第3回 平和教育再考_戦争はなぜ起きるのかー原因と構造を教える
戦争は、突如として起きるものではない。
このことは、平和教育の中でもっと重く扱われるべきだと私は思う。
実際の教育現場では、戦争はしばしば、
誰かが理性を失って始めてしまうものかのように語られがちだ。
指導者が暴走した。
権力が狂った。
だから戦争になった。
このような説明で済まされることが多い。
しかし、本当にそうなのだろうか。
私はそうは思わない。
戦争の火種は、
資源の逼迫や外交の行き詰まり、
自分たちの生活・安全・尊厳が脅かされているという感覚の高まりの中で、
少しずつ大きくなる。
ここで大事なのは、戦争を単なる「悪」の噴出としてだけ見ないことだ。
もちろん、侵略や虐殺や無差別攻撃は悪である。
しかし、平和教育が、単なる善悪の判断や、
「悪」の断罪にとどまるならば、
それは決して戦争の抑止にはならないだろう。
戦争そのものがどのように発生していくのかを考え、
そこにある構造を見ようとしなければならない。
戦争の背景には、まず経済の問題がある。
資源、食料、土地、エネルギーの不足、
海上交通路の封鎖や制限などにより、生活の基盤が揺らぐ。
あるいは、足りなくなるかもしれないという不安が高まる。
そのとき、人も共同体も国家も、平時とは違う判断に傾きやすくなる。
「普通の暮らし」を脅かす喪失への恐怖は、
攻撃にも防衛にも人を駆り立てる。
次に、安全保障上の不安がある。
相手が攻めてくるかもしれない。
いま動かなければもっと不利になるかもしれない。
放置すれば包囲されるかもしれない。
現代国際法のもとで国家は原則として武力行使を禁じられている。
しかし、例外もある。
加盟国が「武力攻撃」を受けた際、
安保理が安全維持の措置をとるまでの間、
個別的または集団的自衛の固有の権利を行使できる。
「どこまでが防衛で、どこからが先制・侵略なのか」は、
極めて重要な問題になる。
戦争は現実の攻撃だけでなく、
攻撃されるかもしれないという恐怖の中でも準備される。
さらに、外交の失敗がある。
相手を信じられなくなり、譲歩が弱さに見え、誤解が積み重なる。
誰も最初から全面戦争を望んでいなかったとしても、
出口のない対立が続けば、
人はしだいに「戦うしかないのではないか」と考え始める。
そして、民族や宗教、歴史認識をめぐる対立も大きい。
人は自己のアイデンティティを、無意識であっても、
言葉、記憶、祈り、祖先、土地、共同体などに結びつけて生きている。
それらが脅かされると感じたとき、人は非常に強く反応する。
共同体には、個別の人間と同様、自己保存本能のようなものがある。
個人であっても企業などの共同体であっても、
あるいは国家であっても、
自己存在を保持しようとする力が働くものだ。
それ自体は自然なものであり、悪ではない。
だが、それが過度の不安や敵意と結びついたとき、
自己保存の力が暴力として表出することがある。
だから、平和教育は「戦争はいけません」で終わってはならない。
それでは、戦争を引き起こす条件や過程、
人間や国家等の共同体の本性を学ばないからである。
本来教えるべきなのは、
どのような条件がそろうと共同体が追い詰められ、
戦争に傾き得るのかという構造理解である。
また、「戦争は悪である」とだけ教えることは、
現実に侵略を受けている側の防衛や、
虐殺を止めるための武力介入の問題を考えにくくなることも問題だ。
一方で、「防衛のためならば仕方がない」とだけ考えると、
今度は攻撃を正当化しやすくなる。
だからこそ、原因、目的、手段、終結条件などを分けて考える知性が要る。
加えて、仮に戦争が始まってしまった場合であっても、
何をしてもよいということにはならない。
民間人と戦闘員を区別すること、
無差別攻撃を禁じること、
戦争が繰り返し起こることが現実である以上、
平和教育は、本来この線引きも教えなければならないと、私は思う。
なぜ戦争は起きるのか。
どのような条件が人々を追い詰めるのか。
なぜ外交は失敗するのか。
共同体はどのように敵意を育てるのか。
どこで恐怖は臨界点を超えて暴力として表出し得るのか。
そして、どのような場合でも越えてはならない一線はどこにあるのか。
この問いを教えなければ、平和教育は役に立たない。
もちろん、戦争体験者の話を聞いたり、
戦時下の出来事や苦しみを知ることは重要だ。
それらに触れることで私たちは、
「戦争は決して繰り返してはならない」と思う。
そのとおりだ。
だからこそ平和教育は、そこで思考停止したり、
ましてや基地や国防に関することを否定したり、
その活動に参加することではない。
問いを立てて吟味検討すること自体が問題かのように植え付けることは、
決してあってはならないことだ。
戦争の惨禍に至る前の条件を見抜く知性を育てることこそ、
戦争抑止のために必要だ。
平和教育とは、本来、戦争の悲惨さを伝えることがゴールではない。
戦争がどうして起きるのかを理解し、その発生条件を見抜き、
少しでもそれを遠ざけるための知性を育てることこそ、
本来の役割であると私は思う。
