【小説】小指の神様-④High-spec. SUV
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翌週から急に忙しくなり、小野さんとは目配せする程度の余力しかなかった。
それはもう「どうにもならない」と「どうにかする」という二重惑星の業務軌道を高速で回る忙しさで、二十三時過ぎに帰宅してシャワーで化粧と溜息を落として眠るのがやっと。
だから「週末、買物に付き合ってほしい」と言われたとき、出掛けるよりも自宅で惰ていたかったのに、気になって結局、銀座まで出て来た自分に少し呆れた。
四丁目交差点の果てからやってくる小野さんの右肩には、Wilsonのラケットバッグが掛かっている。
テニス?
うん、勝ったから気分がいい
すっきりと打ち返す彼は「最近、忙しそうだね」と私を慮るが、職種的にも立場的にも彼の方が相当ハードに違いないので「小野さんの方がとびきり忙しいでしょう」と聞く。
僕は適当にやってるから
長谷川さんは、真面目そうで
そう言って一呼吸置き「気分転換も苦手そうだし、敢えて誘った」なんて楽しげに悪い顔をするから、ふらっと揺れる小指と一緒に老舗の文房具店に向かった。
帰任するイギリス人上司の送別品を探しに。
私たちの勤め先は監査や税務などを総合的に扱う会計事務所だった。本部がロンドンにあり、外国人の上司が定期的に赴任してくる。
彼らは ”Migratory birds” と呼ばれていた。週単位で世界中を飛び回っているからだ。
私はそういう人たちの秘書で、住居の選定など日本での暮らしをサポートしたり、スケジュール管理をする。時に帯同する家族の世話をすることもあった。
ああいう生活は私には無理
俺も無理だな
そうかな、できそうだけど
飛び続けるには、地に足がつき過ぎてる
店舗に入り、筆記具コーナーまでエレベーターで上がる。フロアには、品の良い万年筆たちが行儀よく並んでいた。
小野さんは、蒔絵や螺鈿のペンカウンターで値段を見て「うわ、高い」と呟いて続ける。
「『駆』って名前は、『大地を駆け回るような子に』って付けられて、だいたいその通りに育ったから、空とか飛行機は柄じゃない」「まあ、強いていうなら車かな。LAND CRUISERとか」
たしかに。彼には浮ついたところがない。大学在学中に公認会計士試験に合格し、会計士登録を終えてから、外資系会計事務所に転職、着々とキャリアを重ねている。
じゃあ、私は?
目線を上げると、彼は文様違いの螺鈿の万年筆を三本、見比べながら「うーん、気球...」と漫ろに呟いたあと、その内のストライプ柄を選んで店員に声を掛けた。そして私の方に向き直り
いや、風船か
糸が切れてるやつ
と言って、にやりとする
失礼よ、それ...
と答えたものの、内心では妙に納得して表情を崩したことに気づいた神様が
チョコレートを
『賭ける』対象の
テニスコートを『駆ける』
駆くんは
デリカシーに『欠ける』よね
って慰めてくれたから「ほんと、そう」と相槌を打ったのに、風船の件を肯定されたと勘違いした駆が「そうだろ」と得意気なので、肘で脇腹を小突いてやった。
てきぱきと包装された万年筆を受け取って、最上階のカフェレストランに行く。
午後四時過ぎだったが、遅めの朝食しか取っていない私と、十一時から三セットマッチこなした彼は対照的な理由にせよ、とにかく空腹だったので、それぞれ海老のアルフレッドとハンバーガーを注文した。
巨大なハンバーガーを、駆はナイフとフォークで手際よく食べている。動きに無駄がない。
食事マナーだけでなく、休日にはテニスで身体を整え、平日にできない買物を済ませて、気になる女性との時間も程よく確保するその全てが。
上手いこと計算するのが
彼の仕事だもの
と小指が口を挟む
一緒にいると節々から彼の好意を感じた。同時に遠さも。東京で生まれ育った彼にとって此処は庭先でも、地方から飛んできた風船の私には見知らぬ人の玄関で、どこか浮いている。
地元では、梢さんがしっかりと糸を掴んでいてくれたから、流されたりせずやってこられたんだろう。
そうして一瞬、目を閉じて梢さんのことを思い浮かべたけど、すぐに戻ってパスタをフォークで束ねて口にする。
気を取り直して壁に掛かった時計のプリント画に目をやると、それに気づいた駆は、はっとして言った。
そういえば
このあいだ画集持ってたよね
藤田嗣治の
ああ、うん。好きなの
うちに版画があるんだ
今度、見にくる?
ヒィュゥゥゥゥゥと神様が口笛を立てて舌を巻く。単なる思いつきなのか、計算された誘いなのか判断できず「へぇ、すごい。そのうち是非」と一旦、間を置いた。
いずれにしても、この駆け足の高性能SUVが、糸の切れた風船が不時着しても安全な場所かどうか見極めるには、もう少し時間が必要だった。

