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インタビュー(再録その1)◉松島朝義さん「柳宗悦と民芸運動をめぐって──沖縄の「もの」にかかわりつつ」

かつて沖縄タイムス社は、「文化と思想の総合誌」と銘打って、季刊誌「新沖縄文学」を刊行していました。創刊は1966年、休刊は1993年。戦後沖縄をめぐる論壇の中心として、強力な磁場をかたちづくったメディアです(なお、2025年には、「戦後80年」と「新沖縄文学賞50回」の節目を記念し、特別復刊号が刊行されました)。

1989年夏に刊行された第80号の特集は「沖縄と柳宗悦」。これは柳の生誕100周年を記念したもので、仲程昌徳、渡名喜明、屋嘉比収、親富祖恵子などが、多角的な分析や批評を繰り広げています。

とりわけ異彩を放っているのが、陶芸家・松島朝義へのインタビューです。このとき松島は42歳。恩納村名嘉真ヤーシ原に穴窯を築いてから7年目。精力的に、さまざまな試みをおこなっていた時期にあたります。

実作者としての立場から、民藝運動の功績と限界を腑分けする発言は、いまなお多くの示唆を与え、聞き手である岡本恵徳との丁々発止のやりとりは、アクチュアルな指摘に満ちています。「沖縄」と「民藝」の抜き差しならぬ関係を考えるための論点は、ここにほぼ出尽くしているといっていいでしょう。これが35年以上も前に書かれたものだということに、われわれは驚かなければなりません。

今回、松島朝義の世界展「窯変する沖縄」を開催するにあたり、この20,000字(400字詰原稿用紙50枚ほど)にもおよぶ、貴重かつ重要な証言を、3回に分けて再録・公開します。あわせて、聞き手を務めた故・岡本恵徳さん、当時の「新沖縄文学」発行人である故・川満信一さんに、大いなる敬意と深い哀悼の意を捧げます。 (おもろ友の会)


1 民芸運動の流れと影響

──今日は沖縄と「柳宗悦」のかかわりを軸に柳さんの民芸理論や沖縄の「もの」が外部に触発したものなどについて、実作者の立場からアプローチしていただきたいと思います。
 
松島 僕は陶芸でめしを食っているものだから、工芸全般ということではなくして、「やきもの」という視点で話したいと思います。柳さんは文章では基本的には「やきもの」を象徴化させて書いていますので、僕にとってはやりやすいですね。
 
──最初に柳さんが沖縄にくる背景とか民芸運動からふれていきたいと思いますが。
 
松島 端的に言えば、柳さんにとってはまず朝鮮があり、それから沖縄です。柳さんと尚昌侯は学習院の同級生で、その頃沖縄に行きたいといっていたんですが、尚昌侯が早逝してしまって、それで十年ほどずれてから沖縄に来ていますね。それ以前に浜田庄司さん、河井寛次郎さんは来てますけどね。
 
──いわゆる民芸同人たちですね。その人たちのやきものに関する考え方はどうですか。 
 
松島 具体的に言うのは難しいんですけど河井さんについて言えば、河井さんが昭和一四年に書いた「壺屋と上焼」と、二八年に書いた「火の誓い」という文章があります。この二つの間には十年余りの時間がたっていますけど、内容を見ると基本的には河井さんの世界はそんなに変わっていないと思います。ただ民芸派の中では河井さんは、ずれたんですよ。その前に富本憲吉さんがずれていますけどね。 


壺屋の陶器はこんな中から出来てくるのである。材料と技術の外に環境と暮しがどう物を決定するかと云ふ事の、これらはその僅な例に過ぎない。 
人は物の最後の効果にだけ熱心になり勝ちである。そして物からは最後の結果に打たれるのだと錯覚しがちである。しかし實は、直接に物とは縁遠い背後のものに一番うたれてゐるのだと云ふ事を、この土地と人とは明らかに示してくれてゐる。 

河井寛次郎「壺屋と上焼」(琉球の陶器・民藝叢書第四篇)昭和17年、昭和書房、122ページ


美しい物はどこから生れるかといふ事を見せられてきたこれらはその内の僅かであるがその實例でもある。材料と技術とさへあれば、どこでも美しい物が出来るとでも思ふならば、それは間違ひであると思ふ。人は物の最後の効果にだけ熱心になりがちである。そして物からは最後の結果に打たれるものだと錯誤しがちである。しかし實は、直接に物とは縁遠い背後のものに一番打たれてゐるのだといふ事のこれは報告でもある。 

河井寛次郎随筆集『火の誓い』昭和28年、朝日新聞社、68ページ


 
──そうするとやきものに対する意識というのはほとんど変わっていないということですね。それをまず確認したいと思います。そして恐らく今も基本的には民芸運動の主流の人たちの意識はそれほど変わっ ていないんじゃないかと思いますが。
 
松島 思想的にはそんなに変わってないと思います。ただ河井さんの場合、変わってはいないけれど、出てきた「もの」が全く食い違うということがある。考えることとできてくるものがこうも分離するのかと評価する人がいますが、僕もそういう感じはしています。
 
──それはどういうことですか。
 
松島 例えば柳さんが美を見つけるときには、ものを見て必然的に背後にこういうものがありえると論理化するわけです。実作者である河井さんが、柳さんの理論と同じものを持っていても、できあがった作品は生理が前面に出てしまう、作る側の肉体性が出てくる。だから河井さんの場合は民芸理論の中で立脚した言葉よりも、作品を見た方が彼そのものであると捉えられるんじゃないかと思います。
 
──だけど民芸運動として見たとき、河井さんの場合は実作者だけに運動の中心から離れてしまっているということはありませんか。
 
松島 河井さん、棟方志功さんも最終的にはものすごく民芸派からずれますね。例えば河井さんと浜田さんを比べたら、同じ素材を扱っていても浜田さんの作品は写すことができるが、河井さんのは個人が肉体性として前面に出ているものだから模倣することが難しい。それが浜田さんの意識的なことなのかどうかは、よくわかりませんが。だから案外、浜田さんは評価されればされるほどさめている部分があったんじゃないか、河井さんはむしろ自分を出しすぎたという感じが非常にします。
 
──民芸運動としては現在、浜田さんと河井さんの二つに方向が別れているといっていい?
 
松島 はい、これは思想ができてからそれを論理化して運動体として継続させようとすると、どうしても浜田さんと河井さんが前面に出てきます。その出方は極端にいえばアマチュアなんですね。その思想から出てきた当事者は、誰かに弟子入りしたとか、かつて親がやっていたというふうなものじゃなくて、学校に入って、柳さんとの出会いがあって実作者に転向するというかたちです。アマチュアが指導者の立場になると、プロに対してはそんなに影響を与えないと思います。影響を与えたのは後続するアマチュアに対してですね。アマチュアにも浜田さんのように、ある地域性をかかえて「やきものの里」づくりとして展開するのと、河井さんのように個人として作品をつくり出すという二つの流れがあります。そういう意味では、日本の陶芸史というのがあるとすれば民芸運動は画期的な出来事だといえます。
 これはもっと枠を広げてみてみると、縄文時代は皆アマチュアなんです。それがだんだん職業化し、プロ化する。そして近代以降は逆にアマチュアに戻る。今の作家のありようをものづくりにたとえたら、抽象的なものから具象に移り、また抽象に戻るというかたちですね。だから今は抽象化されたものが陶芸の先端というようなかたちで展開されていますが、そのきっかけを作ったという言い方をすれば、民芸運動は、そのはしりだと思います。
 
──民芸運動はむしろアマチュアに影響を与えた、アマチュア作家の登場を促したということですが、しかし民芸運動と一般に言われているのは、いわば地方の無名の職人の仕事をとりあげて意味づけた、そういう面で高く評価されているという側面があるでしょう。
 
松島 それはものを実際に作っている現場に柳さんの言葉が入ってくるか、ということだと思いますが、そういう意味で言えば入ってこないですね。入ってきたら意識するからダメだ、というのが柳さんの言葉です。じゃ誰に向かって喋るかというと近代ですね。時代がこうなるということが読めていて、そういう時代がいかにだめか、近代以前の方が人間にとっては救われるというふうにね。だから実作者にその言葉がはね返ってくる運動であるかといえば、僕はそう思わない。
 
──ただしかし民芸運動の結果として伝統工芸の見直しがあったり、或いは雑器にも美があるんだというふうに美意識の変化をもたらしたとか、そういう面はあるでしょう?
 
松島 いや、この辺は人間が見えないんです。人間同士で喋っているという言葉にはどうしてもならない。ものがものを介在させている。背景を見ようとしているけれども、それは人間じゃなくして時間とか空間性を読もうとしていると思います。ただ一つ言えることは「日展」などに工芸部門が入ってきたのは民芸運動の力ですね。「沖展」もそうです。
 
──職人たちにとっては自分たちの社会的な存在価値をバックアップしてくれたという、そういうものはないですか。
 
松島 いや、そういうことはないですね。例えば、ものが出てくる背後には学問もいらない、ある宗教性があって現実を生きていける人、というふうに限定していますから。当時の沖縄の現実としては、学問しなければ「糸満売り」みたいな形になるよ、ものを作るより学問して公務員にでもなったほうがいい、それ以外なかったんじゃないかな。近代を読めている人がなおかつ「もの」がいい、という部分は受け入れられるけれども、近代に向かって上昇しようとしている人たちにとっては啓蒙力にはなっていないと思います。産業として民芸がなりたつかといったら全然なりたたないですからね。
 
──沖縄で影響を受けた人ということでは、どうですか。 
 
松島 柳さんに関する詩人の清田政信さんの文章があって、それには沖縄で表現する人が沖縄のものに対してどういうふうに関わりきれるかということが出てきます。沖縄が沖縄たる所以は結果的には交通が遮断されて情報が入ってこないという部分が非常に沖縄を沖縄たらしめたというか。それに対して閉鎖状態だと思う人にとっては開放された方がいいということがあります。


地方とは身体であり、感受性の帰りゆく原点としての無言だから、それに根をおろさぬ表現は深さをもちえない、と。この身体をめぐる無言に形を与えきれない表現は、自然とであうことができない。反自然と言揚げした時代があった。これは枯渇をつき崩せない若年の逆説として、必然性をもっているが、精神を開く遠近の方法をもてない。平面に置かれて干上ってしまう。これを独自で抜け出せない者をひとかどの表現者と思ってはいけない。

関係の深い浸透がなければ風景はただのものにすぎない。たぶん沖縄の戦後思想が風景を成立しえない、したがって深部に根をおろさない時期があったのだ。青年はそれに敏感である。自虐というのは風景を発見できない精神の深さへ魅かれる本能である。 

清田政信「沖縄・私領域からの衝迫 柳宗悦にかかわりつつ」『詩・現実』1983年、詩・現実社、14〜29ページ 


 
──近代の毒を浴びた人にとっては共同体の方がいいということがある。清田の場合は一生懸命近代と格闘して、そのせめぎあいのなかで「沖縄」にかえるというか、沖縄を発見する。そのとき彼が誕生したということですね。それはアマチュアたちが民芸運動に共感を示していくのと基本的には同じだということですか。
 
松島 そうです。例えば清田さんはその中で「地方は身体である」という言い方をしていますが、今僕はそれをすごく実感できます。もう一つ、「自虐というのは風景を発見できない精神の深さへ魅かれる本能だ……」という言い方をする。この何か言いたいけども言えない、ここに何かあるわけです。 
 
──例えば柳さんが地方ということを言うのはやはり日本的な近代に対するアンチとしてですね。日本の近代というのは地方性をなくすことですからね。その意味で地方に生きている知識人にとっては地方の復権という主張がアピールするところがある。
 
松島 清田さんは獲得したんだけど実は沖縄はずーっと沖縄だったわけで、清田さんはそういう抽象性をつかめたということ。自分の半生を使って柳さんの思想とクロスしたみたいな感じなんですよね。
 
──清田にそういう捉え方を与えたところが、ある意味では柳さんの影響であり、そこに柳さんの功績がある。とすると、やはり職人じゃなくてインテリですね、影響を受けたのは。
 ところで、柳さんが沖縄で実際目にしたのは何だったかということですが。


2 柳が沖縄で見たものは何か

松島 やきもので言えば、首里王府が確立されてその財源を確保するために管轄地域にものを作らせるという形で民衆と関わっていたから、荒焼が圧倒的に主流だったわけです。これに対して上焼は、副葬品を中心として作られていたんです。それは思いを形に託さないで平面的に託す、絵をかいたり、いろんな色をぬったりして、その部分はとても丁寧にこまやかに作るんです。それは基本的には生活というよりは、むしろ死者との関係ですね。柳さんが集めたのはどちらかと言えば、このこまやかに作る部分でそれは当時のものづくりの中では主流ではない。
 
──そうすると実際には柳さんたちがみたものは雑器ではないんですね。
 
松島 そうです。 
 
──柳さんが沖縄の陶器から何らかのインパクトを受け、それが民芸理論の支えになったというわけじゃない?
 
松島 そうじゃないですね。荒焼と上焼から民芸理論と結びつくようなやきものは見つけていないと思いますね。器のかたちとかいうものではなくて、ただ、ものを作り出す仕事場の風景ですね。
 
──逆にいえば近代以前の職人の世界は、たぶんこうであっただろう、というイメージに壺屋なら壺屋がぴったりだった。
 
松島 はい。これは例えば柳さんが言ったものでは、李朝白磁の壺を作ったのも、そういう時代だったろうな、という。現実は極端に言ったら貧乏で飯も食えない状態だけれども、そういう実態として見ようというよりも、風景として見ていたんじゃないかな。
 
──ということになると、例えば荒焼などは柳さんを始めとして民芸運動に携わっている人たちの視野には入ってこなかったということですか。
 
松島 いや、これは微妙なところです。荒焼は要するにデザインというか意匠が全くない。形があるだけ。見るとしたら土しかないんですね。つまり背後を見るための手立てが、やきしめはものすごく具象性と抽象性を要求される、見ただけで全部わかる世界なんです。それは上等である、なんてのは関係ない、優劣もない、要するにものを蓄えなければ生きられない、蓄えるのに必要なものなんですね。ところが柳さんが見た「もの」というのは人間の思いとか、関係が非常に抽象化されているという感じがする。死者のための副葬品とか、その辺がひっかかっています。
 
──荒焼はさっき出たことでいえば人とものとの関係というものが、あまりにも直接的すぎるということがあるわけですよね。
 
松島 そうなんです。この直接性というのは逆に言えばものすごく抽象から出ているんですよ。だから要するに人間がものをつくる歴史からいえば、抽象から始まって具象になり、今あらたな抽象にかえりつく契機になっている。まさに荒焼はその間の具象の部分の典型なんです。これを理論化するといったら、行き詰まるか、一生をかけないと展開出来ないというくらい。柳さんは民俗学と民芸学とを使い分けているけれども、これは分けられない世界までも抱えこまないと出来ないと思います。
 
──そこへ行きつくだろうという気はしますね。つまり民芸の美の理念を結局信仰に求めたり、宗教的なもので説明するというのは美の根拠が分けられないというところにあるからだ、だからそれでしか説明 できないということなのかな。 
 
松島 そうですね。茶わんも実際使うということじゃないですよ。ほとんど副葬品として墓から出てきます。当時は米なんかあんまり食ってないでしょ、死後の世界で食えなかった米を大量に食いたいという願望もあったんじゃないかな。
 
──そういうふうにいえば、一番究極にいかざるをえないというのは、陶器で言えばあらゆる意匠をはぎとった荒焼だろうという気はする。
 
松島 もう一つやきものに関して言えば、厨子甕はだいぶ収集しているわけですが、厨子甕自体に宗教があり、美が集約されているとは言ってないけど、そういう言い方になっていますね。それと柳さんが、沖縄に対してこうしたらいいよ、と言っているのは一点だけ、赤絵のことだけです。沖縄にも指導者が出てきて欲しいと。新垣栄三郎さんたちを研修旅行につれていった狙いはこの辺にもあると思うんですよ。  (その2に続く)


「新沖縄文学」No.80、特集扉より






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