毘沙門天と徳川家康|古文書|「多聞山毘沙門天王之縁起」|596文字に込められた、家康公への強い畏敬の思い
徳川家康公の陣中守り本尊であった、毘沙門天をご本尊とする多聞山天現寺(東京港区)は、1719年(享保四年)に開山(創建)されました。そして、ご本尊と開山の由来を記した「多聞山毘沙門天王之縁起」を載せた『縁起集』が、1727年(享保十二年)に幕府大学頭の林信允により編纂されました。
時代背景
天現寺の開山と「多聞山毘沙門天王之縁起」の編纂は、江戸三大改革(享保、寛政、天保)の一つ、八代将軍吉宗公により主導された享保の改革の時代です。

八代将軍 吉宗公
吉宗公が第八代将軍の宣下を受けたのは、家康公没後からちょうど百年目です。吉宗公は、家康公を自身のご祖先としてだけではなく、戦国乱世の時代を乗り越え天下統一を果たし、強固な政治基盤を築き上げた、偉大な政治家として深く尊敬していました。そして、その政治理念を自身の幕政の範とし、その思想と実践を強く継承しようとした、特異な将軍と言われています。
吉宗公の享保の改革と、家康公の天下統一・徳川幕府確立期の治政とは、家康公の築いた幕府の基礎理念への回帰と再構築という点で深く結びついています。
吉宗公の享保の改革は、単なる目の前の危機を乗り越えるためだけでなく、家康公が開府した徳川幕府の理念や統治体制に立ち返り、それを吉宗公の時代に合った形で再構築しようとする強い意志によって貫かれていたと考えられます。吉宗公は、家康公の治世を徳川幕府の原点と捉え、その強固な政治基盤を再度確立することで、徳川幕府の長期的な安定を目指したと考えられます。
享保の改革
江戸の三大改革(享保、寛政、天保)のうち、将軍自ら主導したのは、吉宗公が行った享保の改革だけです。そこには、吉宗公の家康公に対する強い畏敬の思いが込められています。
質素倹約が推進され新しい神社仏閣の建立が制限されるなか、徳川家直臣の私邸でお祀りされていた毘沙門天を、新たにお堂を建ててお祀りすることとなりました。そして、小日向御箪笥町にあった普明寺を再興し、多聞山天現寺と改めて開山されました。
そして、毘沙門天の由来を記した「多聞山毘沙門天王之縁起」が、編纂されました。これは、享保の改革を進めた吉宗公の家康公に対する強い畏敬の思いの表れと考えられます。
1.財政基盤の再建と質素倹約の推進
家康公は、戦乱の世を収め、徳川幕府の財政基盤を確立するために、徹底した質素倹約と新田開発、鉱山開発などを推進しました。莫大な戦費を必要とした時代から、いかに効率よく経済を運営し、蓄えを作るかに腐心しました。
綱吉公(第五代)・家宣公(第六代)・家継公(第七代)と続く時代の幕府財政は、武断政治から文治政治へ移行し、奢侈な風潮と災害などにより悪化していました。吉宗公は、この状況を立て直すため、家康公が実践した質素倹約の精神を強く打ち出しました。吉宗公自らも質素な生活を送り、大奥の費用削減や幕臣の俸禄見直しなど、徹底した支出削減を行いました。また、新田開発の奨励も家康公の時代同様に力を入れ、米の増産による財政強化を図りました。これは、家康公が確立した米を基盤とした幕府財政を再構築しようとするものでした。
2.武断政治の精神の再評価と綱紀粛正
家康公は、武士が中心となる社会を築き、規律を重んじる武断政治を基本としました。武家諸法度の制定などにより、大名を統制し、幕府の権威を確立しました。
その後、文治政治が長く続いた結果、武士の規律が緩み、綱紀の乱れが指摘されるようになりました。吉宗公は、家康公が重んじた武士の質実剛健な精神への回帰を促し、綱紀粛正を徹底しました。武芸奨励などもその一環であり、徳川幕府の統治能力と武士の士気を高めようとしました。
3.法制度の整備と公正な政治の追求
家康公は、武家諸法度や禁中並公家諸法度など、明確な法制度を整備し、それに基づいて天下を統治しました。これにより、安定した幕藩体制の基礎が築かれました。
吉宗公は、公平な裁判の実現を目指し、公事方御定書を制定しました。これは、それまでの慣習法を体系化し、裁判の基準を明確にするもので、家康公が築いた法治国家としての徳川幕府のあり方をさらに深化させるものでした。また、目安箱の設置は、庶民の意見を直接聞くことで、家康公が重んじた民を安んじるという政治理念を、時代に合わせて具体化したものと言えます。
4.将軍親政の強化と中央集権化
家康公は、征夷大将軍として強大な権力を持ち、将軍自らが政治の実権を握る将軍親政を確立しました。
吉宗公の時代以前は、綱吉公以降、側用人政治が中心となり、将軍の権威が相対的に低下していました。吉宗公は、自ら改革の先頭に立ち、将軍親政を復活させることで、徳川幕府の中央集権体制を強化しました。これは、家康公が確立した将軍を中心とする徳川幕府の統治体制を、再び強固なものにしようとする試みでした。
5.公文書および記録の整備
吉宗公は、法と武士による国家運営を基礎から支える、公文書の整備と管理を進めました。記録文書,公文書,古文書等を保管・管理する、機能・施設・組織をアーカイブと言います。アーカイブ整備として、次の施策が実施されました。『縁起集』/「多聞山毘沙門天之縁起」の編纂も、アーカイブ施策の一環であり、かつ家康公の偉業を伝えるものであったと考えられます。
・江戸城内紅葉山文庫の充実(1722:享保七年)
・全国諸寺院への仏教書・唐本の幕府への目録提出指示(1729:享保十四)
・戦国大名家からの古文書収集(1736:元文元)
・徳川旧領からの古文書収集(1742:寛保二)
多聞山毘沙門天王之縁起
多聞山毘沙門天王之縁起が掲載されている『縁起集』は、寺社仏閣の縁起・由来や飢饉・災害の記録が記された書物で、全6冊で構成されています。 多聞山毘沙門天王之縁起は、第6冊(20番目)に収録されています。
《縁起集に収録されている項目》
(1)「養老両霊水略縁記」、(2)「〈伊賀越敵討実録略記〉絵本童偽寄」、(3)「笠森寺略縁起」、(4)「西国第五番札所河内葛井寺略縁起」、(5)「美濃国谷汲山華厳寺略縁記」、(6)「車塚由来」、(7)「西国第二番札所紀三井寺略縁起」、(8)「御江戸大地震大破并出火類焼場等書上之写」、(9)「大地震并山崩大火水押人死田畑水損有増記」、(10)「信州姨捨山縁記」、(11)「出流山満願寺千手院略縁起」、(12)「勅法東大悲山笠森寺略縁由記」、(13)「〈信州筑摩郡木曽上松駅〉寝覚浦島太郎略縁記」、(14)「竹駒社略縁記」、(15)「如来出現縁起略」、(16)「〈新板〉鎌倉名所記」、(17)「六孫王神社略記」、(18)「宇賀弁財天略縁記」、(19)「藤沢山遊行上人永代施餓鬼講」、(20)「多聞山毘沙門天王之縁起」、(21)「麻布善福寺釈了海略伝」
多聞山毘沙門天王之縁起の内容は、次の記事に原文,翻刻,読下し,現代語訳と共に記載しています。
江戸名所図会
『江戸名所図会』は、1834年(天保五年)に神田の町名主であった斎藤幸雄,幸孝,幸成の親子三代によって刊行された、江戸とその近郊の名所案内を載せたガイドブックです。天現寺は第三巻の七に、「広尾毘沙門堂」として記されています。その解説には、「多聞山毘沙門天王之縁起」の内容(596文字)が、加筆抜粋することなくそのまま転記されています。これに因り、毘沙門天のご威光が広く庶民に伝わることとなりました。

江戸名所図会の内容は、次の記事に原文と共に記載しています。
縁起の解説
天現寺とご本尊の縁起について、次の記事に解説を記載しています。
参考資料
吉宗と享保の改革(大石学:東京堂出版)
徳川吉宗(笠谷和比古:ちくま新書)
