自由に選べる時代の、選べない苦しさ
恵まれているのに、なぜ苦しいのか
「今の若い子は恵まれている」と言う大人は多い。
コンビニには世界中の食材が並び、スマホひとつで世界中の知識にアクセスでき、治安は良く、水道水はそのまま飲める。たしかにそうだ。焼け跡から復興し、食べることさえ苦しかった時代を知る世代からすれば、今の若者の悩みは贅沢に映るかもしれない。
けれど、恵まれていることと、苦しくないことは同じではない。
道がなくなった、という感覚
昔の若者には、選択肢の少なさという窮屈さがあった。男はこう生きる、女はこう生きる、いい学校に行き、いい会社に入り、結婚して、家を持ち、定年まで勤め上げる。そこには息苦しさがあった。でも同時に、道は見えていた。
今は違う。就職してもいいし、転職してもいい。起業してもいいし、フリーランスでもいい。結婚してもしなくてもいい。子どもを持っても持たなくてもいい。都会にいても地方に移ってもいい。
自由になったのだ。
しかし自由には、選択の責任がついてくる。選べることは幸せだが、選ばなければならないことは、実は苦しい。誰も「これが正解です」と示してくれない道を、自分の判断だけで歩かなければならない。これは、昔の若者が経験しなかった種類の重さだと思う。
見通しが立たないという疲れ
高度成長期には、社会全体に「今は大変でも、明日は今日より良くなる」という共有された感覚があった。この感覚の強さは、想像以上に人を支える。
今の若者が未来を見るとき、そこにあるのは違う景色だ。給料は上がるのか。年金はもらえるのか。結婚できるのか、子どもを持てるのか、家は買えるのか。AIで仕事はどうなるのか。
これは個人の気合いの問題ではない。社会そのものの未来像が描きにくくなっている。若者が求めているのは贅沢ではなく、ただ「人生の見通しが立つこと」なのだと思う。
常に比較される日常
団塊の世代や、少し上の世代が若かった頃と決定的に違う点がひとつある。SNSによって、若者は常に他人の人生を見せられているということだ。
同級生の結婚、友人の海外旅行、同年代の成功、誰かの美しさ、誰かの充実。しかも、見えているのは編集済みのハイライトにすぎない。それでも見る側は、それを現実として受け取ってしまう。すると、自分のありふれた日常が、劣っているように見えてくる。
比較そのものは昔もあった。近所や学校、親戚との比較はあっただろう。でも今は、比較対象が無限にあり、しかも24時間ポケットの中に入っている。これは静かに、しかし確実に心を削っていく。
失敗が消えない、という怖さ
もうひとつ、現代特有の重さがある。失敗が保存される、ということだ。
昔なら、その場で叱られて終わったことが、今はデジタルに残る。発言はスクリーンショットされ、過去の投稿は検索され、一度のミスが拡散する。だから若者は慎重になる。それは根性がないからではない。失敗のコストが、実際に高く見えるからだ。
「失敗して学べばいい」という言葉は正しい。けれど彼らの生きている世界では、失敗はその場で終わらず、ずっと残り続けるように見えている。この感覚の違いを理解しないまま、若者の慎重さを単なる弱さだと片づけてしまうのは、少し乱暴だと思う。
人間は本来、練習しながら大人になる。恥をかき、揉め、叱られ、へこみ、少しずつ直しながら社会性を身につけていくものだ。ところが今は、その練習中の未完成な姿が、いきなり本番として記録され、比較され、評価されることがある。補助輪をつける前に、公道に出されているようなものだ。それでは、挑戦しにくくなって当然だろう。
正解を求めるように育てられて、正解のない世界に出る
学校教育には、基本的に正解がある。テスト、偏差値、内申点、面接、資格。若者はずっと、測定され、正解を当てる訓練を受けてきた。
けれど社会に出れば、正解はない。あるのはただ、最善解だけだ。
この落差は、思っている以上に大きい。若者が「正解はなんですか」と聞きたくなるのは、正解主義だからではなく、正解を求めるように育てられたのに、正解のない世界へ放り出されているからだ。
「普通」の難易度が上がっている
昔の「普通」は、学校に行き、就職し、結婚し、子どもを持ち、家を買い、定年まで働くというモデルだった。今、この「普通」を再現するのは、かなり難易度が高くなっている。正社員になっても安心とは限らない。結婚も簡単ではない。子育ては経済的にも精神的にも重く、家は高く、親の介護も見え始め、自分の老後も不安だ。
それでも社会のどこかには、まだ昔の「普通」の残像がある。誰もが到達できたはずのラインが、実は到達困難になっているのに、周囲はまだそれを標準だと思っている。この矛盾が、若者を静かに苦しめている。
一言でいうなら
こうして並べてみると、現代の若者の悩みを一言で言い表す言葉が見えてくる。
自由に選んでよいと言われているのに、選んだ結果を引き受けるだけの安心感がない。
昔は、自由が少ない代わりに道があった。今は、自由がある代わりに、道を自分で作らなければならない。しかも、道を作るための資源――親の経済力、教育環境、健康、人間関係、初期キャリアで出会う機会――は、人によって大きく違う。
だから若者は、「自由なのに苦しい」という矛盾を抱えている。これは、気合いや根性で解決できる種類の苦しさではない。
タイパは、時間への軽蔑ではない
この文脈で見ると、「今の若者はタイパ主義だ」という批判も、少し違って見えてくる。
情報は、若者の周りにあふれすぎている。動画、SNS、ニュース、就活情報、炎上、トレンド。すべてを丁寧に受け止めていたら、時間も心も足りない。だから「これは自分の時間を使う価値があるか」を高速で判断する。これは怠惰というより、情報過多の時代における防衛反応だ。
そしてその奥には、「間違った選択をしたくない」という不安がある。外れの会社に入りたくない、報われない努力をしたくない――時間の節約というより、人生の失敗回避に近い。
面白いのは、若者がすべてにタイパを求めているわけではないということだ。推し活やゲーム、創作、旅行、友人との時間には、むしろ膨大な時間を惜しみなく使う。つまり彼らは、時間を使えないのではない。自分にとって意味のあるものには深く使い、意味の見えないものには使いたくないのだ。タイパという言葉ひとつで彼らを裁くのは、実態を見誤らせる。
若者に必要なもの
ここまで見てくると、若者に必要なのは、単なる激励ではないとわかる。
必要なのは、まず見通しだ。今、何が起きていて、自分はどこにいて、次に何をすればいいのか、一緒に整理してくれる誰か。
次に、安心して失敗できる場所だ。挑戦しろと言うなら、同時に離脱口や回復手段、失敗を責めない文化がなければ、挑戦は求められない。
そして、比較から降りる方法。あなたの人生は、他人の編集済みのハイライトと比較するものではない、という言葉を、誰かが渡してやる必要がある。
最後に、意味を見つける手助けだ。若者は命令では動きにくいが、なぜこれをするのか、誰の役に立つのかがわかれば、動ける人は多い。
恵まれていることと、苦しくないことは違う
スーパーには世界中の食べ物が並び、スマホで世界中の知識にアクセスできる。日本は治安もよく、暮らしやすい。それでも人は悩む。他人から見れば取るに足らないことで、人生全体が暗く見えることがある。
悩みの大きさは、外側から測れる量では決まらない。それが、本人の世界をどれだけ占有しているかで決まる。だから、若者の悩みを「贅沢病」と切り捨てる前に、私たちは一度立ち止まる必要がある。
彼らは、自由という贈り物を渡された。でも、その自由をどう使えばいいのか、選んだ結果をどう引き受ければいいのか、それを一緒に考えてくれる大人は、まだ十分に足りていない。
道がなくなったのではない。道を、これから一緒に作っていく必要があるのだと思う。
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