨を出奔し、吉野へ潜幸します。(6年間)
「幕府が両統迭立を破って後小松天皇皇子の即位を目論んでいたことから、 その動静に不満を抱く後亀山法皇の抗議行動であった」
これは、南朝の正統性を守るための 最後の抵抗 でした。
後亀山天皇の潜幸は、のちに 後南朝の蜂起 へとつながり、 南朝の血統は幕府に対して長く抵抗を続けることになります。
5、なぜ義満は裏切ったのか?
義満の目的は明確でした。
① 北朝の皇統を唯一の正統とするため
南朝の皇統を認めれば、皇位継承は再び混乱する。 義満はそれを避け、北朝の皇統を固定化 したかった。
② 幕府の権威を最大化するため
義満は天皇を凌ぐ権威を築こうとしており、 皇統問題を自らの手で“解決”することは政治的な勝利でした。
③ 南朝の勢力を完全に解体するため
南朝の皇子が皇位につけば、南朝の残党が再び勢力を持つ可能性がある。 義満はそれを恐れ、南朝の血筋を皇位から排除 したのです。
6、この「裏切り」が後世に残した影
義満と後小松の裏切りは、単なる政治的駆け引きではありませんでした。
それは、皇統の正統性をめぐる深い傷 を残し、後南朝の蜂起、南朝遺臣の抵抗、そして近代に至るまでの皇統論争へと影響を与えました。
南北朝の正統が明治政府によって「南朝」とされたのも、 この裏切りの歴史が背景にあります。
7、遠望神慮
南朝正統家(天津日嗣の天皇家)を守り抜くため、後醍醐天皇は大胆な二重構造の戦略を敷いた。
すなわち、南朝を“正統(内伝)”と“副統(吉野朝)”の二系統に分け、自らはあえて副統=吉野朝の初代天皇として前面に立ち、 正統家を守るための陽動作戦を実行したのである。
後村上天皇は、この後醍醐天皇の深謀遠慮をよく理解していた。 しかし、内伝の正統天皇家の存在は極秘中の極秘であり、その情報は 後亀山天皇には伝えられなかった と考えられる。(詳細不明)
文献史料 『小倉宮伝記』(『長慶天皇紀略』所収) には、 南北朝の和睦に先立ち、長慶院法皇の第一皇子(猶子)である 正良親王 を後亀山天皇の皇太子に立てたことが記されている。
ところが、正良親王は 和睦に強く反対 したため廃坊となり、 代わって広成親王が後亀山天皇とともに和睦に臨むことになった。

この正良親王こそ、 三浦皇統家の遠祖である 第99代 松良天皇(正良) であり、崇神天皇の御代以来、代々の天皇が継承してきた 三種の神器(形代)を奉持する“内伝の天皇” であった。
正良親王が、長慶院法皇の掲げた 「徹底抗戦」 の精神を守り、和睦に同意しなかった―― その一点によって、今日まで三浦皇統家が存続している。
これは、まさに 遠望神慮(えんぼうしんりょ)―― 天の深い計らいが働いた瞬間 といえるだろう。
三浦芳聖師は、後亀山天皇は、南朝の勅使であったと述べている。
このような串呂が構築されているのは、神界が後亀山天皇は南朝の前衛(副統)であったと見ておられる証であろう。

小倉(兵・丹波市)-勅使(兵・丹波市)-東勅使(兵・丹波市)-小倉(兵・丹波篠山市)ー宮代(兵・丹波篠山市)-後亀山院御陵(京都市右京区)-勅旨(滋・甲賀市)-野村(三・伊賀市)
(研究の成果を盛り込み新住所に改めた。滋・甲賀市信楽町の勅使は、勅旨に訂正しました。)
この串呂の詳細は、下記で読むことが出来ます。
🟡読者の皆様に!
【神風串呂】は、皇祖神・天照大御神が日本民族に授けられた、目に見える啓示であり、二千年の時を超えて今、私たちの前に顕れた「神の言葉」です。
このページに辿り着かれた貴方様とのご縁に、心より感謝申し上げます。 本記事は、天照大御神の御神意を体現し、地上に遣わされた神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師が創始された「串呂哲学(神風串呂)」の真髄をお伝えするものです。
『神性敬遠の二千年史-皇祖神からの伝言』が明かすように、我が国が「天皇を日本国および日本国民統合の象徴と仰ぐ王政」を未来に継承したいと願うならば、皇祖神の御神意に添い奉る道を選ばねばなりません。 さもなくば、我々はこのまま異民族の支配に甘んじ、日本民族本来の尊厳と特性を失い続ける危機に直面し続けるでしょう。
神風串呂には、日本民族が進むべき道が明確に示されています。今こそ、真実に目覚め、御神意に立ち返る時です。 この情報を一人でも多くの方に届けるため、どうか拡散のご協力をお願い申し上げます。
なぜ天照大御神は、長きにわたり神風串呂を構築し、神皇正統家を顕彰されるのか? この問いに真摯に向き合い、串呂哲学の核心を学ぶことで、我々が今なすべき第一義が明らかになります。 そこにこそ、日本民族の再生と未来が懸かっているのです。
神風串呂、そしてそこに示された神皇正統家は、日本民族の魂の根幹であり、かけがえのない宝です。 二千年の歳月をかけて神風串呂を築かれた天照大御神の御心と、命を賭してその真理を解き明かされた三浦芳聖師のご労苦が、今こそ日本国と国民の幸せの礎となることを、心より願ってやみません。
🟡祈り
全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします。
🟡神風串呂を学びましょう!
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
著者 鈴木超世志のプロフィール
中学一年満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年愛知県生れ75才。
串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。
著 書
「神風串呂入門」
「ここまで解った元伊勢伝承」
「開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道」
「神性敬遠の二千年史-皇祖神からの伝言」
「天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編」
など多数
ブログ
串呂哲学研究ノート
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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