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第2回 平和教育再考_「戦争反対」という教育はなぜ浅くなりやすいのか

「戦争反対」という言葉を多用する平和教育に、
私はどこか物足りなさを感じることがある。

私は戦争に賛成しているのではない。
戦争は悲惨であり、起こらない方がよいに決まっている。
だから、「戦争反対」という言葉そのものを否定したいわけではない。
むしろ、その言葉が広く共有されていること自体は、
良いことなのだと思う。

けれど、それでもなお、私は思うのである。
「戦争反対」という言葉を、
平和教育の「目的」かつ「手段」とする教師や大人が少なからず存在し、
彼らが行う平和教育は、あまりにも浅くなりやすい、と。

なぜだろうか。

それは、その言葉があまりにも正しく、
あまりにも言いやすく、
それを言う人が誰であれ、
非難されようがないものだからだ。

そもそも皆、戦争には反対している。
死ぬことを望む人はいない。
家族を失いたい人もいない。
子どもを戦場に送りたい親もいない。
故郷を焼かれたい人もいない。

「戦争反対」は、最も自然な感情であり、最も当然の言葉である。

だからこそ、
その言葉だけで何かを語った気になることに、私は危うさを感じる。

そもそも戦争は、
戦争が好きな人、あるいは、
戦争に反対しなかった人が起こすものではない。
戦争は、戦争を好む人の「悪意」から生じるのではない。
このことは、平和教育を行う上での前提として、
認識されるべきことだと思う。

戦争は、「悪意」というよりはむしろ、
資源の不足、あるいは侵攻されるかもしれないという危機感、
家族や故郷を守らなければならないという責任感、
このような「恐れ」や「善意」が幾重にも折り重なって生じる。

戦地で戦う兵士たち。
少し前まで、普通の父親や兄や息子だった人たちも多くいる。
彼らだって平和を願っているし、
戦地に行きたくはないし、生きて帰りたい。

それでも命を懸けて戦う。
なぜそのようなことができるのか。

家族を守りたい。
故郷を守りたい。
仲間を見捨てたくない。
自分がここで引いたら、もっと多くのものが失われるかもしれない。

愛するものを守りたいという思いが、
命を懸ける戦いを選ばせることがある。
間違いなく、戦争には、利他的な側面がある。
それも、自らの命を投げ打つほどの利他が。

この悲しい逆説を見ないまま、「戦争反対」とだけ言っても、
戦争の実相の理解には届き得ないのではないかと私は思う。

平和教育における「戦争反対」という言葉が浅く、
使われる状況や方法によっては、むしろ排他性を含んで見えるのは、
それがしばしば、
「自分が正しい側に立っていることの表明」
に終始しているからではないだろうか。

私は戦争に反対です。
私は平和を愛しています。
私は暴力を否定します。

そのように言うことによって、
一見するとその人の立場は清いように見える。
しかし、その言葉を使う状況や方法によっては、
その振る舞いこそが無自覚な暴力になっていることさえある。

本当に平和を希求するなら、
平和教育は、「戦争反対」と表明することで止まってはならない。
思考停止に陥らず、問いを立てて考えなければならない。

なぜ戦争は起きるのか。
共同体はどのように恐怖に支配されるのか。
どこで抑止は機能しなくなったのか。
どんな条件がそろうと、人は「戦わなければ」と思い始めるのか。

そうした問いを考えないまま、ただ「反対」と言うだけでは、
真に戦争抑止となる平和教育となるはずがない。

「戦争は悪いことです」
「だから二度と繰り返してはいけません」

それはもちろん間違っていない。
けれど、そこで止まってしまえば、子どもたちは結局、
戦争を道徳的に嫌うことは学んでも、
戦争を防ぐために本当に必要な知性を磨くことはできない。

そしてもう一つ、私は思う。
「戦争反対」という言葉が浅くなりやすいのは、
その言葉の中に祈りが欠けているからではないかと。

本当に戦争に反対するなら、
命をかけて戦った兵士たち、
残された家族、
空襲で焼かれた人々、
敗戦後に歯を食いしばって生きた人々、
過去に苦しんだ人々の前に立ち止まるはずである。

その一人ひとりの苦しみを、
自分とは別の種類の人間のものとしてではなく、
もし時代が違っていたら、
自分もその中にいたかもしれないという想像力の中で受け止めること。
そのような感受性なしに「反対」と言っても、
それはただの標語になってしまう。

私は、「戦争反対」という言葉そのものを捨てるべきだとは思わない。
けれど、その言葉に満足してはいけないと思う。
それは自明のことなのだから。

なぜ起きるのか。
なぜ防げなかったのか。
何が人を戦わせるのか。
何が越えてはならない一線なのか。
戦争に巻き込まれた人々の苦しみを思い、
祈ることができる感性を育てなければならないと、
私は思う。

「戦争反対」と言うのは簡単だが、
平和を守り続けることはそれほど簡単ではない。
だからこそ私は、その言葉の先の平和教育を考えたいのである。

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