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第4回 平和教育再考_人はなぜ戦うのか

人はなぜ戦うのか。
この問いは、本来、
平和教育が避けて通ることができない種のものだと思う。

けれど実際の教育現場では、
この問いは深く扱われないか、全く扱われないことが多い。

国家が命令したから。
時代に流されたから。
洗脳されたから。
軍国主義だったから。
このような説明で済まされることが多い。

もちろん、それらは無関係ではない。
国家の命令もあっただろう。
社会の空気もあっただろう。
同調圧力もあっただろう。
けれど、それだけで、
人が自分の命を懸けて戦うということを説明しきれるのだろうか。
私には、どうしてもそうは思えない。

憎しみだけを原動力にして、
人は命をかけて戦うことはできるのだろうか。
少なくとも、長く、深く、死を覚悟するほどには続かないのではないか。
私には、人を戦場に向かわせ命を懸けさせるものは、
むしろ憎しみとは真逆のような感情に見える。

数多く残されている、戦地へ向かわれた方々の手記には、
憎しみよりは愛情が、守りたいという強い思いが、溢れている。
これは、どの国の兵士においてもそうだ。

母を守りたい。
妻を守りたい。
子どもたちを守りたい。
故郷や故郷の人々を守りたい。

戦争は、人間の尊厳を踏みにじるものであり、
死ななくてよい人々が死に、
残された者の心にも深い傷を残すものだ。
戦争は決して愛ではない。

けれど、戦禍で命を懸けていた方と向き合おうとすると、
そこには、愛する人や故郷を守りたいという思い、
仲間を一人では死なせたくないという思い、
利他的な愛が滲んでいる。

愛こそが、人を恐怖の中でも前へ進ませることがある。
これは、とても悲しい逆説だ。
戦争という極限の状況では、
人が持つ、自分以外の誰かを愛する能力が、
人を死地へ向かわせる力にもなっている。
守りたいからこそ、死ぬかもしれない場所へ行く。
生きたいという自然な欲求があるにもかかわらず、
それでも他者のために前へ出る。
これほど人間の利他性が発揮される悲しいかたちがあるだろうか。

だから私は、平和教育の中で、
国のために戦った兵士を、
ただの「加害者」や「国家の駒」のように教えることには、
強い違和感を覚える。
現在国防に関わっておられる方々に対してもそうだ。

無論、国家の責任は問わなければならないし、
誤った政策、戦争責任を曖昧にしてはならない。

しかし、だからといって、
過去に亡くなった兵士の思考や心理、
あるいは現在、国防に携わる方々の思いを、
考えなくて良いということにはならないだろう。

人間が持つ、
責任感や愛情や忠誠、
守るべきものへの執着がなければ、
人は極限状態で自分を差し出すことなどできない。
国家の命令だけでは説明しきれない、
人間本性から出る行動がここにあると私は思う。

一方で、現在の平和教育は、意識的であれ無意識的であれ、
イデオロギーに突き動かされがちである。
思考以前に正解とされる「型」があり、人間を見ていない。

人間本性を考えない平和教育は、
兵士や国防に関わる方々を単なる記号やレッテルで見て、教えがちだ。
こういう場合の「平和教育」は、たいてい雑に対立構図を作る。
「加害者と被害者」
「権力と非権力」
「善と悪」
このように線を引けば、たしかに整理はしやすい。
単純な線引きと善悪の判断ができれば、
「悪」を否定することは簡単だし、それ以上の思考も必要ない。

平和教育を受ける子どもの立場からすると、
その「型」に素直に従った言動をすれば、
「正義」側の人間として立つことができ、教師からは評価され、
自尊心や名誉欲を満たすこともできる。
これが、「平和教育」の名の下に繰り返されてきたパターンだ。

本来、「悪」と判断したものや、異なる考えの者を否定することは、
学問でも教育でもない。
もし平和教育が教育の一環ならば、
それは否定ではなく、理性的な批判であるべきだ。
ましてや子どもを「正義」の側に立つよう誘惑したり、
イデオロギーを植え付け同士にしようとするなど、以ての外だ。

だからこそ、平和教育において、
戦争の渦中の兵士や、国防に関わる方々の思いを知ろうとする姿勢は、
「悪」の断罪や、
思春期の子どもがもつ正義感に訴えることや、
「正義」側に立ちたい欲求、
あるいは子どもたちを妙なナルシシズムに陥らせないためにも重要だ。

人間が平和を求めながら愛を原動力に戦うこと、
このやりきれなさを教えないままでは、
戦争を理解しようとし、
本当に戦争抑止を目的とする平和教育を行うことはできないだろう。

当然ながら、平和教育に必要なのは、
兵士を美化することでもなければ、
逆に一括りにして断罪することでもない。
歴史的事実を前提とし、渦中の人々の思考や思いを汲み、
なぜ人がそこまでして戦うのかを、
人間本性の理解として考え、
自分ごと化し、現在の世界に適用して思考できるようになることだ。

これは戦争を肯定するためではない。
むしろ逆だ。
人がなぜ命を懸けてまで戦うのかを深く理解すればするほど、
「戦争反対」という言葉も、単なる標語ではなくなるはずだ。
いい加減、「戦争は悪である」と教えることの先に進まなければならない。
戦争の中で人間がどのように追い詰められ、
何によって動かされるのか。

人はなぜ戦うのか。
平和教育の中に、この問いがないならば、
それは現実の人間理解から離れた、欺瞞に満ちた、
危険なイデオロギー装置になり得ると思う。


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