渡辺温と城昌幸の関係について
先日、城昌幸さんの研究会にて渡辺温と城昌幸の関係について幾らかお話させていただいた。面白い話だったと何人かから言っていただけたので、案外需要があるのかもしれないと思って話した事を改めて書いておこうと思う。
※このアカウントは渡辺温研究の物なので、渡辺温視点での書き方になりますが、現地では城昌幸側の視点でお話させていただきました。
1・編集者と作家として
最初の出逢いは新青年編集記者の渡辺温と作家の城昌幸としての出逢いだったのではないだろうか。二人の交わる点を簡単な年表にして見てみよう。
大正14年頃
城昌幸、新青年に掌編の発表を始める。
大正14年 9月号「その暴風雨」「怪奇の創造」(※大正14年9月号には小酒井不木、水谷準、翻訳で甲賀三郎、牧逸馬などが執筆しており、モダン化する前の新青年でも活躍していた人だと言う事が感じられる)
大正15年 5月号、8月号、寄稿。
昭和2年1月
渡辺温、博文館に入社する。
昭和2年2月頃
横溝正史が新青年編集長となり、渡辺温は正式に新青年の編集記者になる。
城昌幸、新青年2月号、4月号、10月号、昭和3年1月号に掌編を寄稿。
このうち渡辺温が編集記者として関わったのは、昭和2年4月号と10月号、3年1月号。(※因みに昭和2年10月号には城昌幸の「殺人淫楽」と共に、渡辺温の「可哀相な姉」が掲載されている。他、葛山二郎の「股から覗く」小酒井不木「死体蠟燭」瀬下耽「石榴病」が掲載されており、傑作揃いの10月号であった)
昭和3年7月
渡辺温、博文館退社。新青年の編集をやめる。
城昌幸は3年11月号、4年8月号、10月号、と新青年に寄稿。
昭和4年11月 渡辺温、博文館再入社。
新青年編集部に復帰する。誌面上では1月号からの復帰となっている。(※11月に作ったものが1月号になるため)
城昌幸、新青年昭和5年1月号へ寄稿。
昭和5年2月10日 渡辺温、事故により死去。
城昌幸、新青年昭和5年11月号へ寄稿。
と言うわけで、渡辺温が編集部に居る時に城昌幸が寄稿したのは4作。温が居る時・居ない時と比較しても執筆ペースにはそう変わりがないように感じられる。故に温は編集者として城に特別深く関わったということはなさそうだと僕は考える。ただ、最初の接点は編集者と作家という関係であったと思われる。そういう話です。
因みに、温は1902年生まれ、城は1904年生まれで城の方が2歳年下になる。渡辺温のデビューが大正14年・苦楽掲載の「影」なのでデビューは同期だが、年齢的には城の方が早かった。
2・渡辺温が銀座で最後に飲んだ相手
渡辺温氏と銀座で会い、「ジャポン」という酒場で飲みました。この店は、銀座五丁目の表通りの二階で、今のスエヒロのあたりでしょうか。
温氏は、その日の夜行で、芦屋あたりに住んで居た谷崎潤一郎氏の「武州公秘話」の原稿を取りに赴いたのですが、(以下略)
城によると温が事故死する直前(昭和5年2月8日)に会って一緒に酒を飲んだという話だった。この時の事を以前、当時の時刻表を使って調べたのだが恐らく18時〜20時頃まで温と城は飲んで居たのではないかと考えられる。
↓城と温が飲んだ時間を割り出した詳細はこちら
温の死を受けて、城はこのように書いて居る。
自分とは、何の関係もないのですが寝覚めの悪いような思いをしました。
3・一緒にチャブ屋へ行き、温の家にも行く仲だった
城昌幸による「横溝編集長の頃」というエッセイにはこんな話がある。引用すると長くなるので要点をまとめてみる。
1・銀座・チャブ屋へ行った
昭和3年頃の気候の良い或る夕方、城が新青年編集部へ原稿をとどけに行くと(※「罪せられざる罪」昭和3年11月号掲載=9月末〆切作品だと思われる)、横溝正史に誘われて一緒に銀座へ飲みに行った。その日編集にいた渡辺温も一緒に3人で会社のつかいつけのタクシーで出掛けた。そして11時頃に銀座の店が閉まると、円タクを使って横浜・本牧のチャブ屋に行った。チャブ屋を適当に切り上げた後、午前3時頃に車で鎌倉・材木座の温の家に行った。
【註】この時、渡辺温は博文館を退職していてフリー作家をしている時。なので「編集にいた」は在籍の意味ではなく、部外者として編集部に遊びに来ていたのだと思われる。ただ、城はその時の温が博文館を辞めていた事を知らなかったかもしれないが。
【註2】新青年界隈へ「チャブ屋」を持ち込んだのは渡辺温ではないかと僕は考えて居る。本牧は岡田時彦の家があり、岡田はチャブ屋でよく遊んで居たそう。岡田の友人である温がチャブ屋を紹介されて、その後横溝に紹介したのではないだろうか。
2・城昌幸もサイセリヤの常連
城昌幸も渡辺温いきつけのバー「サイセリヤ」で飲んで居た。サイセリヤの店主が、城らが飲んだ分のお金は店主が買った自家用車のシートの分くらいはある、と言ったと言う事。ということはかなり常連だったのではないだろうか。サイセリヤは横溝正史、水谷準、岩崎昶など渡辺温の周りの人物やその他著名人も出入りする店で、当時の銀座の中では最も近代的な店だったという事。
3・温の妻が出した酒場に行った事がある
温の未亡人・マリが、昭和6年温の死後に出した酒場に飲みに行ったことがある。温の死後も忘れずに繋がりを持って居たことを感じさせられた。店の場所は武蔵小山との事で、銀座でふらっと…ではなくてわざわざ赴いたという事なのだろうか。
渡辺温と城昌幸の関係性について
これらの事から、渡辺温と城昌幸は飲み仲間であり、温のお気に入りであるチャブ屋も一緒に楽しんで、家にまで行って泊まった仲だという事になる。
温26歳、城24歳の頃。何軒も飲み歩いて、ここまで長時間過ごせるのだから相当盛り上がったりお互い話して居て楽しかったのではないだろうか。特に人見知りの温がここまで深く付き合うのだから。
ただ、温が死んだ時の話に城はそう感情的な言及がないので、横溝や水谷のような深い付き合いと言うよりは「楽しい飲み仲間」という関係だったのではないかな? と僕は考えて居る。
中村進治郎
余談だが、城昌幸は中村進治郎と「妙にウマが合って銀座を流し歩きしましたが」ということも書いて居る。当時の最尖端モダンボーイと気が合って、一緒に歩いて居たというのだから、和装で殿様趣味の城だが内面にはモダンなノリがあったことが覗えるエピソードだと思われる(※世代もあると思うが、渡辺温に連れられて行ったチャブ屋で踊れなくて固まっていた岡戸武平(1897年生まれ、城の7歳年上)とは対照的だと思う/幻影城2巻9号「博文館の侍たち」岡戸武平 より)
また中村進治郎は鎌倉時代(昭和3年頃)に一時期渡辺温の家に居候をして居た事があるそうで、此方も城と温の共通の友人だと言う事になる。
4・二人の類似性
確か渡辺温の兄・啓助が「温と城昌幸は洋装と和装で正反対だけど、中身は似ているところがあった」という意味のことを書いて居た。(※出典元を思い出し次第大至急追記します。すいません)
孤独感
「ママゴト」「殺人淫楽」、それから城の邸宅「其蜩庵」の間取りを見て、城は根底の部分に孤独な感覚を持って居る人だと感じた。また渡辺温の作品にも何処か孤独を感じるし、よく寂しそうな目をしていた様子が及川道を始めとして複数の人が書き残して居る。あの頃(昭和3年)のモダンな若者特有の軽やかさと、二人の作家性でもある孤独のバランスが兄にこの二人を「似ている」と思わせたのかもしれない。
物語に見る類似性
大正14年に城が発表した「その暴風雨」という物語がある。
≪ネタバレ注意≫
暴風雨の中商船を操縦する船長の元に「暴風雨で船が沈んでしまうのではないか」と心配した乗客が何度も聞きに来る。船長はそのたびに大丈夫だと答えるが、何度も聞かれるうちにイライラして「沈みますよ、そういった方が(いいんですか?)」と言うと乗客はそれを聞いて沈むんだと思い込み恐怖の余り拳銃自殺をしてしまった。という話。
≪ネタバレ終了≫
また渡辺温が学生時代(大正12年〜14年頃)に構想を持っていた話にも、少し近いものがある。
何もしない人間が何となく交番の前で怪し氣な擧動をする。變な擧動をすれば怪まれるだらうな、と考へた途端、急に自分の一擧一動が變に思へて仕方なく、平常の通にしようしようとあせつて本當に怪まれ、捕へられて遂に死刑になる話
こちら→ https://note.com/on_i/n/nc36b1913b54c
こちらも現実には何もおかしな事はないのに、その人の不安と妄想が死を招いてしまうというような話。
ただ、こうして比べてみると城の方は自分はマトモであるのに不安を持った他人がどこからともなく現れて勝手に自殺をしてしまうという話で、温の方は自分の中から不安が生まれてその結果他者(警官/法律)によって死刑にさせられてしまうと言う話で、不安の出所が対照的である。
城→ 自分(船長)は正常/不安→他者が持ってくる/死→他者が勝手に自殺した(余韻として自分にも不安がなんとなく伝染しているようなムードはあるが明確ではない)
温→ 自分が異常になる/不安→自分の内側から湧いた考え/死→他者が自分を死刑にする。それも警官、法律、国家という圧倒的な他者が。(※国家と自己を同一視するナショナリストとは相反する感覚が此処にも見える気がする)
こう比較すると似ている二人だが、根っこの部分に作家性の違いが現れているように感じる。
詩のような掌編群
城昌幸は詩人である事もあり、詩を書くような感覚で掌編を書いて居たという話があるそうだ。
確かに、初期の掌編「その暴風雨」「殺人淫楽」などは変格探偵小説としての筋の面白さ以外にも、言葉の描写や選び方の美しさや愉しさみたいなものがあると僕は感じた。城の中に在る幻想的な光景を表現する言葉を知っていること、その言葉たちを使いこなせるという歓び、言葉と戯れる高揚感、僕は個人的にそのようなものを感じた。読後の余韻はオチなどどうでもよくただこの掌編まるごとのムードを感じるのが鑑賞として正しい姿勢なのだろう、と思わされるほどに言葉では捉えられないうつくしい物があった。
人を楽しませるための意外なオチとアイディア!の小説ではなく、総てが城の心象を表現するための世界であり文章なのではないかと僕は感じた。詰まり詩を読むように僕もその掌編群を味わった。
また、僕がかねてより主張している事ではあるが、渡辺温の作品も僕は半分は詩のようなものだと考えて居る。温の持つ心象風景がたまたま探偵小説の世界とマッチしていたから新青年に掲載されたり探偵小説作家たちと縁が出来たけれど、彼の作品というのは半分は詩(実生活での感情など)と私小説(設定やディティールなど)で出来ていて、もう半分が怪奇幻想的な空想とロマンチックな嘘で出来ているのではないかと考えて居る。
僕の主張がまっとうであれば……という前提が必要になるが、個人的には詩を書くように掌編を描いて居たという点も、実は近いのではないのかと感じて居る。
5・金田一耕助で繋がる二人
金田一の和服
城昌幸研究会の方にお伺いしたことだが、金田一耕助が和服なのは何時も和服だった城昌幸に由来があるということだった。
金田一の帽子
金田一耕助の帽子と言えば、古谷一行が演じる金田一耕助が被るチューリップ帽のイメージが強いが、正式には山高帽だそうだ。犬神家の一族には「くちゃくちゃに型のくずれたお釜帽」という描写があるとのこと。
(※金田一耕助シリーズについては、僕は随分昔に読んだきりで手許にも無く犬神家の引用もカドブンのサイトがソースです)
山高帽と言えば渡辺温である。シルクハットの方がイメージが強い渡辺温だが、日常では山高帽の方を愛用していたような様子が見られる。
大正時代から付き合いがあった人達は、温の思い出を山高帽姿で描いているし(※オアシスの渡辺温特集など)、及川道子の回想の中でも温は山高帽らしかった。また、現在温のシルクハットが綺麗に残って居るということは、事故の時には別の帽子を被っていたのではないかと僕は考えて居る。
恐らくシルクハットのインパクトの強さで、その姿ばかりが思い出として残されているが、実際は山高帽を被ることも多かったと思われる。
ちなみにこちらが、縁あってうちに来てくれた金田一耕助の山高帽です。
↓

そうしてこれが、僕が以前から愛用している山高帽。↓

金田一耕助モデルの山高帽と一般的な山高帽を比べてみると、金田一の帽子の方が正円に近いようなまんまるな事はおわかり頂けるだろうか。被ってみても大きく印象は変わらないし、実際手に取って多少…と感じるくらいの違いなのだが、金田一の帽子は「お釜」をイメージした形で作られていた。微細な差だが、金田一の帽子の方が少しだけ大きくて存在感がある感じがする。
温は「くちゃくちゃに型のくずれた」山高帽では無かっただろうが、横溝は温が愛用していた帽子に着想を得て、金田一に山高帽を被せたのではないのだろうか。
もしこれらの話が、本当にそうであるなら、金田一耕助というのは渡辺温+城昌幸を掛け合わせたキャラクターだと言う事にもなる。これもまたバー・サイセリヤの夜がよき形で結晶化した物だと言えるのかもしれない。
現地の会ではこのような内容でもう少しコンパクトにお話させていただきました。また(3)の夜遊び仲間だった話は家に帰ってから思い出したので、この機会に記しておきました。
最後に。よい機会をお与えいただいた城昌幸研究会の皆様には感謝しております。ありがとうございました。
いいなと思ったら応援しよう!
渡辺温や1920年代関連の研究に使わせていただきます。少しでもご支援いただければ幸いです。