第1回 平和教育再考_思考力と倫理性を育てるために
第1回 平和教育の違和感と課題
私は、今の平和教育に違和感がある。
戦争は悲惨だ。
戦争が起きてほしくないし、起こしてはならない。
だから、戦争の悲惨さを子どもたちに伝え続ける教育は重要だ。
それはわかっている。
しかし、それにもかかわらず、平和教育という言葉を聞くたびに、
私はどこか空疎なものを感じてしまうのだ。
なぜだろうか。
それは多くの場合、
平和教育があまりにも単純な図式で語られる傾向があるからだと思う。
たとえば、
「戦争をしたがる権力がある」、
「それに対して非権力の市民が反対の声を上げる」、
「だから戦争反対を叫ぶことが大切だ」というような図式だ。
この構図がまったく間違っているとは言わない。
実際、権力の暴走を監視することは重要だし、
市民が声を上げることが必要な場面もある。
しかし、それだけでどうして戦争を理解し抑止することになるだろうか。
私はどうしても、そうは思えない。
戦争は、そんなに単純なものではない。
戦争をしたい人がいて、平和を愛する人がそれに反対する。
そのような場面は、あるのかもしれない。
けれど、現実の戦争は、
もっと複雑で、もっと人間的で、もっと構造的なものであるはずだ。
資源の不足。
安全保障上の不安。
外交の失敗。
民族や宗教の対立。
共同体が自分たちを守ろうとする本能。
恐怖。
誤算。
責任感。
こうしたものが折り重なって、戦争は起きる。
突如として起きるものではない。
「悪い権力者が始めるもの」とだけ言って済む話ではない。
当然ながら、
戦争で実際に戦う人々は必ずしも「戦争が好きな人」ではないだろうし、
むしろそんな人はごく少数か、そもそもいないかもしれない。
本当は誰だって死にたくないはずだ。
家族を失いたくないし、自分の暮らしを壊されたくない。
それでも、人は戦うことがある。
家族を守りたいから。
故郷を守りたいから。
仲間を見捨てたくないから。
侵攻を少しでも食い止めたいから。
戦争そのものは無論、愛ではないが、
愛するものを守りたいという思いが、
人を死地に向かわせることは確かにある。
その悲しい現実を見ずに、平和教育として、
ただ「戦争反対」とだけ教え、
あるいは、基地や国防に関わる方々を、
簡単に否定する教師や大人がいることに、
私はどうしても憤りと虚しさを覚える。
私は、平和教育とは、本来もっと重く、
もっと人間を知るべきものだと思っている。
平和教育は、子どもたちに「戦争反対」「戦争は悪だ」と、
標語を教えて終わることではない。
また、時代ごとの政治的な空気を、
そのまま教育の名のもとに流し込むことでもない。
本来の平和教育とは、
なぜ戦争が起きるのかを考え、
人はなぜ戦うのかを考え、
何が越えてはならない一線なのかを考えたり、
戦闘員であっても非戦闘員であっても、
戦勝国であっても敗戦国であっても、
戦禍を生きた人間の苦しみや葛藤を雑に扱わない感受性と、
真っ当な思考力を育てることであるはずだ。
そこには、避けてはならない問いがいくつもある。
なぜ戦争は起きるのか。
そもそも「戦争」といっても、様々な種類と評価があるのではないか。
例えば、侵略と防衛など、区別して分析することができるのではないか。
戦争に突入する前に検討すべきこととして歴史から学べることは何か。
仮に戦争が始まってしまったとして、
被害を最小限に食い止めるには何ができるか。
国家責任と、死んでいった個人の尊厳とは、
どう切り分けて考えるべきなのか。
人はなぜ戦うのか。
人が命をかけてまで戦うその原動力は何なのか。
戦争にまつわる様々な問いをたてることが重要だ。
問いこそ思考を促し、問う人間たちで構成される社会こそ、
本当の戦争抑止が機能する前提となる。
私は、平和教育が、問うことから逃げている、
あるいは避けているように感じることがある。
そしてその結果、平和教育が、
いつのまにか「とにかく戦争反対と叫ぶ人が善である」、
という浅い構図に流れてしまっているように見える。
本当は皆、戦争には反対なのである。
死にたい人などいない。
子を失いたい親も、夫を失いたい妻も、故郷を焼かれたい人もいない。
だからこそ「戦争反対」という言葉だけでは足りない。
その先を考えなければならない。
なぜ起きるのか。
どう防ぐのか。
起きてしまったとき、何が許されず、何を守らなければならないのか。
その問いに向き合うことなしに、本質ある平和教育にはならないと思う。
私は誰かを論破したいわけでもないし、対立を煽りたいわけでもない。
平和教育の中身を問い直し、本質を取り戻したいのだ。
私はただ、戦禍の人々の思考、苦しみ、あるいは死者の尊厳、
あるいはまた、いま生きている高校生の命まで、
あまりにも軽く、
あまりにも雑に扱っているように見える現在の「平和教育」に、
耐えられない思いなのである。
私はかつて、中高一貫のミッションスクールで教師をしていた。
本来のミッションスクールとは、
他者の痛み苦しみを自分ごとのように感じて寄り添える人間性を育て、
社会的存在として自分も他者も共に幸せに生きる前提となる倫理性を育て、
自分も他者もより善く生きるために問い続ける知性を育て、
行動を伴う本当の祈りが、
生きることと連結しているような人間を育てることではなかったか。
教育は、国家の礎であり、
人々が倫理的な社会で幸せに生きるための要件であり、
全うな内容と方法であるべきものだ。
もしそれができなくなっているミッションスクールがあるならば、
それはもはやミッションスクールではないのではないか。
教育に人生を捧げた創立者たちや、キリストの精神を忘れたのか。
本質が失われた平和教育を、私は憂いている。
平和教育が、ただの標語の反復や、
時代や環境の空気に合わせた態度表明で終わるなら、
それはあまりにも愚かであると思う。
平和教育とは、本来、
人間が平和を維持するための知性と倫理性を育てる営みであるはずだ。
平和教育で何を教えるか、どう教えるかは、決して軽い問題ではない。
今の平和教育には何が足りないのか。
また、どのように教えることが可能なのか。
いま私は、教育現場を離れて民間で働いているが、
平和教育について私が感じる違和感と、
かつての自分自身の取組みを踏まえながら、
いま一度考察してみようと思う。
